論理と、論理じゃないもの。


僕は、異常なまでに、「構造を把握」したり、「その存在の正しい姿を理解」することに、強い興味があります。

なぜそのような傾向を持っているのか、その理由はよくわかりません。

ただ、中学の頃から「哲学」という分野に興味があったことや、音楽のなかでも「クラシック音楽」に親和性があったことは、その傾向を持っているということへの裏付けになるような気がしています。


哲学に出会って、哲学の本を読みあさっていた中学校時代。

僕は相当に偏屈で、面倒くさい少年だっただろうなと思います。


たとえば。


ある日、「自然破壊と環境問題」についてのトピックが授業のなかで扱われたときに、僕はこんな主張をしました。

「人間による自然破壊」というが、そもそも人間は「自然」から生み出されたものだ。ということは、人間もまた「自然」である。そして、「自然」である人間が起こす行動も「自然」のはずだ。であるならば、「自然」である人間の行動によって起こされる環境破壊もまた「自然」の出来事なのではないか。

この頃の僕は、「自然」と「自然でない=人工的事象」の境界線についての疑問を強く持っていたんでしょうね。


この偏屈さを僕は、大学4年ぐらいまで抱えていたように思います。

いや、見方によってはいまでもそれを抱えているのかもしれない。楽曲や戯曲の、理論的側面に異様に惹かれる傾向はいまも持っているから。


とはいえ。

特に尖っていた(=理詰めで話していた)高校大学時代の僕を知っている後輩や同級生は、いまの僕に会うと口を揃えて言います。

山野、丸くなったね。


と。

僕自身も、丸くなったと思います。

なぜそう思うようになったか。

世の中は、論理的な正だけで回っているわけではないと知った

からだと思います。


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論理的な正しさは、ときに人を傷つけます。

僕はそうやって、たくさんの人を傷つけてきたように思います。

ときに同級生、ときに先輩、あるいは親、その当時の恋人とかも含まれるかもしれない。

「正論はたしかに正しいが、心は正論だけでは動かない」

このことを理解できるようになったのは、僕が演劇に出会ってから。それこそ、ここ3〜4年です。


数学者の岡潔と評論家の小林秀雄の対談「人間の建設」のなかで岡潔がとある数学的証明のことを紹介しています。

ある証明のなかで、ある数が実数であると同時に、虚数である、というものがある。

これは、数式として証明していくとたしかにそうなるのだ。

けれどその証明が論文として発表された当時、多くの数学者がこの証明に納得しなかった。

なぜなら、実数でありながら虚数でもある、という数の存在を、論理的には受け入れられても、感情的には受け入られらなかったからだ。

つまり、人間が「納得する」というためには、論理的な正しさだけではなく、ある場合には論理的な正しさよりも、感情的・感覚的に受け入れられるかどうかが、強い影響を与えるのではないか。

そんなことが、岡潔の口から語られています。


僕がこの本を読んだのはたしか、高校生の頃だったけれど、当時はこの言葉の本当の意味はわかっていなかったように思います。


もし僕が演劇に出会っていなかったら、ずっとずっと、「論理的な正」ばかりを主張し続けるような生き方をしていたのかもしれません。

いまでも、「論理的な正」を大切に思い、それを追い求めること素晴らしさは、僕の人生においての大きな軸となっています。

けれど演劇に出会ってからは、

言葉では言い表せないこと

言葉になる前に生じる、人間の心の動きの力

言葉にしなくても伝わるもの、の重要性

を、知ることができました。



僕たちは、人と関係を紡ぎながら生きていかねばなりません。

なぜなら、人間は、社会を形成することによって生存競争を勝ち抜いてきたから。

もしかしたら、現代社会においては、ひとりで生きていくことだってできるかもしれない。

誰とも話さず、部屋に引きこもって、ご飯はコンビニか、宅配か。

それはある意味、「ひとりで生きていく」というひとつの形になるかもしれない。

でも、そういう生活をしながらも、本を読んだり、テレビを見たり、あるいはインターネット上で自分を偽ったりしながら他人とコミュニケーションをとったりしている。そういうこともあると思う。


本を読むことや、テレビを見ること、ネットで人と関わることはすなわち、「人と関係を紡ぐこと」に他ならないと思うのです。

人間は、孤独を抱いて生きる生き物だと思う。

そして、なにかしらの形で、人との繋がりを渇望して生きていく生き物だとも思う。


演劇に出会う前の僕は、人との繋がりを渇望しながらも、どうやって人と繋がればいいかわからないという焦燥に駆られ続けた故に、自分を裏切ることのない「論理」に自分の心の平穏を預けていたように思います。

いまは、「論理」を介在させなくても人と繋がることはできるんだという確信を、演劇を通して得ることができたから、「論理以外のもの」も大切にしながら生きていられています。


もしかしたら、目の前にいるある人が、なにかひとつの考え方に固執しているとき。

その人は、「その考え」に固執することによって、「人と繋がりたいという渇望」を満たしているのかもしれない。

たとえば、その人が人に対して攻撃をするばかりのようなコミュニケーション方法を取っていたとしても、その裏には、「人と仲良くしたい」という思いがあるのかもしれない。

そういう心の動きの多様性を知ったことで、僕は、昔の僕よりもある程度は丸くなれたような気がしています。


でも、傾向として持っている「構造を把握」したり、「その存在の正しい姿を理解」することへの強い興味は、失うことはない。

むしろ今、役者や歌い手としての僕にとって、こういう分析的な思考が武器となってくれています。周りからどう見られているかは知らないけれど、少なくとも僕自身はそう思っている。


僕は、あるときまで、論理を盾にして生きてきました。

でも、論理を大切にすることで、自分の心を救ってきたという側面もある。

だからこそ、論理の素晴らしさも、論理でないものの素晴らしさも、いまは理解しています。


僕が書く文章は、ときおり、しゃっちょこばっていて読みづらいかもしれないけれど、その根底には、「論理的であること、や、考えること、の美しさを知っている」というポリシーがあるのです。



読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。