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経営学に〈循環〉概念を摂り入れることの理論的なクリティカルさについて:藤原辰史[2019]『分解の哲学』に寄せて

今日は何もしない一日と決めていました(笑)

なので、先日購入してすごく興味を惹かれていた藤原辰史[2019]『分解の哲学:腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)を読みました。

私は、あまり一冊を精読するのが得意ではありません。だいたい流し読みを何度もするタイプです。精読(っても、勢いで読んでますがw)するときは、相当強く関心を持たないと集中力がまったく持ちませんwww

にもかかわらず、購入直後の断片的流し読み数度で、「あ、こりゃがっつり読みたい」ってなって、今日の午前中に一気に読んでみました。すごくおもしろいです。

詳細をまとめる気はさらさらありませんので、ご関心の方はぜひお読みください(笑)

ちなみに、藤原辰史先生は京都大学人文科学研究所准教授(1976年生まれなので同い年。すごいなぁ)で農業史や食の思想史が専門とのこと。ちなみに、以前に出された『ナチスのキッチン』もおもしろくて、購入しました。

生態学への注目とその時代:魅力と忌まわしさと

本書の学問的な最大の焦点は、生態学的な思考にあります。「生態学的な思考をベースに哲学する」といってよいかもしれません。

本書の序章や第5章(244‐250頁)でも触れられていますが、生態学的な関心は1920年代後半に盛り上がっていったようです。ドイツにおける沼沢学の研究者だったティーネマン(Tienemann, A.)はエコシステムという言葉が生まれる以前に〈生命共同体:Lebensgemeinschaft〉という概念を打ち出し、それをさまざまな側面から眺め、その全体的な姿を捉えることの重要性を指摘しています。

詳細は本書をお読みいただきたいのですが、この生態学的な枠組がナチズムと結びついたのは事実です。ちなみに、近しいと思われる問題意識に即した研究として、以下を挙げてよいと思います。

さて、私の場合、この生命共同体という概念を見ると、間違いなく同時期に提唱された〈経営共同体:Betriebsgemeinschaft〉という概念を想起してしまいます。ニックリッシュです。

ちなみに、ニックリッシュは経営共同体という概念を提唱しましたが、彼の経営経済学体系における位置づけは、それほど大きいわけではありません。むしろ、経済的現象としての〈価値循環〉に焦点が当てられています。ただ、〈価値循環〉を考える際の認識枠組として経営共同体という概念が設定されたとみてよいと思います。そして、経営共同体概念はナチス期に高唱され、アウラーやザンディッヒなどによって、よりナチスに即したかたちで展開されることになります(大橋昭一[1966]『ドイツ経営共同体論史』中央経済社)。

ニックリッシュが生態学的な思考から影響を受けていたという証拠はみられません。どちらかというと、物理学や熱力学の影響のほうが、表面的には大きいです。けれども、このティーネマンの業績などをみると(さらには、ほぼ同時期に活躍を始めるヴァイツゼッカーも似たような問題認識といえるかも)、この時期に循環や共同体といった発想が一つの流行をみていた可能性はあるようにも感じられます。

ニックリッシュの議論との接合は後ほど考えるとして、生態学的な思考はどうしても全体性と結びつきます。その際、しばしば「やらかしてしまう」のが全体に意思を認めてしまう点です。ニックリッシュもけっこうこの点に留意していたにもかかわらず、やはり全体性の陥穽に、暗黙の裡にはまってしまっている感は否めません。

本書では、その点についてきわめて慎重に論を展開しています。そのキー概念となるのが、ほかならぬ〈分解〉なのです。

基盤概念としての〈分解〉

本書で重視されているのは、タイトルにもあるとおり〈分解〉という概念の再定位です。もっというと〈腐敗〉とみたほうがいいでしょう。ここでいう〈腐敗〉は汚職のような価値判断を伴った意味ではなく、形態上での変化における〈腐敗〉です。なので、〈分解〉という概念と近いわけです。

この概念を、社会における物質の循環に拡張して捉えているところが、すごく興味深い。著者ご自身も指摘しておられますが、このあたりマルクスの『資本論』も同様の姿勢があります。

同時に、マルクスの視座に潜む問題点も抉り出しておられて、このあたりなかなか読んでてワクワクします。

さて、著者がなぜ〈分解〉概念を重視するのか。これを明確に論じているのが108頁です。少し長いですが、引用します。

(分解という一連のプロセスは)破壊性と創造性をともに、そして同時に兼ね備えた現象であり、これが自然から社会まで世界の根本的な現象であるととらえることが、「循環」という概念ではなかなか十分にできなかったのではないか。細菌と菌糸に満たされた循環論にとって分解論は本来中心であり、これまでもそれは論じられてきたのだが、循環論自体があまりにも清潔に描かれるようになり、貨幣や資本の循環という意味に「循環」が染まり、部品の分解から再構成へという生産工程の意味に分解の意味がとらわれすぎているうちに、本来の分解論はすっかり足腰が弱くなってしまった。たしかに、分解を担う存在は、歴史や自然の暗部、陽の当たらない場所で生きていて人間の意識にのぼりにくい。しかも、その「循環」が国連や国家や環境団体によって擦り切れるほど使用された現在、「分解」の探究は切迫した課題であると私は思う。

これに続く第2章最後のパラグラフもすごく重要なのですが、それはお読みください。

ここに掲げた引用部分は、先ほども触れた〈価値循環〉の問題を考えるにあたって、まことにクリティカルな重要性を持っています。たしかに、〈循環〉という言葉が道徳的な意味を持って用いられているなと感じることがあります(私自身は、価値循環という言葉に道徳的な意味は付与していません。価値の悪循環もありうるからです)。

経営学がこれまであまり目を向けていなかった〈分解〉に光を当てようとするのが〈静脈産業〉という概念かもしれません。経営学でもこういう研究があります。

いずれも私は未読ですので、内容に触れることはできませんが、目次を見る限り、自動車産業における静脈領域にスポットを当てたもののようです。

最近では、マイクロプラスチックの問題にも注目が集まってます。それらを視野に入れると、「モノが創り出される」過程に深くかかわる経営学にとって、〈分解〉が次の〈生産〉につながるという過程把捉は見落とせないポイントの一つであるように思います。イケウチオーガニックの取り組みなどは、これに照応するといえるでしょう。

あまり、個々の企業の取り組みに焦点を当ててしまうと、せっかくのこの本の豊かさが矮小化されてしまいそうなので、これくらいにします。

ただ、いずれにしても〈分解〉局面が〈創造〉にとって重要であるという点、さらにそれは「〈創造〉のため」(=機能的視座)ではなく、あくまでも「それぞれが生きていくためにやっている、その結果として次の〈創造〉への循環が生じている」(=作用的視座)という点を忘れてはならないように思います。本書でも、それに近い文言があったように思います。

ここで、著者は〈生産〉〈消費〉〈分解〉ではなく、あえて〈生産〉〈分解〉の2つの概念に絞り込んでいます。この点、あくまでも経営学的な問題意識からですが、次節で考えてみたいと思います。

本書では触れられていませんが、近年、〈発酵〉に関して興味深い取り組みを続けておられる小倉ヒラクさんの試みや成果も、きわめて近いところにあるように思います。明後日、これに行こうと思ってて、楽しみです。その翌日は、大阪でも刊行記念トークがあるとかで、参加予定。

って考えると、『もやしもん』も同一線上にあるのかも。

そもそも〈消費〉とは?:消費概念の〈分解〉

本書では、生態学で一般的に用いられている〈生産〉〈消費〉〈分解〉ではなく、〈生産〉と〈分解〉という2概念の構成で捉えようとしています(第5章)。

生態学的には、〈消費〉とは別の動物や植物を捕食する行為をさすとのこと。冒頭に触れたティーネマンは〈生産〉〈消費〉〈還元〉という3つの概念構成で議論を展開していました。ティーネマンは生命共同体という概念においてアウタルキー=自給自足という概念を併せて用いていました。当然、ここにナチスとの近しさ(ティーネマンが積極的にナチスにすり寄ったということではありません)が感じ取られたとしてもやむを得ないでしょう。

この概念構成を、後続の研究者たちがいかにして錬磨彫琢していったかが、本書では述べられています。

そのなかで、ハインリッヒの以下の文献についての言及があります。

ちなみに、引用されている訳文に〈葬儀屋〉という言葉がありますが、その原語は〈undertaker〉です。ドイツ語に直訳すると〈Unternehmer〉ですね。はい、これ〈企業者(企業家)〉です。しかも、undertakerがもたらす〈サービス〉という表現があります。これは、〈生態系サービス〉という概念に寄せたものですが、同時に企業者が顧客にもたらすサービスというニュアンスが表現されています。

それらの学史的考察のなかで、著者は消費概念と分解概念の線引き可能性に疑問を呈しています。そして、消費概念を分解概念に〈分解〉しています。

この論点、実は個人的にけっこうツボにはまるものでした。

なぜか。それはニックリッシュの価値循環概念を考えている際に生じたモヤモヤとかかわってきます。

ニックリッシュは、自らの経営学(経営経済学)の出発点を家政(家計)に置きます。なぜなら、家政が抱く欲望こそが本源的であり、それを充たそうとして生まれるのが派生的経営としての企業だからです。現実には、企業の実態についての考察がほとんどなわけですが、いちおうその視座は維持しようとしています。

そして、注目すべきは、家政の基本的な活動である〈消費〉もまた価値創出過程であると考えている点です。ニックリッシュの議論は100年前のものなので、現代と合わない点があるのは当然ですが、その点を念頭に置いても、たしかに家計が労働給付を創出することは事実です。これは、人間社会が分業的 / 協同的な性格を持つ限り、おそらく変わらない点です。

もちろん、ここにいう労働給付とは肉体労働や時間によってのみ測定される労働を意味するものではありません。他者のためになされる何がしかの貢献すべてが労働給付に含まれているとみるべきです。

つまり、ニックリッシュは家政にも〈価値創造〉的側面を認めているわけです。つまり、単なる消費者としてのみみているわけではないのです。

このあたりをどう整理したものか、ずっとすっきりしませんでした。近年のサービスデザイン、あるいはサービスエコシステムの議論においては、多様なステイクホルダーの協働を通じた価値創造がめざされているわけですが、そこでは誰が生産を担い、誰が消費を担うのかという線引きが難しくなります。

もちろん、自然現象と社会現象を何の考慮もなく等しく考えるのは、おそらく問題があると思います。ただ、同時に表層的な考察のみで〈生産〉〈消費〉〈分解〉と切り分けてしまうことにも問題があります。

講義でステイクホルダー概念を説明したうえで、実際の企業やビジネス / サービスエコシステムについて分析してもらおうとするときに、このあたりの概念的な“溝”は、けっこう引っかかってました。その点で、本書は私にとってすごく示唆が大きいのです。

しかし、サービスデザインなどに触れるなかで、生活者の日常的実践=生活そのものに分け入っていく重要性を感じることが増え、そのプロセスについて考えるようになると、〈生産〉〈消費〉の境界線がまことにわかりにくいことにも気づかされるようになってきました。

もちろん、かといっていきなり経済現象 / 経営現象に〈分解〉概念を持ち込もうなどと言っているのではありません。それぞれのBetrieb内部において生じているところの、何らかの資源や栄養などを「摂り込み」、それを「消化し」何らかの「別のものへと転態せしめる」という内部価値循環のプロセスを、ひとまず緻密に捉えていく必要があるということなのです。

本書第4章で採り上げられる〈屑拾い〉の話や、第5章で登場する糞虫(フンコロガシなど)の話などは、まさにこの点をあらためて考え直させてくれる議論であると、私には感じられました。

無理な結びつけはしないけれども。

正直、私には『分解の哲学』を丹念に読んで書評するだけの準備がありません。なので、この記事もあくまでも私の関心に即して書いたものです。

ただ、この本が偶然にも、私自身、頻用しながら時として違和感を覚える、あるいは上滑りの危うさを感じることについて、ていねいに議論をしてくれているおかげで、そこから価値循環という概念を鍛えなおすきっかけをもらえたように思います。

上にも紹介しましたが、マテリアルフローコスト計算(MFCA)などは、実際の価値循環を詳密に明らかにしていくうえで欠かせないものです。単に自然環境保護というだけにとどまるものではないでしょう。もともとがマテリアルフロー計算であったというところも、併せて注目しておいてよいかもしれません。

おそらく、サービスデザインのようにエコシステムをデザインしようとする(より動的には、デザインし続けるというべきかもしれません)際には、なおのこと本書に示されているような〈分解〉的視座が求められるように思います。

咀嚼消化が十分ではない状態でnoteに書くのは、いささかのためらいもありましたが、ひじょうに大きな示唆を得たので、すごく雑駁ながら忘れないうちに書きとめておく次第です。

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