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社会(ソサイチー)の窓

ヨーロッパ近代文明を背景として生まれた「ソサエティ」という概念は、「個人」や「市民」、「国家」、「資本主義経済」などの考え方とセットで成り立つものでした。
そのため明治初期の日本人にとって、この概念を理解し受け入れることは、世界の見方に関してのコペルニクス的転換が必要だったと思われます。
明治のはじめ岩倉具視使節団に秘書として随行した久米邦武は、ワシントンにおいて『米国憲法史』を訳出しようとしたとき、一番困ったのが「ソサイチー」と「ヂョスチス」だったと回顧しています。

「ソサエティ」に「社会」という訳語が当てられ、定着するまでには、かなりの紆余曲折があったようです。
「会」「組」「懇」「結社」「仲間」「一致」「公会」「社中」「連中」「世道」「交際」「社友」「連衆」「交わり」「相生養」「成群相養」「人間社会」などなど、当初ソサエティはさまざまな日本語で表現されていました。
齋藤毅『明治のことば:東から西への架け橋』によれば、「社会」という語がソサエティを意味する形で成立したのは1875(明治8)年のことで、それが一般に普及し始めたのは1877(明治10)年ごろからだったということです。
『東京大学文学部社会学科沿革75年概観』では、「福地源一郎氏が明治8年1月14日の『東京日日新聞』の論説に社会(ソサイチー)と片仮名を付して使用した。これがsocietyの訳語として社会なる語が使われた初めではないかと思われる。」と紹介しています。

中国では元来、「社」は各部族集団の守護神である一本の樹木を表し、原始集落は「社」を中心として形作られていました。
土地の守護神によって統一された集団のことも、同じく「社」と呼びならされ、先秦時代には25家をひとつの行政区画の単位として、「社」と称していました。
そして毎年春秋に行われる「社」の祭礼は、民衆が会合して祝うことから「社会」と呼ばれるようになります。
宋代になると社神についての会合だけでなく、娯楽や演劇、趣味、運動、商売などの同士が集まって組織する団体のことも「社会」と呼ぶようになりました。
日本でも中国と同じように、江戸末期には地域的な集落や同業者の団体、趣味の上での同人組織などを称して「社」「社団」「会社」「社会」などというようになっていきました。

ヨーロッパにおいても、元々「ソサエティ」という言葉は「少数の仲間と連み合う」という意味で使われており、中国や日本の「社会」と同じような部分社会を指していました。
それが17世紀以降には、近代国家の成立とともに、「ソサエティ」は個別の仲間集団ではなく、国家と同じ大きさを持つ全体的な人々の結合を意味するように変容していきます。
そしてこの新しい「ソサエティ」の概念と切っても切り離せない、双子の兄弟として誕生したのが「インディヴィジュアル」です。

「インディヴィジュアル individual」を文字通りに解釈すれば、「分けられないもの」となります。
この言葉は17世紀近代社会の誕生とともに「集団などと対比される一人の人間」という意味で使われるようになり、ソサエティを構成する最小単位として考えられるようになりました。
そこには人間が生まれながらにして持っている自然権や、万人平等の考え方が含まれています。

ソサエティが開国当初いろいろな日本語で表現されていたように、インディヴィジュアルもさまざまな呼び方をされていました。
「各殊之人身」「単」「独」「単一個」「独一者」「独一个人」「一物」「一体」「各個」「一個の人民」「人別」「個体」「自立」「一個人」・・・
そして1884(明治17)年『国家生理学』第二編の中に、やっと「箇人」「個人」という言葉が登場します。
1877年の「社会」誕生に遅れること7年にして、ついに「個人」も明治社会にその産声を上げたのです。

文明開化までの日本には、「個人」という言葉も概念もありませんでした。
古くから強い縦関係の世界に生きてきた日本人にとって、「個人」が集団と対比して成り立つなどということは、想像もできないことだったと思われます。
地縁・経済・職業・宗教などの講や組、座や催合など横のつながりはあっても、それは「世間さま」という集団の枠の中における関係であって、そこから離れた生き方はあり得ないことでした。

しかしそんな中にも人間平等の思想は、わずかに開かれた長崎の窓口を通して、西方から着実に入ってきていました。
長崎でオランダの天文学、地理学を学んで日本に地動説を紹介した司馬江漢は、
随筆集『春波楼筆記』で「上、天子、将軍より下、士農工商、非人乞食に至るまで皆以って人間なり」と万人平等を謳っています。
また江戸幕府天文方だった高橋景保は、『諳厄利亞人性情志』の序文で「政刑法典皆一国の議り立つる所にして、王も背く能はず」とイギリスの共和思想を紹介しました。

社会は一個の生物や生態系と同じように、変化を繰り返しながら自己組織化し、成熟していきます。
健康な社会は、オープンシステムとして常に周りの社会とつながって、互いに影響を与え合い、時に融合してより高次のレベルに進化します。
鎖国体制が敷かれ、内向きに熟成していた江戸時代の日本社会においてさえ、小さな「社会の窓」を外向きに開き、そこから情報や栄養を取り入れて組織内に循環させ、新陳代謝や変化のためのエネルギー源としていたのです。

日本の建物は伝統的に柱と梁で支える構造をもつため、内外を隔てる壁がなくてもよく、柱と柱の間に空いた空間は全て開口部となります。
この空間を仕切るのが「間の戸」で、内部の暮らしと外部の自然は、広く開いた「間戸(まど)=窓」によってつながっていました。
間戸の内外には縁側があり、内から庭木や風景を眺められ、外の人たちが気軽に立ち寄れる空間をつくっていました。
内側と外側を厚い壁で遮断し、最小限の窓を開けることで光を取り入れる西洋の建築とは、その開放性においてまったく違う考え方で、日本の家々は建てられていたのです。

現在の人類社会は、近代ヨーロッパの価値観をベースとし、グローバルなレベルに融合・進化しようとしています。
その変化のエネルギーは、外部から取り入れなくてはなりません。
現在の日本の社会は、「近代」という価値観にすっかり取り込まれてしまっているようにも見えますが、その奥深い部分には縄文や平安、江戸など内向きの時代に熟成させてきた、オルタナティブでサスティナブルな魂が眠っています。
今こそ日本は恥ずかしさを捨てて「社会の窓」を開け、近代を超える「ソサイチー」の魂を露出し、世界へ逆輸出させる時なのではないでしょうか。

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