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【いそがしいとき日記】その7


わお!意外ともう7回目。

この【いそがしいとき日記】のフォーマット、けっこう気に入っています。


さて、今回はこの話題。

表から見えないタイプの努力の比喩として「水面を滑る白鳥」を使うことあるじゃないですか。

優雅に水面をいく白鳥も、水面の下では必死に水かきを動かしてる〜ってやつ。

それから派生して考えたところ、「俳優のやるべきことの比喩は、白鳥よりも鵜だな」と思ったのです。


俳優のすべき仕事のなかでいちばんわかりやすいのは、
「舞台に立つこと」です。

で、舞台に立って、演技をしたり、歌ったり、踊ったりする。

でも、俳優の仕事のなかで最も重要なことは「舞台に立」っているときに行われるのではないのです。


舞台上の俳優がやっているのは、「戯曲に描かれている役の人生の断片を再現すること」です。

あくまでそれは、断片、なのです。

僕たちは時間的に継続した人生を送っています。寝てたり、気を失ったりしているときには、自分の認識は断裂しているかもしれないけれど、それでも客観的には、人生は継続している。

けれど、演劇で描かれる登場人物たちの人生は、とても断片的です。

彼らの長い一生のうちの、ほんの数分ずつが蓄積されて、2時間ぐらいの舞台作品になっていく。


で、俳優の仕事の、目に見えるところは、その「登場人物の人生の断片」を演じているところなわけです。

しかし、登場人物の人生には「舞台に出てきてないとき」、つまり、「戯曲上では描かれていない時間」だってあります。

俳優の重要な仕事は、その登場人物の「舞台に出てきてないとき」、つまり、「戯曲上では描かれていない時間」について思いを馳せることなのです。


舞台上でのできごとや演技にダメだしをもらうことがあります。そこで、「見え方」や「台詞の喋り方」を調整することで場面を成立させようとする場合があります。

それが有効であることも否定しませんが、僕は単に「その場面だけの見え方」だけを調節することは、あまりしないようにしています。

演じている場面へのダメだしについては、「そこに至るまでの人生のどこかで、何かの体験や経験があったからそうなるのだ」という必然性が生まれるような人生上の出来事を作ることで対応するように心がけています。


鵜飼の鵜は、水面に出てくるときには「魚を捕えている」という結果を要求されます。けれど、彼らがいちばん奮闘しているのは、僕らからは見えない水面の下でです。

「魚を捕らえる」というミッションを完遂しようとして、水の下に潜らず、それっぽく見えるハリボテの魚をくわえてみたところで、その仕事はあまり評価されないでしょう。

水の上の人間たちが求めているのは、本当に生きている、新鮮な魚だから。

鵜飼の鵜が僕ら俳優だとしたら、鵜匠は劇作家あるいは演出家でしょう。

僕らは、鵜匠が求めるものを得て、水の上に提示するために水に潜ります。

鵜匠が「赤い魚が欲しい」といえば、水中で赤い魚を探します。

黒い魚を捕まえて、水の上でこっそり赤に塗り直す、なんてことはしたくありません。

鵜匠の指示が細いこともあります。「赤くて、体長56cmで、尾びれが花のようになっている、新鮮な魚が欲しい」みたいに。

そうしたら僕らは水中に潜り、その要求を満たした魚を必死に探します。

なぜなら、僕らの仕事は、鵜匠=劇作家や演出家が求めたものを自らの力で捕らえて水の上に持ち帰ること、だからです。


鵜が水に潜っている時間こそ、俳優=役が舞台に立っていない時間、です。

舞台上に提示されるべきものを的確に提示するためには、舞台上にいない時間についてどれだけ思いを馳せて考えを巡らせるのか。ぜったいにこれが勝負なのです。


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