命を扱う仕事。


「クレイジージャーニー」という番組が大好きなのです。

で、その「クレイジージャーニー」でこのあいだ、花屋でフラワーアーティストの東信さんの特集回があったのです。


いちど、なにかの別の番組で東さんのドキュメンタリーをやっていて、「なんだこの人、尖ってる!ぶっ飛んでる!やばい!」と思ってから、けっこう僕の中で印象的な人物として残ってるのですが、

やっぱりあらためて見てもやばかったです。


いちばん痺れたのはアレンジメントを作るにしても、「美しく枯れさせる」ことを見据えているという点。

花は生き物だから、枯れるまでの時間や枯れ方も千差万別。

ゆえに、早く枯れてしまう花の下にそれと入れ替わりで咲き始めるような品種を挿しておいて、アレンジメント自体が時間経過を経ても美しくありつづけるようにする。

もちろん、「咲き誇っている花」ばかりが美しいという価値観ではなく、枯れてしまった花のその姿さえも「美しさ」のなかに含めている。


僕はそのポリシーの裏側に「命を扱っている」という意識を感じました。


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どうやら僕は、「命を扱っている」という意識のもとでされる仕事が好きなようです。

たとえば猟師、たとえば漁師。あるいは料理人。

東信さんのような花屋もそうだし、造園業みたいなことも。

そういった「直接的に生きているもの(や、生きていたもの)を扱う」ということに対して真摯である姿勢を持った仕事の仕方が好き。なかには自分の扱う命を、ただの商品としか捉えてない人だっているだろうし。


あるいは、僕がやっている「演劇」や「音楽」という仕事も、じつは命を扱う仕事なのです。

生身の人間が、生身の身体を使って表現する。それを、生身の人間が見たり聞いたりして受け止める。ここには絶対的に、命のやりとりが内包されています。

さらに言えば、僕らがそうやって自分自身の身体で表現しようとしているものは、やはり「命」なのです。

自分ではない誰かの人生に思いを馳せ、心を寄せ、いまの時代を生きている誰かの心や命が健やかになるようにと祈りながら、歌い、踊り、演じる。

「そこに命がある」ということをないがしろにした表現は、僕はあまり好きではありません。


あと、僕がいちばん心を痛めているのが「教育」という場での「命」の扱われ方。

「学校教育」という範囲だけでなく、たとえば僕の身近で言えば「歌や芝居のレッスン」の場なども。

人間と人間が向き合って、もちろんそこでは教える側・教えられる側という役割の違いはあれども、教えることを通して「自分が誰かに影響を与える」という点をよくよく考えると、「人の命を預かること」に繋がると思うのです。

だって、たとえば僕が教える立場だとして、たったひと言で生徒の「心」を傷つけてしまうことがあるかもしれない。それを押し進めたら、生徒の「命」までをも傷つけてしまうことがあるかもしれない。

逆も然り。

生徒のふるまいによって、教える側を傷つけることだってあるわけで。


「命を扱う」というのは、「傷つける可能性があるし、傷つく可能性がある」ということから目を背けないことだと思うのです。

花ひとつとったって、本当は「やはり野に置けれんげ草」なのかもしれない。摘み取らずに、大地に生かしておいたほうがいいのかもしれない。

にもかかわらず、その命を刈り取り、活ける。だからこそ、刈り取った命がより美しくありつづけるように、より長く生きられるように心を傾ける。


僕はどこまでいっても、いくつになっても、「私は、命を扱っているのだ」ということを忘れずに、歌い続け、演じ続けていたいと思います。




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