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ミュージカルにおける「表現の強度のヒエラルキー」について。


多くのインタビュー記事などで、ミュージカルをメインの活動の場としている日本の俳優たちが

ミュージカルの歌は、セリフなんです。

というような表現で、ミュージカルの歌唱を説明しています。きっと、ミュージカルファンなら一度はそんな意味の言葉を聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

「喋るように歌えなければいけない」とか「ミュージカルの歌はただの歌じゃなくって、芝居歌なんだ」みたいな言い方もあるかもしれません。


ときおり僕はミュージカルの世界を目指す若い人や、ミュージカルが好きなアマチュアの人たちに、歌を教えることがあります。

そのときには僕も「ミュージカルの歌は多くの場合、お芝居の延長線上にあります」という説明を必ずします。今日は、そのときに同時にお見せする図を使って、「ミュージカルの歌は芝居の延長線上にある」ということがどういうことなのか、概要を書いてみたいと思います。

なお、下に書くのは「ある場合においての原則」なので、もちろんそうじゃない場合とか、イレギュラーが起きるときは、あります。


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さて、さっそくこれをご覧ください。

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僕はこの図のことを「ミュージカルにおける表現の強度のヒエラルキー」と呼んでいます。どういうことか説明します。


さて、みなさん、ミュージカルとそれ以外のお芝居との違いについて考えてみます。何が違うでしょうか。

一般に「セリフ劇」と呼ばれるようなお芝居は、主にセリフや登場人物の行動によってドラマが推し進められていきます。

しかしミュージカルにはセリフや行動に加えて、「歌」と「踊り」という要素が加わってきます。これはミュージカルという表現形態にとっての大きな特徴です。

ときどき、ミュージカルが嫌いだ、という人がその理由として「突然歌い出したり踊り出したりするのが変だ」という点を指摘することがありますが、それに対してミュージカルファンは「本当に上手い俳優さんなら、歌い出すことも踊り出すことも自然なんだ」と反論したりします。

僕もこの「上手くいっていればとても自然なのだ」という意見に賛成します。

問題は、「どうやったら」上手くいくのかです。


もう一度、図に戻ってみましょう。

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先ほども説明したように僕はこの図を「表現の強度のヒエラルキー」と名付けました。ヒエラルキーというのは「階層」ということです。

3つの階層を構成しているのは「act」「sing」「dance」という要素です。

「act」はお芝居、「sing」は歌、そして「dance」は踊りのことですね。これはそのままミュージカルをミュージカルたらしめる重要な三つの要素に対応しています。(あまり踊らないミュージカルもあるけど)

この「act」「sing」「dance」という要素はどれも重要ですが、その出現の条件が少しずつ異なります。特に「統合されたミュージカル(integrated-musical)」というかたちを持った作品ではその差異が顕著です。


芝居も歌も踊りも、どれもミュージカルにとっては大切な要素ですが、そのなかにひとつだけ、絶対に欠かせないものがあります。どれでしょうか。

例えば、歌のないミュージカルを想像してみましょう。お芝居と、音楽と踊りだけ。少し物足りないかもしれないけれど、全然あり得ないというわけではなさそうじゃないですか?

踊りのないミュージカルはどうでしょう。これもあり得なくはなさそうです。じっさい限りなく踊りの要素が少ないミュージカル作品はあります。

しかし、芝居という要素が失われたらどうでしょう。それはもうミュージカルとはいえず、「ライブ」「ショー」に近い何かになりそうですよね。


ミュージカルは「台本」を必要とする「演劇作品」です。なので、芝居の要素なしでは成立しません。

ミュージカルの中には芝居、歌、踊り、という異なる表現形式が登場しますが、そのミュージカルをミュージカルとして成立させるためには、歌も踊りも、芝居に依存します。

つまり、ミュージカルにおいては「act」つまり芝居がすべての土台になっているのです。セリフや行動を用いたお芝居を抜きにしては、その上層階の「sing」も「dance」も成立しません。


さて、登場人物たちは自らの欲求に従って、舞台上で目的を達成しようとします。目的を達成しようとする途中でさまざまな障害に遭遇することが多いですが、その際には言葉や行動で問題を解決し、障害を乗り越えようとします。

登場人物はそうやって出会う劇中のさまざまな出来事によって、感情を揺さぶられます。嬉しくなったり、悲しんだり、憤ったり、喜んだり、怒ったりします。

ネガティブな感情でもポジティブな感情でも、その「感情の振れ幅」は欲求の強さに比例します。

ダンスパーティで出会った女性に恋をし、彼女にもう一度会いたい、彼女と結ばれたいという欲求が強くなれば強くなるほど、青年の感情は大きく揺れ動きます。

たとえばそれが妻や娘を奪った相手に「復讐してやりたい」という欲求だとしても、その憎しみや怒りという感情は大きく揺れ動きます。

感情がネガティブであれポジティブであれ、その振れ幅の「絶対値」の大きさはすなわち、その人物の持つ「欲求の強さ」をあらわしていると言えます。

セリフや行動で芝居が進んでいた途中、登場人物の「欲求」が強くなり、感情の振れ幅の絶対値が大きくなると、その登場人物はセリフと行動だけでは自分の思いを消化しきれなくなります。「act」の階層の表現の強さでは、自分の状態を抑えられなくなるのです。

そうすると登場人物は、さらなる上の階層に表現のフィールドを移します。

基本的には「act」から「sing」の階層へと状態が移行し、それまで言葉を話していた人物は、歌いはじめます。


けれど、歌っていく途中でさらに気持ちが昂ったり、状況が変化して障害が大きくなったりすることがあります。そうすると登場人物には、歌うだけでは消化しきれなくなったエネルギーを、さらなる強い表現に置き換える必要がでてきます。

「sing」でも抑えきれなくなった状態は、「dance」の階層の表現の強さを求めます。

この「act」から「sing」そして「dance」へと進む表現の強度の変化は階段のようなものではなく、グラデーションであり、シームレスであることが、「統合されたミュージカル」においては理想的です。

そして、「act」から「sing」に移行したときも、歌いながらも「act」の階層の表現の強度が失われることはありません。なぜなら「act」はミュージカル表現にとっての土台だからです。僕らがエレベーターでビルの2階に上がっても、1階部分が消えてなくなることはなく、しっかりと我々の立つ2階部分を支えてくれているように。

つまり、もちろん「dance」に移行しても、「act」と「sing」のエネルギーを手放すべきではない、ということでもあります。

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つまりこの「表現の強度のヒエラルキー」においては、表現の階層を上にのぼるほど、表現の強度が「高く」なっていくということです。その

このヒエラルキーをのぼっていくステップを綺麗に踏襲しているのが、たとえば「雨に唄えば」の "Singing in the rain" であり、「ビリー・エリオット」の "Electricity" です。 模範的な「act → sing → dance」の移行ですよね。

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この三つの表現の強度のヒエラルキーを、可能な限りシームレスに移行していく技術が、俳優には求められます。

「sing」に移行したときに声を出すことやバンドに合わせることに必死で「act」の状態を手放してしまったら、それはミュージカルの歌唱表現としてはちぐはぐな印象をお客様に与えてしまうだろうし、

「dance」に移行したときにそれまでの「sing」や「act」の段階で経験してたはずの感情や状態を手放して踊ってしまったら、「ただ上手いだけの踊り」になってしまいます。

こういった状態がすなわち「突然歌い出したり踊り出したりするのが変だ」といった感想につながってくるんじゃないかなーって僕は思っているわけですが。



また、こうは書きましたけど、ひと口に「ミュージカル」といってもその劇作・演出上の表現技法は多岐に渡ります。

「統合されたミュージカル」では、ただ単に娯楽的に歌をうたったり踊りをおどったりすることは良しとされず、緻密に設計された物語のプロットを助けるような歌や踊りが必要とされます。

でも、そう言うミュージカルばかりなわけじゃないでしょ、僕たちが見ているミュージカルって。

特に1950年代に入る前のミュージカルは、より娯楽的な意味合いで歌の曲をプロットに挿入している場合も多かったですし、逆に「統合されたミュージカル」という概念に対する批判として、唐突な、ドラマに馴染まない楽曲や踊りを採用している作品もたくさん作られています。

なので、すべてのミュージカルに「表現の強度のヒエラルキー」が存在しているか、と言われれば「違う」と答える必要があるわけですが、それでもミュージカルにとっては「ドラマと音楽や踊りとの統合性」はひとつの重要なテーマであることは間違いないので、ミュージカルに出演する立場からすると、この簡単な図の仕組みを理解しているだけで、原則を押さえることができて便利だと思ってます。

当然、原則を押さえていればこそ、イレギュラーにも対応できるわけですから。


あ、あと「レミゼラブルとかはどうやねん」っていう疑問もあると思いますが、ああいう「サングスルーミュージカル(=全編が歌で紡がれるミュージカル)」も、表現の強度のヒエラルキーは適応されます。

「act」という土台は存在したままで、つねに「sing」より上の階層の状態でいる、ということですから。それを表現するにはすさまじいエネルギーが必要、ってことですよね。



さらっと書いてみましたが、いかがでしょうか。

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