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許されざる呪文もある世界で。


僕は言葉が好きだ。

言葉を使っていろんなことを考えるのが好きだし、言葉を使ってその考えたことを人に伝えたりすることも好きだ。

自分の思い、気持ち、感じている質感にぴったりの単語や言い回しを見つけられたときは「僕って捨てたもんじゃないな」と思うくらいに嬉しい気持ちになるし、あるいは自分の表したいことを過不足なく伝えられるような表現がうまく見つからなくて思案を巡らせるときの焦れったさもそれはそれで愉しい。

いつも適切な言葉を探り当てられるばかりではないけれど、かといって相応しい言葉の見当もつかなくて途方に暮れるということもそうそうないので、僕は僕として、僕自身が言葉を使うという営みにそこまでのフラストレーションを感じていない。

たとえば僕は、運動については苦手なものが多くって、バットでボールを打てたためしがないので野球はからきしだめで、逆上がりは一度も成功したことはなく、なんとか不恰好なクロールはできるが平泳ぎはどうしたって身体が沈んでしまって前に進むことができない。

そういう苦手な運動に関わっているときには自分の身体の不器用さに苛立つし、「上手くできない」という事実にフラストレーションを感じる。だから、そういった運動はできることならあまりやりたくない。

けれど世の中には野球や逆上がりや平泳ぎをひょいとスムーズに、息をするようにやってしまえる方もたくさんいることだろう。

僕はそういう人たちにある一定の憧れと羨ましさを感じるけれど、場合によっては僕も誰かから「まるで息をするようにスムーズに言葉を使うのが羨ましい」と思われていることもあるかもしれない。

世の中に常に存在する、得意不得意の表裏だ。


僕がそれほどストレスなく言葉と付き合えるのは、文字や文章を「読む」ことに抵抗を覚えることなく育ったからだと思う。

元々の気質が読書に向いていたということもあるだろうし、育った環境が読むことへの心的ハードルを下げるような体験を積み重ねさせてくれたからということもあるだろう。

たぶん、言葉を扱うのが得意とひと口で言っても、大きく分ければ「読むことから言葉への親しみを持った人」と「聞くことから言葉への親しみを持った人」がいるんじゃないだろうか。

聞くことから言葉への親しみを持った人はきっと、喋ることを仕事にする人たちのなかに多い。そういう人たちにとっての言葉は主に「コミュニケーション」のための強力な道具として受け入れられるんじゃないか。

一方、読むことから言葉への親しみを持った人はきっと、書くことを仕事にする人たちの中に多い。そういう人たちにとっての言葉は主に「思索」のための重要なツールでありながら、それそのものが「考える」ことの対象であったり最終目的地だったりもする。

言葉によって物事を考え、世の中の森羅万象に自分なりのかたちと意味を与えることで自分を生かしてきた人や、たくさんの先人たちが書きしたためた文章を読むことによって自分が救われたりした経験がある人は、自分が言葉を使う側になったときに一種の誠実さや神聖さを以て言葉に対峙していることが多いはずだ。

自分が大切に思う「言葉との関係性」を守るために、自分でも言葉に対しての注意深さや思慮深さを手放さないようにいようと思っている、とでも言おうか。


ところで、当然のことだけれど言葉は、誰でも使える。

文章を書く人や、喋ることを生業としている人以外でも、誰でも使えるのが言葉だ。

言葉を使うのが苦手だなぁと思っている人でも、本や文章を読むのが得意じゃないしむしろ活字を読むのが嫌いだと自覚している人でも、言葉なんてただの音でそこにそんな大きな意味はないと思っている人でも、言葉は使える。

この世の中の、ありとあらゆる個性と属性を持った人が、言葉を使ってコミュニケーションをとっているのだ。


けれど、言葉を大切に生きている人にかぎって、その事実を忘れてしまうことも多い。言葉とは本来とても神聖なもので、その神聖さは誰にとっても疑いようのない事実だと信じ込んでしまっている、というか。

ある時代まで、それこそ言論や出版が特定の特権階級のみで占有されていた時代までは、それでよかったのかもしれない。

なぜならば、言葉への神聖さや誠実さを前提としない言葉が使われる場面と遭遇する機会を、可能な限り避けることができたからだ。言葉はさまざまな階級や文化圏によって分断され、その境界を跨ぐのは一部の民俗学者や小説家に限られていた。

けれどいまはどうだろう。言葉を使って発信することのデモクラシーがインターネット/SNSの登場によって達成された結果、「言葉への姿勢」が全く違う者同士が、瞬時に/簡単に/活発に言葉を交わすことができるようになってしまった。

そのとき、言葉と親しく付き合い、言葉の神聖さと言葉への誠実な態度を疑いもしなかった人々は、あまりにもぞんざいに使われる言葉の姿を目にしてうろたえたり、その陰に攻撃性を隠した言葉たちの威力に傷付いたりする。言葉の善性や言葉を使う者たちの善性を疑わずにいればいるほど、そのダメージは深く大きなものになるようだ。



僕は小学生の頃から『ハリー・ポッター』シリーズが好きで、小説も映画もたくさん触れてきた。

魔法使いが登場する話だから当然魔法も登場する。ハリー・ポッターの世界での魔法は、古英語やフランス語、アフリカの言語、ラテン語など、さまざまな言語から由来をとったオリジナルの呪文によって唱えられる。

飲める水を出現させたり(アグアメンティ)、必要なものを呼び寄せたり(アクシオ)、壊れたメガネを直したり(レパロ)、鍵を開けたり(アロホモラ)する呪文がある。

戦闘のシーンもあるため戦いの呪文も用意されている。武装解除をするエクスペリアームス、相手を麻痺させるステューピファイ、相手を石のように硬直させるペトリフィカス・トタルス。


このような魔法呪文は使い方によってはかなり緊迫した状況でもその呪文をとなえるものを救済するような力を持ってはいるが、どちらかといえばその呪文自体にはどこか中立的な、平和的な思いがあるように感じる。

なぜならばハリーポッターの世界には、純然たる悪意でのみ用いることのできる呪文も登場するからだ。それらは許されざる呪文と呼ばれていて、相手を心の底から憎み、本当に殺したい、本当に苦しめたいと思って唱えないと効果が現れないとされる。

相手を服従させるインペリオ。相手に拷問の苦痛を与えるクルーシオ。そして、緑の閃光と共に相手の命を一瞬にして奪う死の呪いアバダ・ケダブラ。

この許されざる3つの呪文がきちんと登場することが、『ハリー・ポッター』シリーズの文学としての強度をあげていると僕は常々思っている。

夢と希望の魔法ばかりを登場させるのではなく、真っ直ぐな、ためらいのない、純然たる悪意によって放たれる魔法もその世界には存在するのだということをしっかりと提示しているからだ。お花畑のファンタジーではなく、よりリアルな現実を映し出すフィクションとして作品を成立させる大きな要因として機能している。

特に物語にとって死の呪いであるアバダ・ケダブラの呪文は重要だ。この死の呪いを受けて生き残った唯一の男の子が物語の主人公となっているからだ。


SNS時代の言葉は、意識的にしろ無意識的にしろ、クルーシオやインペリオや、時にはアバダ・ケダブラのような力を帯びて受信者の元に届くことが安易になった。

相手を苦しめようと明確に意識をしてSNSに言葉を投げつける人もたくさんいるだろうし、自分では「そんなつもりじゃなかった」としても結果的にSNSに放った言葉が相手を苦しめるという事態も多く起きている。

ひとつひとつの言葉はそれほど威力を持っていなくても、わずかの攻撃力を持った言葉がたくさんの人から集中的に投げかけられることによって、受信者の元に届くときには結果として致命的な破壊力の言葉に育っていることもある。


邪悪な呪いがこの世界には確かに存在するということをまず知らなければ、そういった魔法と戦う準備はできない。同じように、誠実さを欠くどころか悪意と攻撃性がてんこ盛りの言葉を使う人がこの世の中にいるという事実を認識しなければ、そういう言葉から自分の身を守ることもできない。

盾の呪文(プロテゴ)を使うのか、武装解除(エクスペリアームス)で相手の杖を取り上げて攻撃をそもそもさせないのか、あるいはその場から逃げ去るのか。場面によって邪悪な呪いへの対処法は変わる。

しかしいずれにしても、「悪い呪文なんてあるはずない」と信じきってしまえば、降りかかる攻撃から身を守る術を自分から手放すことになってしまう。



僕はインターネットが好きだ。SNSでの発信や交流も好きだ。そして、言葉を使ったり、言葉を読んだりすることも好きだ。

だからこそ「ヤバそうな言葉」への警戒心も人一倍強いと思う。インターネットには素晴らしい言葉がたくさん溢れているのと同様に、危なくて恐ろしい言葉もそこらじゅうに転がっていると理解したのは小学5年生の頃だったと思う。

ヤバそうな言葉が視野の片隅に入ってきたらどうするか。その場から立ち去るのがいちばんいい。自分の世界にとってまったく関係ないものだとして、自分という存在の外に押し出してしまうのだ。

けれどそれをするためにはまず、「インターネットには、あるいは世の中には、危なくて恐ろしい言葉がたくさん存在しているのだ」という事実を常に念頭に置いておく必要がある。警戒心を高めておくことでしか、危機から逃げ延びる確率を高めることはできない。


インターネットとSNSの発達によって誰でも手軽に自分の言葉を世界に向けて発信できるようになった。それは本当に素晴らしいことだ。けれどその反面、自分が受信者として触れられる言葉の総量のうち、悪意や攻撃性を持った言葉に出会う比率も格段に増えた。その悪意や攻撃性がたとえ自分自身に向いてなかったとしても、その言葉の尖りや鋭さはその言葉を読んだ人たちの肌を切り裂くものだ。

そういった言葉から、身を守らなければいけない時代なのだ。きっと。





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