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中国史小話集⑤

【董允と費禕の逸話】
諸葛亮、蔣琬とともに蜀漢を支えた董允と費禕は仲が良かった。
ある時、董允の父の董和が、どちらが優れているか試そうと、二人が一緒に外出する際にわざと粗末な馬車を用意した。すると、董允は露骨に嫌な顔をしたが、費禕は意に介さなかった。それを見た董和は、費禕のほうが優れていると思ったという。
ある官職に就いていた頃、費禕は朝夕のみ仕事をして、日中は人に会ったり酒を飲んだりしていたが、仕事を滞らせたことはなかった。後任になった董允が費禕のマネをしたところ、数日で仕事が溜まり始め、董允は「人の能力にはこれほど差があるのか」と嘆息したという。
なお、董允は費禕に先立って亡くなっている。

【幻の歴史書『東観漢記』】
『東観漢記』という歴史書がある。『漢書』の撰者・班固によって『漢書』の続編として執筆が始まったもので、紀伝体で東漢(後漢)の歴史をまとめる。東観は宮殿内の、資料編纂の部署があった場所である。複数の人間が関わり、かつ同時代の出来事を並行してまとめているため、いささかまとまりに欠ける内容のようである。当初は『史記』『漢書』とともに「三史」と呼ばれ重んじられたが、南北朝時代に范曄が新たに『後漢書』を編纂すると読まれなくなったようで、現在は散逸し、一部が残るのみである。
ただ、范曄の『後漢書』に立伝されていない人物の伝もあり、貴重である。

【長沙王劉発のこと】
長沙王劉発は西漢(前漢)の景帝の子である。
ある時、景帝は妃の一人を召したが、彼女は生理中で、侍女の一人を身代わりに出した。酔っていた景帝は替え玉に気づかず同衾した。そうして産まれたのが劉発である。こういう経緯があったからか、劉発は長沙王に封じられたものの、覚えはあまりめでたくなかった。
ある時、景帝の息子らが宴会で舞を披露したことがあった。その時、劉発は手足を縮めた不格好な舞で群臣の失笑を買った。景帝が咎めると、劉発は「私の封国は狭いので、手足を思うように伸ばせないのです」と答えた。それを聞いた景帝は、劉発の領地を増やしてやったという。

【トイレに落ちて死んだ君主】
春秋時代、晋の成公は重臣・趙氏の勢力を恐れ、讒言を利用して一族の多くを誅殺した。ある夜、成公は趙氏の先祖だという鬼に追いかけられる夢を見、間もなく病気になった。巫女に占わせると、誅殺した趙氏の祟りと出た。巫女は、「来年の新穀の麦飯を食すことはできないでしょう」と告げた。
しかし、成公は翌年まで生きていた。新嘗の日、新穀の麦飯を作らせ、いざ食そうとした時、急に腹が張ってきた。そこで厠へ向かったところ、足を踏み外し、中へ落ちて死んでしまった。
当時、厠は高床で、階下で人糞を餌にして豚を飼っていた。床下は落ちると命に関わるレベルの高さがあったようだ。

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