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『成長の限界』とオイルショック

資本主義国家群や共産主義国家群が軒を争うようにGDPの拡大を競い合う中、資源や食糧生産は算術的にしか増えないのに対して、人口はマルサス的に増えるため、一人当たりのGDPは減少に転じざるを得ず、地球社会は近い将来破綻するかもしれないと考えた人がいました。
オリベッティ社副会長のアウレリオ・ペッチェイです。
ペッチェイは1970年、世界各国の元・現首脳や国連事務総長、各分野の学識経験者など約100人に声かけしてNPO「ローマクラブ」を発足し、システムダイナミクス開発者のジェイ・ライト・フォレスターMIT教授に地球環境に関しての数値シミュレーションを委託しました。
フォレスターの助手だったドネラ・メドウズ、デニス・メドウズらは、そのシミュレーション結果をモデル化し、1972年3月には、来るべき人類の運命に対し警鐘を鳴らすことになります。
それがローマクラブ第1号レポート『成長の限界 The Limits to Growth』です。
 
メドウズらは1900年から1970年までの地球規模の実データをもとに、2100年までの世界にどんな変化が起こりうるかというシミュレーション・モデルを策定しました。
現状に対して何も対策しない場合の「標準シミュレーション」に加え、資源発見に力を入れた場合や資源節約技術の推進施策を追加した場合、土地当たり収量増加の推進施策を追加した場合など、14のシナリオを想定し検討しました。
その結果、GDPの指数関数的な成長を続ける限りにおいて限界は次々に表れ、21世紀の終わりまで成長を持続するシナリオを見出すことは不可能であるという結論に達します。
 
『成長の限界』が出版された翌年の1973年10月には、第4次中東戦争によるオイルショックが起こり、世界中の人々がローマクラブの警告を身にしみて感じることになります。
この月ペルシア湾岸のOPEC加盟産油国6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ引き上げ、さらに翌年1月からは11.65ドルへ引き上げると発表しました。
原油価格が4倍に急騰することで、世界各国はエネルギー政策の根本的な転換を迫られることになります。
この1973年は、地球上の資源の有限性について、人類が史上初めて文化や国家、イデオロギーの違いを超えて共通認識を得た、記念すべき年となったのです。
 
日本政府は一般企業への石油・電力20%削減と資源節約を要請し、国民に対しては「節約は美徳」を提言して、それまでの「資源消費型」経済から方針を一転させます。
その結果デパートや映画館、飲食店などの営業時間は短縮され、エレベータやエスカレーターも軒並み止められました。
テレビの深夜放送がなくなり、日中の放送時間も制限されました。
大阪千里ニュータウンの大丸ピーコックから発生したトイレットペーパー騒動は国中に広まり、全国民が「この世の中から紙や物がなくなるかもしれない⁈」という不安に怯えて消費財の買い溜めに走りました。
全国の小売店の店頭からは商品が消え、翌1974年には「狂乱物価」という言葉が横行する中、日本のGDPは戦後初のマイナス成長を記録することになります。
 
世界的にも主要先進国では、低成長率と高失業率(スタグネーション)が続くと同時に物価が高騰(インフレーション)するスタグフレーションが起きました。
それまで水よりも安い価格で産油国から手に入れ、使いたい放題だった原油が、わずか数ヶ月の間に4倍の値段になったのですから、それも当然です。
日本を含む西側消費国は1974年国際エネルギー機関(IEA)を発足し、加盟国に備蓄を義務付けるなど危機への備えを進めました。
1975年にはジスカールデスタン仏大統領の発案により、クライシス後の経済回復を主たる議題として、先進国の首脳が一堂に会する主要国首脳会議(サミット)がフランス・ランブイエで初開催されました。
一方欧米石油メジャーから事実上価格決定権を奪ったOPECは、1978年から再度原油価格の値上げに踏み切り、翌年のイラン革命による減産をきっかけに、第2次オイルショックを招きます。
 
ところが2度にわたるオイルクライシスに対する先進諸国の対応は、「脱石油産油国依存」ではあっても「脱石油依存」ではありませんでした。
ローマクラブの提言がその直前になされていたにもかかわらず、「化石燃料依存によるGDPの拡大」という基本方針そのものを変えなかった各国は、50年後の現在、ロシアのウクライナ侵攻により、3度目のエネルギー危機を迎えることになります。
また化石燃料に含まれている炭素の排出による気候変動のコンセンサスについては、各国が共有しきれないまま、グローバル環境クライシスに手をこまねいている状況が生まれています。
 
1970年代のオイルショックを振り返ると、それは人類にとって化石燃料依存社会からの全面的な脱却を目指すきっかけとなるべき出来事でした。
当時小学生だったわたしは、ちびた鉛筆をまだ削る前の鉛筆につなぎ合わせ、ほぼ芯だけになるまで使いきっていた記憶があります。
ノートは新聞の折込チラシを束ねて綴じたものを使っていました。
しかし1980年代に入ると徐々に景気は回復し、バブル期に向けて大量消費全盛の時代となっていきます。
バブル経済が爆けるまでの数年間、わたしは狂乱景気の日本を離れてアメリカ東部で暮らしました。
山手線の内側の土地を全部売れば、アメリカ合衆国の国土が丸ごと買えると言われていた時代でした。
そしてそこでアースサイエンスと人類学を学び、人間が地球上でこの惑星と共に健康でいられるにはどうすればいいのだろう?と考える毎日を過ごすことになったのです。

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