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あの日から。

2011年3月11日

新宿にあるアルバイト先に向かう途中だった僕は、遅刻しかけていた為、歌舞伎町の手前を走っていました。自分の走る揺れによって、地面の振動に気付くよりも先に、逃げまどう人々に目を奪われました。走りながら皆、空を見上げている。視線を追うと、四方そびえ立つビル群が、コンニャクみたいにグニャグニャと揺れていた。何を見させられているんだろうと一瞬混乱。ただ、高層ビルは耐震設計により上部を揺らし、振動を逃すと聞いた事があったので、すぐに地震だと気がつき、僕も速度を上げました。この小さな通りに居る全員がビルの下敷きになるのを恐れ、全速力で大通りを目指しました。

靖国通りに出ると、すでに車道の真ん中に人々の中洲が出来ていた。倒壊するビルの被害に最も遭いにくい場所という判断で中洲はすでに定員オーバーになっている。靖国通りの下には地下街が通っています。東京随一の繁華街にある大通りは、柔らかい布のように波打っていました。

叫び声、クラクション、波打つ街、見慣れた新宿が歪んでいる。道の真ん中に避難したとしても底が抜けるかもしれない。本当の逃げ場などないと気付き、立ち尽くしたあの時の恐怖、光景は忘れられません。

しばらくすると揺れは収まり、東京での安堵とは裏腹に東北で起きている現実を知ることとなりました。

その翌月から無我夢中で役者仲間とチャリティ団体を立ち上げ、沢山の方々に助けて頂き、模索しながらも4年間の支援活動を行って参りました。

幾度となく訪れた東北で、沢山の方々に出逢うことができました。3月12日に結婚式する予定だったと語るご夫婦。流された結婚指輪の片割れを見せてくれた。夕暮れまで遊んだ子供たち。「どうせお前らはもう来ないんだ」とまっすぐな眼差しに怯みました。職業支援だ!と、おばあちゃん達が避難所で作る御守りを買いに行ったら「これは貴方たちみたいなボランティアさんへのお礼のプレゼントで作ってるんだから、売れません。お仲間の分も持って行って」かえってもらうばかりで浅はかな自分を反省しました。こうしてみんなで集まって作ってれば寂しさ紛れるからそれで充分なのっておばあちゃんは言いました。

高台にポツンと一軒だけが残されたお宅がありました。
まだ震災から2ヵ月の時で、海から離れた高台でしたが庭には船がひっくり返っています。東京からの来客だと、そのお宅を訪ねてくれた男性が、食事の時に震災の時のお話をして下さった。話しながら浮かぶ笑みは、辛さ堪えるためのもので、目に涙を溜めながら、目の前で大切な人を失った悲しみを伝えてくれた。

「あの時、俺にはどうにも出来なくてさ、命からがら車走らせてこの高台に来たの。今も眠れねぇんだ。酒飲んでも眠れないから、睡眠薬飲んで寝てるんだ。」

身を割くような、骨を砕くような痛みが、何年経とうが消えることのない激痛が、心に押し寄せ続けていることを、直のふれあいの中で思い知りました。

屋台村でユニフォーム交換をし酒を酌み交わした青年は、震災を機に仕事を失い、その後、引きこもってしまったと三度の訪問で聞かされました。

あの時、被災地に居た方々は、例え家族を亡くしてなくても、この先のこと、仕事、街、それぞれの大切なものを瞬間奪われた「遺族」なんじゃないかと僕は思っているんです。被災という言葉の奥にそうした深い痛みを捉えてこそ、傾けられる想いがあるのではないかと思うのです。

4年の活動の中で何が正しいのか、何が出来るのか、本当に分からなくなってしまったのは事実です。それでも屋台村のマスターは「東北を想ってくれたり、来てくれるだけで嬉しいですよ」と、人によってそれぞれ望むことは違うけどと補足しながら優しく伝えてくれました。

それぞれの10年。何ができるのかの答えは未だに出せませんが、東北を想い続けること、精一杯生きること、このことだけは続けてみようと思っています。とりとめのない文章になってしまいましたが、打っている時間にまた東北を強く想うことができました。避難所のおばあちゃんに貰った言葉「心の復興」をお祈り致します。あの時の少年はもう故郷を出て働いているのかな。悔しいかな君の言う通り行けてない。また行かせて下さい。

サポートしていただいたお金は、創作活動の費用に使わせていただきます。