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だから、それでも私は、演劇をやり続ける。


演劇には、人を救う力がある。

当然、世界中のすべての人をひとつの演劇で救うことはできない。それは、それひとつですべての病を治すことのできる万能薬がいまのところ存在しないのと同じことだ。

しかし確実に、演劇には、人を救う力がある。


演劇は、我々が生きていくなかで自らの内側に抱えることとなる、孤独、寂しさ、悲しみ、怒り、憤り、無力感、絶望、疲労感、苦悩、侮蔑、差別的意識、恐れ、殺意、焦燥感、虚無感、疎外感といった感情から自らを守る力を与えてくれる。

ところで、ひとまず「悲しみ」だけに注目してみてるが、「悲しみ」とひと口に言ってみても、それの状態や色彩はその人それぞれに、またその時々に千差万別であり、その「悲しみ」の立ち上がってきた源流の種類もさまざまである。

その「さまざま」なものが私たちに与える傷を癒すためには、演劇の方もさまざまな形態を取る必要がある。

人間の状態や状況が数多であるのと呼応して、演劇のあり方も数多である。

一見これは非効率的であるように思える。じっさいのところ、非効率的なのである。演劇は、その演劇が必ず誰かを救うという保証があって世の中に生まれるわけではない。保証も確証もないままで、それでもその表現を世に投げかけることが何かを救うことになるのだと確信して、私は私の演劇表現を追求するのである。


すこしだけ立ち止まって考えたい。「効率」とは、非常に資本主義的な価値観から生まれる考え方だ。人生には確かに、効率を考えて行動することがとてつもなく重要で有益な場面がある。そこに疑いはない。

しかし、人生のすべての瞬間において効率が最優先されるべきか、と考えてみるとそこには疑問が残る。そもそも僕らは、人生のすべての瞬間において効率を最優先することが可能なのだろうか。

演劇は本質的に、効率を求めない。つまり演劇は本質的には、資本主義的営みではない。だが、だからといって共産主義的、マルクス主義的営みであるわけでもない。

演劇は、資本主義的な考え方も、共産主義的な考え方も内包する。ロマン主義や教養主義、刹那主義や懐疑主義、神秘主義や表現主義、ありとあらゆる姿勢と状態を内包する。それが演劇だ。

日常社会では一見して共存し得ないと思うような事柄や主義主張も、演劇の中では共存することが可能である。演劇とはいわば、思想の緩衝地帯である。

もちろん演劇は、あるひとつの思想を強く社会に発信するための装置としても機能する。けれども、だからといってすべての演劇があるひとつの思想を強く社会に発信するための装置として作られ、そう機能しているかというと、答えは否だ。

演劇とは本質的に、思想の緩衝地帯となり得る。

そこではありとあらゆる考え、主義主張が互いを牽制することなく共存できる。演劇が生み出す架空の世界のなかでそれらの思想は、我々を直接攻撃することなくそこに宙吊りになる。


演劇や小説といった「フィクション」を鑑賞する際には「不信の宙吊り」という心理行動が生じる。現実世界に置き換えれば "あり得ない" ようなフィクション上の嘘に対して、観客がいったんそれを受け入れることを言う。

「不信の宙吊り」は、言い換えれば、「ゼロベースになる」ということである。「普通に考えて」を保留し、「あり得ない」を押し留め、「それは間違っている」と条件反射的に言いたくなる気持ちを一度手放すことなのだ。

不信の宙吊りが機能する思想の緩衝地帯では、日常の中ではなかなか落ち着いて批判することのできない事柄について、ゼロベースの地点から新しく眺め、きちんと考えてみることができる。

そのはたらきが、つまり「きちんと考える」という行為が我々を、我々が抱えるそれぞれの傷から癒すための原資となる。


演劇には人を救う力がある。これは眼前たる事実である。

だから私はこれからも、演劇をやり続ける。私が出会うすべての人を救うことはできないかもしれないが、すべての人を救えないからといって、それが無意味なことだとは考えないからだ。

未来のどこかで出会うかもしれない誰か、を救うために、私は今日も、これからも、演劇について考え、演劇をやり続ける。



読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。