劇場と銭湯


声優で俳優の春名風花さんのTwitterから、気になる投稿があったので引用します。

劇場でのマナーについてです。

風花さんは、芸能の活動をしながら、こういった社会的なことも臆せず発信していく姿がとってもカッコいいです。かつ、くだらないこともジャンジャカ発信していくスタイルも、超カッコいいです。笑

僕もかなり注目している俳優さんです。


さて。

この春名風花さんのツイートで示されている「劇場でこんな振る舞いされたら出演者も他の観客もたまったもんじゃないよね」という事象。なんで起こるのか、そして、どうやったら改善されるのか。少しだけ書いてみます。

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小さい頃、たまに銭湯にいくことがありました。

僕は小学校の途中まで母子家庭で育ったので、小学校低学年ぐらいまでは女湯に入っていたような気がします。でも、あるときから「あれ、ここ、僕がいるべき場所じゃないよね・・・」っていう恥ずかしさが芽生えるんですよね。あのタイミングって不思議。

で、ひとりで男湯に入る。一種の冒険みたいなものです。

そうすると、これまた不思議なんですが、銭湯にそこはかとなく漂っている「秩序」みたいなものを、子どもながらに感じるんですよね。


体を洗う前に湯船に入ってはいけない。

湯船で泳いではいけない。

湯船に飛び込むのも禁止。

他の人に水しぶきが飛ぶような行動は慎む。

お湯の中にタオルを入れてはいけない。

タイルの上を走ってはいけない。

浴槽の縁を、断崖絶壁を歩くようにして遊んではいけない。

脱衣所の扇風機を独占してはいけない。

脱衣所に出る前にはちゃんと体を拭かなければいけない。

脱衣所の床を濡らしたら、モップを使って自分で拭くこと。


そのほか、人との距離感とかも含めて、いろんなことを学んだ気がします。

ときには、その銭湯の常連さんというか、主(ぬし)みたいな人に直接注意をされたりもしました。

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この「銭湯的な体験」をせずに大人になった人っていうのが、もしかしたら今の世の中、結構いるんじゃないか。そんな風に思うことがあります。

人から何かを教わる、という経験は、家庭や学校に限定されます。あるいはバイト先とか、職場とか、なのかな。

家庭や学校はある意味、反抗の対象にもなります。また、家庭内はあくまでも「家族」の話なので、そこでのルールが外の他人がたくさんいる空間ではあてはまらない、なんてことも往々としてあるでしょう。

バイト先や職場、というのは働く場所ですから、銭湯的な場所とはルールの形態もずいぶん違いますよね。働く場所でのルールは、ビジネスを円滑に回すという目的が根底部分で共有されますが、銭湯的な場所でのルールというのは「狭い公共施設に多数の他人が押し込められたときに、どうやって互いに迷惑をかけずにそれぞれの幸せを最大化するか」みたいなことのために成立している節があります。

この、

狭い公共施設に多数の他人が押し込められたときに、どうやって互いに迷惑をかけずにそれぞれの幸せを最大化するか

という点について、訓練されずに野に放たれる人が多くなるっていうのは、けっこうしんどい状況です。

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テレビやソーシャルゲームが普及したことにより、「遊び」や「エンターテイメント」は「エンタメ 対 自分」という、閉じた空間の中だけで成立するようになりました。

自分の部屋のテレビで好きな映画をみているときは、どんなことをしても構いません。バリバリ音を立ててポテチを食べようがおかきを食べようが問題ないです。なんなら花火をしながら映画を見たっていいわけです。でも、映画館じゃそうはいかない。

ゲームにしたって、自分の部屋ならば、どれだけ罵詈雑言を放ちながらプレイをしたっていいわけですし、なんなら全裸でやってても問題ない。でも、集団スポーツの場だったらそうはいかない。

けれど、「楽しむ」ことを象徴する各種エンタメが、個人の部屋でも完結するような形になってしまったため、「楽しむこと」がつまり「自分が好き勝手に振る舞うこと」と直結する体験ばかりを積み重ねている人が、増えているのではないか。これは僕の仮説です。

昔のエンタメの多くは、人との交流の場にありました。寄席も、歌舞伎も、芝居も、街頭テレビも、プロレスも。

そういった人との交流のなかで、「ああ、これをやったら人様に迷惑をかけるな」「なるほど、これをやられるとこっちの楽しみも半減しちゃうのか、自分も気をつけよう」といった学びを積み重ねて、その場に集まった人の多くが「狭い公共施設に多数の他人が押し込められたときに、どうやって互いに迷惑をかけずにそれぞれの幸せを最大化するか」みたいなことを無意識的に気をつけていたのだとおもいます。

けれどいまは、インターネットやテレビ、スマホといった、「エンタメ 対 自分」「画面 対 自分」という閉じた関係性のエンタメから、一足飛びで劇場に出かけて行っちゃう。その閉じた空間では、「自分のどんな振る舞いが人を不快にするか」「劇場空間ではどんなことが暗黙の了解としてタブーになっているか」といったことが学習されないから、おかき食べちゃったり、携帯鳴らしちゃったりするんですよね。

ちなみに、寄席や映画館だと飲食がOKだったりするので、そのルール学習のまま小劇場にきちゃって、あらあら、というパターンもあると思います。


まあ、そんな現状のなかで、それぞれの場にあったルールをみんなが守り合って、「狭い公共施設に多数の他人が押し込められたときに、どうやって互いに迷惑をかけずにそれぞれの幸せを最大化するか」というミッションをクリアするにはどうしたらいいのか、が問題です。

僕が思うに、やはり、その劇場なり空間の主(ぬし)、みたいな人が必要なんじゃないかな。そういう存在の人がひとりでも多く居ることによって、なんとなくその空間に漂う空気感から、周りの人が察する、とか。よっぽどの時は直接注意する、とか。そういうことが必要なんじゃないかと。

もちろん、それが行きすぎて、ローカルルールがデフォルメされちゃったりとかして、新しく来る人が居づらいみたいな状態になっちゃうのは良くない。それは、「すべての人がそれぞれの幸せをルールのなかで最大化する」っていうところから外れちゃうから。

そういう、行き過ぎちゃう人がいたら、主催者なり劇場さん側なりが注意したほうがいいと思います。

「俺は44℃の湯にしか入らん!水でうめるな!」みたいなジジイの言い分を聞いてたら他の人が銭湯に来なくなっちゃうみたいなことですよね。それは、経営的にも、他の人のためにもならないから、銭湯側が「ジイさん、そこはなんとか堪忍してくれよ」みたいにうまく振る舞う必要がある。

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ちょっと、理想論めいてるところもあると思いますけど、やっぱり、狭い空間に他人が押し込められてるっていうのが劇場という空間ですから。そこには、「互いに迷惑をかけない」という最低限の心遣いは必要です。そして、「そこにいる誰もが幸せになる」という協力関係も、必要。

演劇や舞台芸術を作る側としては、ひとりでも多くの方に、楽しんでいただける空間を提供したいなと、ただそれだけを願うばかりであります。








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