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【いそがしいとき日記】その29


うつぶせで寝転んでいると、からだの不思議を感じます。

呼吸をするたびにお腹が膨れて、けれどその先にはベッドがあるから僕のお腹は押し返されて、圧力を感じます。

その圧力に、僕はお腹の内側にある内臓のことを思います。

息を吸うとお腹が膨れて、息を吐くとお腹がへこむというのはつまり、腹式呼吸ということなのですが、これはお腹のところに空気が出たり入ったりしているわけではなく。

息を吸うと肺が膨れて、その膨れた肺が横隔膜を押し下げて、それによって内臓が押し出されているわけです。


僕はこの、当たり前の出来事にときたまものすごく驚愕するのです。

肺の働きも内臓たちの動きも、僕自身は1ミリも関与できません。僕が悲しかろうが寂しかろうが、肺は呼吸を続け、内臓は食べ物を消化したり血を作り出したりしています。

それらは確実に、僕が生き続けるために必要な機関であるのに、僕が僕という自我を持って生きはじめる以前にすでに出来上がり、そこにあったのです。


僕の身体に張り巡らされた血管の中を隅々まで流れていく血液のことを思います。

きっと僕自身ではその「血液」というものを発明することもできなかったし、生み出すこともできなかったでしょう。

僕は血液のことをなにもしらないけれど、その血液によって生かされています。そしてそれらの仕組みは僕の預かり知らぬところで、いつもいつも動き続けているのです。


僕の身体は、いったい誰のものなのだろうと、と考えます。僕は、なにによって生み出され、なにによって生かされているのだろうと思います。

うつ伏せの、まどろみのなかで。


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日本社会の中ではあまりその価値は認められていませんが、「判断し決断をする」という仕事は、実はとても重労働なのです。

物事を見極め、決定を下すという行為は、かなり大きなリソースを必要とします。精神的にも、肉体的にも。

だから、「判断をする」ということが仕事の中心となっている人たちには相応の権力が与えられ、受け取る報酬も多いのです。

なぜならば、判断をするということは「判断した結果生じるリスクを引き受ける」ということでもあるからです。引き受けるリスクが大きければ大きいほど、権力と報酬額もそれに伴って大きくなっていく、というのが基本的な世の中の仕組みです。

「判断をする」ことで人は、大きくリソースを消費します。簡単に言えば、疲れるのです。判断をするという機会が連続すると、人は消耗していきます。精神的にも、肉体的にも。

スティーブ・ジョブズがいつも同じものを着ていた、というのは有名なエピソードですが、これは「今日何を着ようか」という判断を下すことで消費されるリソースを節約するための施策です。

「今日何を着るか考える」ことをやめることで余ったリソースを使って、他の、ビジネス上のより大きな判断をするという選択をしていたのです。

「判断力」は「消耗品」なのです。



その上で、舞台芸術界のことを思います。

いま、舞台芸術界はかなり厳しい状況にあります。

だから、もちろん、各団体の「判断を下す」という立場にいる人たちも、かなり厳しい状況にいるのです。

これは、大規模な商業舞台の主催であれ、自主公演の小劇場の主催であれ、変わりません。どんな規模の舞台芸術であれ、その責任者・主催者的立場にある人たちは、厳しい判断の連続という局面に直面しています。

まずは「公演を中止するか否か」という大きな判断があります。その先には「いつどのように再開するのか」が。「新型コロナウィルス禍によって生じた負債にどう対処するのか」という判断もしなければなりません。

これらの判断を彼ら彼女らは、ここ2週間し続けてきたわけです。

相当の消耗を強いられていることでしょう。


しかし彼ら彼女らにはこれから先も解決しなければいけないことがあります。

・どのようにして上演再開の道を探っていくのか
・スタッフや出演者をどう生き存えさせるのか
・自分が指揮をとっている組織をどう存続させていくのか

それ以外にもたくさんの「判断」が必要でしょう。

たとえば、「ふだん文化芸術に親しくない層からのバッシングによって生じた、舞台芸術界へのマイナスイメージをどうやって払拭していくか」ということは、新型コロナウィルスの被害が落ち着いてからも僕らに付き纏う、大きな課題でしょう。


つまり、舞台芸術の世界で自らが責任者的立場にある人たちが下さなければいけない判断には、以下のようなものがあるということです。

・直近の、新型コロナウィルス拡大を阻止するために何をするか(短期)
・新型コロナウィルスによって生じた損失による危機を
 どう乗り越えるか(短〜中期)
・どのタイミングで公演を再開するか(中〜長期)
・社会における舞台芸術の価値認識を
 どうやってバージョンアップしていくか(長期)

現状の体力で、中長期的な思考と取り組みが必要なトピックに対して最善の判断を出し続けるというのは、じつはかなりしんどい状況なのではないかなと、僕は考えています。


すこし話が変わります。

世界的な新型コロナウィルスの拡大に反応して、ブロードウェイや欧州の大規模な劇場やコンサートホールが公演の中止を発表し始めました。最長で、4月13日まで中止というところもあるようです。

しかしこれらは、日本とだいぶ状況が違います。

たとえばブロードウェイは、ニューヨーク州の州知事からの「500人以上のイベントは禁止」という発表に呼応したものです。ブロードウェイの大劇場はそれにより公演中止の判断を下しましたが、座席数が499席以下の、オフブロードウェイの劇場は、席数を半数に減らして、公演を続行します。

また、全土での移動制限が政府より出ているイタリアでは、歌劇場が観客を入れての公演を中止にする代わりに、無観客で上演しインターネットでその映像を視聴できるような策を講じるところが見受けられます。


海外の状況と日本の状況を単純に比べることはできませんが、ひとつだけ明確なことがあります。

ブロードウェイやイタリアは、行政機関による「禁止」の命令が出ています。すると興行主はそれに従わざるを得ません。つまり、自分で「中止にすべきか、続行すべきか」を判断する必要がない、ということです。

これは言い方を変えれば、「世情を鑑みて中止をするか否かという大きな判断に伴うリソース消費を、節約できた」ということでもあります。

これは、自分がその立場に立たされたことを想像したらわかりやすいのですが

「これは要請なので、最終的な中止・続行の判断はあなたに任せる。で、それを判断した後、生じる損害についてや、その後をサバイブしていく方法も、自分で考えてください」という状況に陥らされるのと

「公演は禁止します。これは命令です。それに伴い生じる損害についてや、その後をサバイブしていく方法については、自分で考えてください」という状況に陥らされるのでは

だいぶ、精神的負担が違うはずなのです。

まず「公演は中止である」という大決定があることで、「ではその先で何をするか」を考えることに取り組めます。しかし「公演中止にするか否かはあなたの判断です」と言われると、まずそこで大きなリソースを消耗しなくてはなりません。

これは、小さくとも、大きな違いです。


我々舞台芸術の関係者を取り巻く状況は、「これから先」のことを考えなければいけないフェーズにきたと思います。

しかし、決定権を持った人たちがここまでの「中止にする?続行する?」というとてつもなく大きな判断の時点ですでに消耗していたとしたら。「これから先」で描ける未来の明るさも、だいぶ変わってきてしまうように思います。


日常の中でも「判断をする・決断をする」という行為は、大きなエネルギーを必要とします。仕事だけではなく、家事でも、遊びでも、それこそ「今日は何を着ようか」を決めるときでも、です。

良い判断は、余裕があるときに生まれるものです。


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有事の際には、人間、ふだん考えていることがその言葉や行動に出るなあ、とこのところ思っています。

その人の考え方というのは、日常生活でももちろん垣間見ることはできるのですけど、やはりなにかの緊急事態のときこそ、明確に表出するようです。

切羽詰まった状況に追い込まれたときに、どんな言葉を選択するのか、どんな行動をとるのか。そこに、ふだんが滲み出ます。


ところで、どうにも暗い気持ちになるニュースが多いこの頃です。

僕は舞台芸術が大好きだから、やっぱり舞台芸術についてを中心に据えた視点で物事を見てしまうのですが、きっと僕のnoteを読んでくださっている人には、同じような方が多いと思います。

悲しいこと、辛いこと、落ち込むこと、胸が痛くなることが、たくさんたくさん起きていると思います。

それをね、なかったことにする必要はないと思うのです。

「ネガティブは悪だ」と思って、自分中に沸き起こった感情を押し留めることは、どうにも身体と心に悪いんじゃないかなと、僕は考えています。

だって、僕らが大好きな舞台芸術は僕たちに教えてくれたじゃないですか。

人間が感じる感情は、喜びも幸せも楽しさも尊いけれど、それと同じように、憎しみや怒りや憤りだって尊いのだよ〜、と。


ってことで、いろんなニュースに胸を痛められてるとは思いますが、その「感情の振れ幅」は私たちにとって大切な「感性の動き」でもあるわけです。それをなかったことにするのは、あまりよろしくない。

そして、痛みや苦しみを受け止めつつも、日常生活の中に転がっている幸せや喜びをきちんと受け取ってあげる、そういうことがいまは大事なんじゃないかなと思います。

空が晴れているから幸せ。木蓮がきれいに咲いているから幸せ。お昼に食べたお蕎麦が美味しかったから幸せ。推しのDVDを見て幸せ。好きな本を読む時間ができたから幸せ。

いろんな幸せ、いろんな楽しさがあるはずです。


その上で。

いまはまだ僕らの行動は大きな力にはならないけれど、この出来事で表出してきたさまざまな人たちの「言葉」や「行動」を忘れずにいることはできます。

大きな決定権を持った人が、どんな言葉を発したのか。どんな判断を下したのか。

それを忘れずにいることができます。

忘れずにいれば、この先のどこかで、彼らが権力を持つ立場にいることに対して「NO」と告げるタイミングが必ず巡ってきます。

僕らに今できることは、自分の健康をまず第一に考えること、また以前のように自分の大好きなものを享受できる日がくることを信じること、そして、この出来事を忘れないでいること、です。


なんか今日は、恐い終わりかたになっちゃった!笑

読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。