学校の先生とアーティストは、良いパートナーになれる


このあいだ、また、とある中学校に行ってきました。
芸術鑑賞会として演奏を聴いていただいたのと、
合唱のワークショップを受けていただいたのの、2本立てでした。

芸術鑑賞会に呼ばれると、演奏するだけのことが多いのですが
今回は2日後に校内での「合唱発表会」があるということで
その指導もしていただけませんか、とのご依頼でした。

合唱発表会に向けて、各クラスが1曲ずつ自由曲を決め
それとは別に学年合唱の曲も各学年ごと1曲あって、
生徒たちは2曲を一所懸命練習していたようです。

授業が始まる前の朝の時間も、
お昼休みも、放課後も、強化練習してたようですよ。
すごくないですか・・・・???

僕なら朝は1秒でも長く寝ていたいし、
昼休みは好きな本読んで過ごしたいし、
放課後は部活行くか、部活ないなら1秒でも早く帰って
ゲームやりたいですもん。

その練習の成果といっていいと思いますが、
生徒たちの合唱は、それはそれは見事なものでした。

--------

ワークショップは、各学年に分かれて行いました。

演奏者として、ソプラノ、テノール、バス、ピアノの
4人でお邪魔していたので、
ひとつの学年に対してそれぞれ、1人、1人、2人の講師を
わけてつけることにしました。

僕は、3年生の担当になりました。

当初、「学年合唱をみてください」との依頼だったので
そのつもりでいたところ、
生徒たちが会場整備をしているときに
3年生2クラスの担任の先生が僕のところにやってきて、
「お時間ありましたら、ぜひクラス合唱の曲もみてください。
 行き詰まってるんです・・・!」
と、それはそれはまあ、すごい熱量。

どちらも30代半ばぐらいの若い、男性の先生。

「この学校は先生も生徒も、熱心なんだなあ」
と感心しました。

でも、ワークショップの時間、たっぷりあるわけではなかったし
「時間が余りましたら、クラス合唱もみますね。
 まずは、学年の曲をやってみることで変化があると思いますから、
 ぜひその様子をご覧になってください」
とお答えしました。

って経緯で、まずは学年合唱を聞かせていただいたのですが
これ、さっきも書いたんですけどかなり完成度が高くて。
内心、「これ、言うことないよな・・・」
と思いながら聞いていました。

もちろん、プロの合唱団には及ばない演奏だけど、
音程も悪くない、曲の流れや強弱の表現も掴んでいる、
歌詞をどうにかして表現しようっていう気持ちも伝わってくる、
かなりレベルの高い演奏でした。

だから、演奏終わった後、超褒めました。笑

「すごいよみんな!超うまい!ほぼ言うことない!!!笑」って。

でも、それだとこちらの仕事にならないですから、

「すげえうまいことは前提で、一緒にやってみようか」

と。

--------

学校教育の中に、音楽の時間があるっていうのは音楽家の立場からすると、
本当に素晴らしいことだし、嬉しいことだと思います。

けれど、行事に組み込まれているということは
生徒本人の意思とは関係ないところで、
「歌わなければいけない」という状況が
設定されているということです。

生徒の中には、歌うことが好きな人もいるかもしれない。
歌うことが嫌いな人もいるかもしれない。
歌うことは好きだけど、合唱は嫌いな人もいるかもしれない。

そういう、いろんな思いを持つ生徒がいて
彼らが行事の中で半ば強制的に合唱に触れたとして、
そこでの経験によって歌うことが嫌いになっちゃうのは、
僕は嫌だなあと、思っているのです。

どうせ歌うなら、楽しく歌ってほしい。
歌うことを楽しめないって人もいるだろうから、
そういう人は極論、歌わなくてもいいと思う。
歌わざるを得ないなら、「楽しくないな」っていう
自分の気持ちを欺かずに、その場にいてほしいと思うのです。

だからまず、こう伝えてみました。

みんな、合唱楽しい?きっと楽しい人もいると思うし、そうじゃない人もいると思う。でも、僕はそれでいいんだと思う。全員が均一に楽しいなんてことはぜったいにないから。なぜなら、みんなそれぞれに違う別の人間だから。でも、だからこそ、この瞬間に別々の人間が同じ時間を共有してるってことの奇跡をちょっとだけ大切にしてほしい。合唱が楽しい人は、楽しい気持ちを十分に表現してほしいし、楽しくない人は、楽しくないっていう自分の気持ちを押し込めたりしないでほしい。「楽しくない」っていう気持ちを、「みんなでやるんだから楽しまなくちゃいけない」みたいな嘘でなかったことにしないでほしい。たとえ「楽しくないな」と思っていたとしても、その自分の気持ちに正直なまま、歌ってみて。そうすると、きっと歌っていく途中で、気持ちが変化していくと思うから。

大学生や社会人になるとわかるのですが、
50人もの人間が、同時に同じ言葉を口にするなんてこと
なかなかないのです。

普段の生活でも、同じタイミングで2人の人間が
同じ単語を口にしただけで「気があうねえ!笑」と
超盛り上がるじゃないですか。

同じ言葉を別の人間が同時に口にするってのは
それぐらい奇跡的で、力があることなのです。

合唱だと、その奇跡が、4分ぐらい続くわけです。
超奇跡ですよこれは。笑

でも、「歌わなければいけない」っていうマインドだと
「歌詞を覚えなければいけない」
「音程を間違えてはいけない」
「リズム正しく歌わなければいけない」
「音をここまでちゃんと伸ばさなければいけない」
というルールが、どんどん生まれてしまいます。

そうすると、せっかくのメロディを歌うにも
せっかくの言葉を発するにも
「義務」の力が強くなりすぎて、
「みんなで同じ言葉を発する奇跡」を
体験しづらくなっちゃうと思うのです。

だからまず、その「ルール」や「義務」をなくしてほしかった。

学生にとっての一番大きなルールは、
「みんなでやるときには心をひとつにしなくちゃいけない」
だと思います。

そのルールを、破ってもらうことにしました。

何を感じててもいい。何を思っててもいい。
別にそれは口にしなくてもいい。外に出さなくてもいい。

でも、自分の胸の内だけは自由なんだから
「楽しいな」も、「嫌だな」も、「帰りたいな」も
自分の大切な感情として、受け止めてあげてほしい、と。

自分の正直な気持ちをちゃんと自覚したまま
それでも全員この場に留まって、同じ時間を過ごす。
その奇跡に感謝したい。みんな、この場にいてくれてありがとう、と。

で、自分に嘘をつかないまま、その気持ちのまま
ぜひ歌ってみてください、とお願いしました。
自分に嘘をつかない状態で歌っていくと、
歌っていくなかで、言葉を発していくなかで、
どんどん気持ちが変わっていくはずだから、と。

その投げ掛けに対して、生徒たちが何を思ったのかはわかりません。
けれど、そのあと歌ってくれた歌は、
とってもみずみずしく、不安定で、動きがあって、魅力的でした。

--------

3年生が学年合唱で取り組んだのは、「群青」という合唱曲でした。

福島県南相馬市立小高中学校の平成24年度の卒業生と、
当時の音楽教諭が作った曲です。
東日本大震災に遭遇した中学生が作った歌、ということで
そのストーリーが持つメッセージ性の強さから、
全国的に有名になった曲です。

題名となる「群青」という単語は、
小高中学校の生徒にとっては、とても親しみのある言葉のようでした。

校歌の中に「群青」という歌詞があり、
野球クラブの名前が「小高群青クラブ」、学園祭が「群青祭」と
小高中学校を象徴する言葉であることから、この題名になったそうです。

この「群青」という言葉を、どれだけ親近感を持って、
血を通わせながら、心を動かしながら、発することができるかが
ポイントだと僕は思いました。

だから、こう聞いてみました。

小高中学校の生徒にとって、「群青」っていうのは自分たちの象徴になるような、特別な言葉みたいだよ。みんなにとって、そういう言葉、ありますか?

と。

そうしたら、生徒たちがこう答えてくれました。


ひまわり


彼らにとって「ひまわり」という言葉が
どれだけ影響力を持つ言葉かは知りませんが、
学校生活の各種スローガンの中にきっと
「ひまわり」という言葉が出てくるのでしょう。

では、曲の中の「群青」という歌詞をぜんぶ「ひまわり」に置き換えて歌ってみてくれる?

そうお願いしました。

そうやってうたった歌に対する、先生たちの表情は忘れられません。笑
生徒たちが発する「ひまわりの街で」という歌詞、メロディ。
そこになんというか、親密さが加わりました。
言葉の向こう、歌声の向こうに、
彼らの日常や人生がにわかに匂い立ちました。
それを、きっと先生方も聴き取って下さったんでしょう。

歌の歌詞は、すべて、歌い手の「自分ごと」であった方がいいと
僕は思っています。
歌い手の歌の向こうに、その人の人生が透けて見えるような
そんな歌に、僕は心動かされます。

いま、みんな、「ひまわり」って歌ったとき「群青」って歌ったときとは全然ちがう気持ちになったでしょう?小高中学校の生徒たちは、みんなが「ひまわり」って歌ったそのときと同じかそれ以上の心の動きをもって「群青」って歌ったんだと思う。で、それは、「群青」っていう歌詞についてだけじゃなくて、「あの日見た夕日」とか「自転車をこいで」とか他の歌詞についても同じなんだと思う。だからみんなも、みんなのそれぞれの経験でいいから、自分が口にする言葉についての思い出とか記憶を感じながら歌ってみてくれない?

こうお願いしてみました。

合唱曲を演奏する際に、合唱部とかだと解釈を話し合うことがあります。
同じ言葉に対して、イメージを統一し、
演奏の方向性や表現の色を、揃えていくためです。

僕は、こういうアプローチもとても効果的だと思います。

でも、学年合唱とかクラス合唱ならば、
表現を統一する必要はないんじゃないかなって思っています。

むしろ、同じ言葉なのに別の風景を思い浮かべる人たちが
ひょんな運命で1年間、共同体として生活しているという
その偶然という奇跡の価値を、実感する場になってほしいと思います。

だから、思い浮かべるものはひとりひとりの自由でいいから
ちゃんと風景とか、匂いとか、体温とか、音とか、風とか、
そういうことを感じながら歌ってみてくれない?
とお願いしました。

その結果どうなったか、ぜひご想像ください。

ちなみに、そうやって学年合唱を指導した後も時間が余ったので
クラス合唱も指導しました。

熱中しすぎて終了予定時間を15分ほど過ぎちゃったけど。笑

--------

すべてが終わり、帰り支度が終わって
玄関に向かおうとしたときに、
3年生の担任の先生が話しかけてくれました。

曰く、

「あのあとクラスで練習した合唱が、いままででいちばん良くて。
 いままで体育会系で「ちゃんとやるぞー!」みたいにやってましたが、
 僕は、もう、そんなことどうでもいいと思いました。
 生徒たちが自由に、心を解放して歌ってくれたらそれでいい。
 そうしたらきっといちばん良い合唱になると、そう思いました。
 山野さんの指導を見て、世界は広いな、と
 自分の知らない世界があるんだな、と、痛感しました。」

とのこと。

僕は、嬉しくて胸がいっぱいになりました。
けれど、大切なことなので、こうお伝えしました。

先生がそう思ってくださったことは嬉しいです。けれど、僕達みたいなアーティストがポンとやってきて生徒たちの表現がすぐに変わるのは、普段先生方がしてくださっている指導があるからこそです。

と。

そうです。
普段、先生たちが、忙しい勤務時間の中で
規律や、時間厳守や、人の話を聞くという姿勢や、
そういう、生活指導のことを一所懸命やってくださってるからこそ
ワケのわからない僕らのような人種が生徒の前に立っても
生徒たちは僕らの話に聞く耳を持ってくれるのです。

先生たちが、音取りや、歌詞の考察や、
基本的なハーモニー、フレーズ、アンサンブルを
指導してくださってたからこそ、
その土台の上に、さらなる表現を積み重ねられたのです。

僕ら、アーティストには、
繊細な年代の生徒の生活指導はできませんし、
日々積み上げるキメの細かい基礎練習を
一緒にやるような活動の仕方はできません。

学校現場においての先生とアーティストは、
お互いのプロフェッショナルな技を持ち寄って支え合う
パートナーのような存在なのです。

今回の芸術鑑賞会とワークショップで、
山野は、その思いを強くしました。

音楽を通して同じ時間を過ごしてくださった
生徒のみんな、先生方、本当にありがとうございました。
またお会いできますように。



読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。