見出し画像

「天保十二年のシェイクスピア」の、もうひとつのごちゃ混ぜ。


ただいま出演中の「天保十二年のシェイクスピア」が、昨日東京公演の中日を迎えたようです。

なんか、あっという間というか、怒涛の前半戦でした。

運動量も多く着替えも多く、重心の低い姿勢も多く、声帯への負担も大きい今回の作品、なかなかエキサイティングに毎日が過ぎていきます。

まずは大きな怪我なく故障なく、大千穐楽までお役が努められるようにと思っておりますが。



ところでこの「天保十二年のシェイクスピア」という作品、天保水滸伝という侠客講談とシェイクスピアの37作品をごちゃ混ぜにした戯曲だという言及がたくさんのところでされています。

このごちゃ混ぜ加減が本当に面白くって、病みつきになる感じがします、個人的には。

だって、単なるごちゃ混ぜじゃなくって、さっきまでハムレット風のことをやってた人が突然ロミオ風になっちゃりするわけですから。

天保水滸伝的な侠客抗争の要素と、シェイクスピアの各要素がどの場面にどのように出現しているのかをキャッチするのも、この作品の楽しみ方のひとつかと思います。


と同時に、僕は別の角度からの「ごちゃ混ぜ要素」にも注目してみたら、演劇としての楽しみがもっと多層的になるかなーと思っております。

その「別の角度」っていうのは「劇作手法」の要素、です。

--------

開幕前に、こんなツイートをしました。

僕的にはこの「天保十二年のシェイクスピア」という戯曲は、こういったさまざまな劇作の手法を、それこそごちゃ混ぜにして書かれているなあと思っています。

井上ひさしさんは幼少期から、歌と芝居が大好きで、中学生になってからは亡父の蔵書だった「シェイクスピア全集」や「近代劇全集」を読みあさったといいます。

吸収力の高い年代に、そういった演劇作品に古今東西端から端まで触れていたことが、井上ひさしさんの生み出す言葉の多彩さ、バックボーンの広さと深さに繋がっていることは想像に難くありません。

「劇作法とは何か」という理論以前の段階で、生の読書体験としてさまざまな劇作家によるさまざまな形式の演劇を摂取していたからこそ、ありとあらゆる劇作法のエッセンスを自由に組み合わせることができたんじゃないかなあ。



さて、せっかくの中日を過ぎた休演日の今日ですから、この「劇作法のあれこれ」について、僕的な解釈を挟みながら、ちょっとまとめてみたいと思います。

上で紹介したツイートを、それぞれの「劇」がどのようなものだと僕自身が理解して書いたのかが伝わるように、がんばってみたいと思います。


任侠劇

任侠劇とはその名の通り、「任侠」を主題とした演劇のことです。

任侠とは仁義を大切にし、弱きを助け強きを挫く、というような生き方を指す言葉。正邪の分別をつけ、勧善懲悪の精神を良しとするのが特徴です。

元々「任侠」にヤクザという意味はありませんが、国定忠治が「任侠の徒」として文学や映画の題材になったことなどから「任侠」がヤクザの世界の矜持として描かれた劇作品がたくさんあります。よく聞きますよね、「ヤクザは義理と人情を欠いたらやっていけない」みたいな。

「侠客講談をおとっつぁんに」という名言している時点で、この「任侠劇」的な要素はこの作品の骨格を為す、と認識していいですよね。

ただ、単に勧善懲悪を踏襲するのではなく、ちょっとしたひねりがいくつか加えられています。

そのひとつは例えば、河岸安のシーン。勧善懲悪の世界であるからこそ、それを逆手にとった三世次の口八丁によって、利根の河岸安は粛清されてしまうわけです。何が正しくて何が正しいのか、見るものに判断を迫ってきます。


人情劇

人情劇もその名の通り、「人情」を主題とした演劇のことです。

江戸後期の落語や小説には「人情話」がさかんに書かれました。人の情けを至上とし、親子や恋仲、ときには仇同士、主君と臣下などさまざまな関係性の設定の中で、人情が生みだす感動的なドラマを描きます。

寅さんや金八先生も、ある種の「人情話」だなーって、僕は思います。近代日本人の心を動かすドラマトゥルギーとしては、決して避けることのできない劇の種類です。

歌舞伎や人形浄瑠璃、あるいは新派・新劇など、日本で昔から親しまれてきた演劇の手法の影響を色濃く感じることができる本作ですから、日本人に多く支持されてきた人情劇のエッセンスも存分に組み込まれています。

ただ、単純な人情話としては設計されてなくて、例えばいちばん親子の情けがあるはずの鰤の十兵衛とお光のふたりの血が繋がっておらず、情けがあるが故に離れ離れになる、なんてところにもにくい一捻りを感じますね。


叙事詩劇

叙事詩劇は、ローマ時代に発展し、シェイクスピアの作劇にも取り入れられ、現代も多くの映画やドラマがこの形式を採用する、人気の劇作法です。

複数のストーリーラインを持ち、大勢の登場人物によって描かれます。場面はさまざまな時代、場所にまたがり、その物語の世界での出来事は複雑に絡み合います。そして、その世界はある同一の道徳律に支配されています。(殺人は悪である、とか、働かざる者食うべからず、とか)

ミュージカルファンにはお馴染みの劇作法ですね。レミゼもエリザベートも叙事詩劇の形式で書かれています。

「シェイクスピアをおっかさんとし」といった時点で、叙事詩劇の構造からは逃れられません。たくさんの登場人物が、ありとあらゆる場所で、いろいろなストーリーを紡ぐことになるわけですから。

ここで考えたいのは、「ではこの作品を叙事詩劇と捉えたときに見えてくる”同一の道徳律”とはいったいなんだろう」ということです。

勧善懲悪?
情けは人を助ける?
悪いことをした人は必ず罰を受ける?
力こそ正義?

3時間半のお話を頭から見てくださったお客様が主要な登場人物がみんな死んでしまうというクライマックスを迎えたときに、どんな世界の仕組みをそこに見てとるのでしょうか。気になる。


メロドラマ

メロドラマも、今でも世界の多くの場所で大人気の劇作法。

元々は音楽劇(ギリシャ語で「歌=メロス」+「劇=ドラマ」)の形態でしたが、
その娯楽性が人気を博し広がっていくなかで、恋愛を主軸にした筋運びがメインになりました。

ドラマは多くの場合極端に誇張されており、明確な倫理観を持った世界
感傷的なセリフや行動が多く見られます。現代日本でも、多くの映画やテレビドラマがメロドラマの形式を踏襲して書かれていますね。

お光と王次の関係性なんかは、ズバリそのまんまなメロドラマですよね。お里と幕兵衛も、メロドラマ的な関係性と言えるかもしれません。

一方、お光とおさちに恋い焦がれる三世次はというと・・・。感傷的なセリフと行動はたくさん観測できますが、その行動は倫理からは逸脱しています。ここにもひとひねり。


不条理劇

不条理劇は第二次世界大戦後にヨーロッパを中心に発達した劇作法です。

「世界に変化をもたらそうとする人間の努力は無意味で、結局は不毛である」というヴィジョンを描くために生み出されました。

登場人物は変化を求めて行動をしますが、その結果の会話や行動は堂々巡りになります。また噛み合わない議論や、意味のない行動が繰り返されることが多いです。演劇を通して登場人物によって起こされる変化は、最終的に、より事態が悪くなるという形で着地します。

この作品の場合、明確な「不条理主義」的なパートはないと思うのですが、でも戯曲の提示してくる匂いに、不条理劇のエッセンスが見え隠れしているような気がします。

三世次の行動は、出世という形で「成果」を生みますが、そのひとつひとつの出世によって三世次は果たして「報われて」いるのか・・・?


喜劇

喜劇。コメディとも呼ばれます。

元々は「悲劇」と対をなす演劇の形態でしたが、いまでは笑いを誘うやりとりやセリフをその特徴としています。

突飛なシチュエーション、変装や人間違い、たくさんの言葉遊び、性的なモチーフなど、「シリアスな」劇では扱えないような演劇的要素を表現するのに最適です。

いつの時代も、笑いを与えてくれる喜劇は民衆に人気です。

この作品のコメディパートはありとあらゆるシーンにみつけられますね。

・突飛なシチュエーション(2階に飛び上がる王次、とか)
・変装や人間違い(間違いつづきの花の下)
・たくさんの言葉遊び(全編通してあちこちに)
・性的なモチーフ(これも全編通してあちこちに)


風刺劇

風刺劇。現実世界のなんらかの対象を批判するためのギミックを組み込んである戯曲のことです。

明確にそのものを攻撃するようなセリフを登場人物に言わせる場合もありますが、多くの優れた風刺はむしろ、その批判対象を肯定するような立場の人物を劇中に登場させることによって、逆説的にその対象の愚かさや滑稽さを観客が受け取るような設計がされています。

明確に見つけられる箇所としては、各地の老婆が集まる「焔はごうごう、釜はぐらぐら」の歌詞に社会風刺の要素が埋め込まれています。

あるいは、演出的に、現代社会の風刺を組み込める・・・、ということも考えられますよねこの作品。

-------

ツイートに書いたのはこれらでしたが、それ以外にもこんな要素が組み込まれていると思うので、それも追加してみますね。


叙事的演劇(ブレヒト)

ドイツの劇作家、演出家であるヘルベルト・ブレヒトが提唱した演劇の形式です。

それまでの多くの演劇は舞台上で起きる出来事に観客が「共感」して感情移入が起きることを目指して設計されてきましたが、ブレヒトはこの「共感」や「感情移入」の発生を避けようとしました。

物語の情感から観客が切り離されることで初めて、そこで起きている出来事を批判的な思考で受け止め、そこで起きている問題や課題を直視し、その解決策を観客自ら見つけることができると考えたからです。

そのため、シーンが始まる前にこれから何が起きるのかをナレーターのような口調で俳優に喋らせたり、プラカードで状況説明をしたり、登場人物が突然歌を歌い始めるようにさせました。

そのことによって観客が物語の世界に没頭することを防ぎ、自分はいま劇場にいるのだ、という事実を意識させたのです。

井上ひさしさんが異化効果的手法をどれくらい意図していたかはわかりませんが、異化効果としても解釈できそうな要素はたっぷり盛り込まれています。

冒頭の、隊長による口上。そこから続く、体調による狂言回し。緊張しているはずの賭場の場面で突然歌われるボサノバ。仇同士が突然歌い出す「好いた同士に」。

あるいは演出的には、舞台上下に映写され、歌詞や場面の説明をする「めくり」も、一種の異化効果的モチーフと考えることもできます。


ロマン主義

ロマン主義は18世紀後半から19世紀前半にヨーロッパで興った精神運動です。

「人間は、自分が決して手に入れることのできないものを求めるように運命づけられている」というヴィジョンが根幹になっています。

世界は善人と悪人に満ちていて、前任は素朴な生活を、悪人は裕福で洗練され荒廃した生活を送っていることが多いです。

主人公は、うまく言葉にできない激しい感情に突き動かされて、自分の感情を信用し、心が告げることを理論で否定することができません。

この「ロマン主義」の要素は、劇作の構造とは別なので、さまざまな劇作法に取り入れることが可能です。

ある種、三世次は「異形のロマン主義的情熱を抱えた人物」と言えるのではないでしょうか。ここにもひねりが・・・。

--------


ひとまず、こんな感じでしょうか。

この他にももちろん、歌舞伎や人形浄瑠璃の要素、講談の要素なんかも入ってきます。新劇へのリスペクト(と揶揄・・・?)なんかも含まれてたりします。

シェイクスピアの作品の多種多様な要素と侠客講談の骨格を織り交ぜながら、それを表現するために劇作法の選択の時点でも「ごちゃ混ぜ」の「ごった煮」をしていたように、僕には思われます。

きっと、あるひとつの劇作法の範囲だけで「天保水滸伝とシェイクスピアを混ぜちゃうぞ!」という趣向を成立させることは、ほとんど不可能だったのではないかなと思います。

ありとあらゆる演劇の形式を混ぜ合わせることで、奇跡的に形になったのが、この「天保十二年のシェイクスピア」だったのではないでしょうか。


読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。