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岡山芸術交流 弱さは強さ

11月3日に、岡山芸術交流に行ってきた。行ってきたと言っても、体調がイマイチだったのと、展示を見ている最中に子どもがおしっこをもらしたので、旧内山下小学校の一部の展示しか見れていないのだけど。

それでも、芸術交流のスピリットは感じることができた。全ての弱さを肯定し、苦しみも(ゆくゆくは)希望に変えてしまうような、素晴らしい展示だった。

私は島袋道浩さんの大大大ファンだ。彼がいるから生きていけるといっても過言ではない。ポエティックでささやかな彼のパフォーマンスは、いつだって私の心をくすぐる。彼と同じ時代に生まれて良かった!まじで好きだから!

時間がないのはあらかじめわかっていたので、真っ先に彼の作品を探した。木造の古い校舎に、センチメンタルなピアノの音色が響いている。理科室っぽい教室で上演されていたのは、彼のパフォーマンスを記録した映像作品。その名も、「白鳥、海へいく」。
スワンボートで川を下り、海へ向かった記録だ。

白鳥は優雅に見えて、水面下では足をバタバタ動かしている。スワンボートも、動かすにはずっと漕ぎ続けないといけない。

波の立たない湖ならまだしも、海へ出たら波に翻弄される。なんと非力なことよ。それでもスワンボートの乗組員たちは、和やかに楽しそうに見えた。

次の日足パンパンだろうなと、見ているこっちは心配になったのだけれど。漕いでいる人たちは、自分たちの置かれている非日常的な瞬間を、体全体で楽しんでいるように見えた。

このプロジェクト、映像として残っていない部分のほうが、大変な事が多かったんじゃないかなと思う。
スワンボートを海へ。お役所との調整を考えるだけでもうんざりしてしまう。
アートに興味も理解もない人だっていただろう。関係各所に、自分の作品に協力してください!と言って回る事。しかも、絵画や彫刻など「アートとはこうだ!」みたいな枠から外れた現代アートのパフォーマンス。

きっと、水面下の白鳥の足みたいに、バタバタともがく事もあったんじゃないかな。見えないだけで。 

彼の凄さは、作品を制作することで、本来出会うことのなかった人と人を結びつけていく事、それ自体がコンセプトなのだ。
映像で、何が見えていて何が見えていないかというよりかは、そこに至るまでの過程や労力を、この作品が誕生するまでに出会った人々を想像する事に面白みがあると私は感じている。
白鳥の足は見えないけれど、見えていない部分が美しい。

片山真理さんの作品も、ぐっときた。ちょうど女として生きることの非力さを感じていた上、子どもがおしっこをもらしたので、「はるばる来た芸術祭さえゆっくり見れない、私って一体…。」と、どんよりしていたのだけど。
帰りの車で思い出していたのは、片山真理さんの作品と、キャプションに書かれていた次の言葉だ。 

「より良く生きることは、最大の復讐だ。」

私は妊娠した時に体調が悪かったのだけど、そのせいで仕事に穴をあけ、疎ましがられた。子どもの父親は誰にも何にも疎ましがられることもなく、自分の子どもを抱く事ができた。子どもの父親が悪いわけではないけれど、私は悲しかった。産むのも産んでからもしんどいのは私なのに、なんで私だけ疎ましがられないといけないのだろう。

みんな、自分が病気になったりしんどくなったりする前提で、生きればいいのにな。他者の弱さを認める事は、自分を許すことにもつながるんですよ?

片山真理さんのキラキラした空間は、今まで彼女が受けた傷や流した血が発光しているようだった。美しいことは必ずしもハッピーではないけれど、その輝きで誰かをチアアップすることができる。

私もより良く生きてやる!と、復讐をたくらんでいます。美しく和やかで楽しい復讐をしてやる。

白鳥のバタ足は海のうねりに負けず、とうとう島へたどり着く事ができた。休み休みでも、負けない事が大事だと知った。

岡山芸術交流に行くことができて、本当に良かった。

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