見出し画像

【政治学講座3】「国家」とは【体系的知識】

政治学講座(たぶん全十回くらい)

参考文献 中村菊男 著,政治学 改訂第3版,2010

↓動画(簡略)版↓

第三回 「国家」とは

「仮に手段としての強制力を知らぬ社会的な機構のみが存在するならば、『国家』という概念は、消滅してしまうであろう」

「ある特定の領域の内部において―この領域というのは特色の一つである―、それ自身のために合法的な物的強制力の独占を要求するところの(それも効果的に要求するところの)人間共同体である」

マックス・ウェーバー、石尾芳久訳『国家社会学』

はじめに

第一回で政治学における政治は「国家に関わるor政府による政治的営みに限る」と結論したが、政治学にとっては中心ともいえる「国家」あるいは「政府」とは一体、なんなのであろうか?

今回は人々が暮らし、政治の舞台となる「国家」についての回になる

国家の特質

政治学の立場において、国家は他の団体とは一線を画す存在であるが、果たして何がそれを卓絶させているのだろうか?

教会や組合等、その他の団体と比べ国家や政府はどのような特徴を持つのかを明らかにすれば、国家や政府の特質を明確にすることができるだろう。

国家が他の団体と異なる点は大きく3つあり、それらは国家の成立要件でもある。

1.「国民」加入・離脱の困難性

国家の構成員たる地位・資格を「国籍」といい、これを持つ人々を「国民」という。国家の三要件の一つである。

近代国家では基本的に複数の国家に任意で加入し、あるいは気まぐれに離脱と加入を繰り替えして国を乗り換え、様々な国で国民の権利を享受するといったような事は難しい。

一度、国民になったからには基本永続的に国民で居続ける事が前提とされているのである。

サークルや教会、労働組合など他の集団の構成員になるのは任意であり、基本的に国籍を変更するよりは容易である。

会社や学校のように加入に試験などの条件が必要でそれが物凄く敷居が高いという場合や脱会を許さないカルト宗教等反社組織のような場合もあるが、大抵の集団は任意に加入・離脱でき、複数の団体に加入する事も可能である。

一方、国籍取得には出生時の取得と帰化による取得の二種類があるが、出生時の取得は出生した本人の意思で行われるわけではなく制度による他律的必然である。

この出生時の国籍付与の条件は大きく「属人主義」「属地主義」に分けられる。

例えば、日本は属人主義なので国籍を持つ親との血縁関係に基づいて国籍が付与され、アメリカは属地主義なのでアメリカ合衆国の領土内で出生した事実によって国籍が付与されている。

なので、日本人の子供としてアメリカで生まれた子供は国籍を選択するまでの間日本の国籍とアメリカの二重国籍になる。

また国籍を離脱するには他国に帰化するか無国籍にならなければならないが、国籍を持たない者は国家の成員としての義務から逃れられる一方、国民としての権利を享受できない事になってしまうため現代ではほぼ選択肢にならない。

古くは人狼刑のような人権剥奪的刑罰(当時人権の概念はない)があったが無国籍はそれに準ずる位の不利益を生ずる。例えば、日本でも家庭環境などの要因により国籍を取得できなかった無戸籍の人々がいるが、就学・就職を始め様々な面で不遇である。

一方、先にも述べたが、複数の国家の成員となる事はそれぞれの国家から国民に保障された権利を享受し行使する事を意味し、これは主権在民の民主制国家ばかりの昨今では、多重国籍によって”利害が対立する複数の国家に同時に参政権を行使できてしまう”という点が問題視されている。

また権利の逆で”戦争中の両陣営から同時に徴兵される”ような背反する義務を課される可能性もあるため、多くの国家で多重国籍が認められていなかったり、多重国籍を認める条件が定められていたり、多重国籍である事を公表しなければならない事になっている。

例えば、日本では外国の国籍を自らの希望で取得した場合、日本国籍を失う事が国籍法第11条で定められており、例え、二重国籍状態になった場合も国籍法第14条第1項にて二重国籍状態を規定の期限内に解消する事が定められている。

余談だが、国籍の問題は二国間以上にまたがる問題の為、一国の法制度で想定された結果には必ずしもならない場合もある。世の中には国籍離脱権が無い国家もあり、そういった国の人が二重国籍を認めない国に帰化すると二重国籍状態は解消不可能のため、想定外の二重国籍状態が継続される事になる。

ちなみに、近代以前では国籍概念が希薄であり、王が外国人の傭兵を雇ったり、外国人の廷臣に政府を差配させるといった例も珍しくなかった。

2.「領土」国家は地域的な団体

常に国家は一定領域の上に成立し、この国家が占有する領域を「領土」と呼ぶ。これも国家の三要件の一つである。

日本のような島国では海岸線によって区分されるため、どこが領土かは分かりやすいが、フランスや中国のような大陸国家でも他国との境には国境線が引かれ、領有権争いがある地域では領域をめぐって紛争を起こしたりする。

ここから見て分かるように、基本的に国家は他の国家と「領土」を共有する事は無い、共同統治は例外的である。

ナポレオン戦争期に領土を失ったマルタ騎士団ですら特殊な国家として治外法権を認められた領域を持っている。

一方、他の団体は必ずしも固有の領域を必要としない。
球団のホーム球場のように一定の領域を持つ団体はあっても、その領域はたいてい国家の領域内であり、また他団体と共有される場合も多い。

さらに宗教や国際団体などでは、その活動領域が国境を越えて存在している場合もあり、近年ではネット上を主な活動領域とするコミュニティも存在している。

これらの団体と同じような領域の在り方を持つ「国家」は地域おこしで作られたミニ国家や国家を自称するミクロネーション位のものである。

3.「主権」政治的権力と目的

先の「国民」「領土」も国家特有の性質であるが、国家が他の団体と真に一線を画するのは物理的強制力の有無にある。

国家の三要件の最後の一つであり、「主権」という言葉で表現される。
主権については今回の最後でくわしく解説する。

前回述べたように、「政府」は物理的強制力を振るう権限「政治的権力」を独占する存在であるが、政府は国家の一部を構成し、国家の目的たる”国家社会の秩序維持と福祉増進、国民の幸福増大”を達するために存在している。

政府は国民に法律を守らせ、犯罪者を逮捕し刑罰を科したり、徴兵や徴税といった義務を履行させたり、あるいは行政組織を運用して通貨発行や経済政策、公共事業、社会福祉を実行するといった政治的権力の行使を行う。

政治的権力は国民を法律や政府の決定に従わせ、従わない場合は様々な形の懲罰を課し、最終的には警官等の実力行使で無理矢理いう事をきかせられる。

いわば政府は”国内における最高絶対の支配力”を持つ存在である。

他方、国家以外の団体においても構成員を従わせるための法や制度が設けられている場合もあるが、会社の社則や学校の校則等には絶対的な強制力は存在しない。

むしろ、存在してたらヤバイ。

私的な団体の規則に反しただけで殺害されるとか反社会団体以外の何物でもない。

一方、かつての学説の一つ『多元的国家論』では国家もその他の社会集団の一つであって、国内諸集団間の利害を調整できる点で優越するにすぎないとしているが、これは論者によって対象は違うが”特定の集団(教会・労働組合)の勢力拡大を目的として国家権力を弱体化しようとする急進的なもの”で、これに対しては国家が人間社会に存在する本質的目的を分からなくさせてしまうと批判された。

国家の本質的目的については既に述べてきたが、草野球チームは野球をするために存在するというように、国家以外の団体は目的と目的達成のための行為が限定的である。

普通、剣道の団体がバレーボールの大会に出たりはしないように、学校にしろ教会にしろ組合にしろ、教育や宗教活動、労働者の待遇改善などといった特定の限定された目的をもっており、おのずからその行為も特定のものに限られてくる。

一方の国家の目的は先ほど述べた通り多面的で複雑なものであり、これを達成するには、特定の行為をしていればよいというわけにはいかない。

産業構造の変化や新製品の普及、天災・社会問題など、国家には様々な変化が起こるもので、これに対応するための政策もまた多岐にわたり、一定ではいられない。

災害が起きたら救助と復興、高インフレになったらインフレ対策、デフレになったらデフレ対策をしなければならず、その質や量は起きた事象に対して適切である必要がある。デフレ期にインフレ対策をしてもデフレを促進するだけであるし、インフレ期でもインフレ対策をし過ぎれば経済を腰折れさせる結果になりかねない。

このように、政府はその時々によって柔軟にその働きを変化させ続けなければならないのである。

さらにいえば、何を以て秩序とするか、何が国民の幸福かというのも一様に語れるものではない。

例えば、『1984』のような監視社会やソ連のような密告社会を”秩序”と呼ぶかエドマンド・バークの言うように専制の無秩序と呼ぶか、あるいは神への献身と修養こそが幸福であるのか、それとも個人の享楽と無制限の自由こそが幸福であるのか等、目標とすべき状態そのものが個人ごと社会毎に違い時代によっても移り変わっていく。

また国家以外の団体、例えば、集団訴訟を行う団体等は目的の完遂に伴って解散される場合があるが、国家は例え滅びても、あるいは政府や統治形態が変更されたり別国家に吸収されたとしても、その地から国家が消滅するような事態は考え難い。

まあ、たまにソマリアのように国家崩壊してずっと無政府状態が続いてしまう例もあるが…。

また、国際法上は第4の要素として他国との外交能力の存在が挙げられるがこれは「主権」の範囲に入るものと考える事もできる。
国家の特質をまとめるとこんな感じである。

国家の三要件(※四要件)
 「領土」(占有する固有の領域)
 「国民」(永続的構成員)
 「主権」(最高絶対の権力)
 ※「外交」(他国との関係を取り結 ぶ能力)
  ※政治学では主権の範囲に含まれる場合もある

ちなみに中世の封建社会などでは主権の概念が曖昧であり、国王の権力が家臣の領地内には届かないという事も多々あった。

そのため、国王が治める王国に主権があるのはもちろん、王国内にある各臣下の領邦にもほとんど完全な主権が存在するといえ、これら領邦は一種の独立国家とみることもできる。

そのため、この時代の領民は主従関係で結ばれた領域を重複する複数の国家に同時に属していたという風にも考えられる。

歴史的にみれば先述の国家の特徴は近代国家に特有のものという事が出来るだろう。

(例)室町将軍「日本全土」
       →御料所(幕府直轄領)→領民
       →守護大名「日本の一国」
            →大名直轄領→領民
            →国人・土豪「一国の一部」
                   →領地→領民

   それぞれの主権者(将軍等の武士)と領域は階層構造になっている。
   下位の主権者も領地内において主権のほとんどを行使可能。

  「」内はそれぞれの領域

国家の起源


国家の起源に関する学説は大別すると4種ある。
神権説・社会契約説・征服説・歴史説の四つである。

1.神権説

国家は神の創造物、あるいは国家の統治は神意に基づくとする説。

例えば、古代中華王朝では王や皇帝は祭祀を担う存在であり、儒教では天命によって選ばれた高徳の君主が統治を行うとされる。

そのため、徳望の無い暗君や暴君が現れた場合には王朝の天命が尽きたという事で易姓革命が行われるとする。

一方、日本では天壌無窮の神勅によって皇統の正当性が示されており、実は歴代天皇に高徳の人物が多いだけで天皇の地位に徳は関係ない

欧州でも古くローマ皇帝がキリスト教の神によって選ばれたという「神寵帝」の理念を起源として、王権を宗教的権威により正当化する事を目的とした王権神授説が唱えられていた。

ただし、これは宗教的原理を政治に適用して政体や統治の正当性を担保しようとしたものであって、政治の起源を実証的に説明する説ではない。

2.社会契約説

前回も登場した社会契約説だが、前回述べた通り、国家の成立は国家と国民との社会契約によるものとする説である。

ホッブズ・ロック・ルソーの三者が著名であり、おのおの時代背景や理論の詳細には差異があるが、皆、国家は人間生来の存在ではなく、国家が存在する以前の自然状態が存在したという仮定を前提とする。

実のところ、これも個人の理性によって立論されたものであって実証的ではない。

歴史上、人間が契約によって国家を作ったという証拠はなく、社会契約説の歴史的価値は近代民主政の発展に寄与した所にこそある。

3.征服説

国家は強い集団が弱い手段を制圧し支配する事によって成立したという説で武力説ともいう。

オッペンハイマーなどの社会学者に支持された学説だが、十九世紀に発表されたチャールズ・ダーウィンの進化論の影響を受けて発展した。

黎明期の進化論に触れた社会学者たちは優勝劣敗や適者生存といった生物進化の法則が社会にも適用されるのではと考えたわけである。

事実として歴史上、国家の成立に征服が伴う事例は多くある。

ノルマンコンクエストやレコンキスタ、神武天皇の東征を以て日本も征服に基づいて成立したという事もできる。

このため、前述のものよりは実証的ではあるが、同時に全ての国家の起源を征服説のみで説明するのはかなり無理が生じる。

例えば、神話上の古代ローマの起源はアイネイアースの移住とロムルスによる都市建設であり、ギニアなどはフランス残留をかけた住民投票による独立、アラブ連合共和国は二国家の国民投票による統合で成立しており、国家成立が必ずしも戦争を経ているわけではない。

実力が政府の創造者であるという観念は全体としては誤謬を来しながら、部分的真理を含んでいるというかの真理の一つである

(ロバート・モリソン・マッキーバー、秋永肇訳『政府論』上巻)

ようは全ての国家の起源に征服が伴うわけではないという事である。

4.歴史説

これは国家は未発達な段階から今日までだんだん徐々に発展してきたとする説である。

過去の社会や原始社会の状態は考古学や歴史学、人類学の発展によって知られるようになった。

これらの研究を元に国家の起源や社会の発展について考えようとしたわけである。

人類学者のルイス・H・モーガンは親族構造や社会組織のデータに基づく進化主義の視座から古代社会と人間文明を考察し、人類の発展を原始文化・野蛮・文明の三段階とした。

その後の人類学の発展により、すでにモルガンの説は陳腐化しているが、マルクス・エンゲルスはこの影響下に著作を発表していたため、マルクス主義を信奉する人々は未だ進歩主義の惑溺の中にいる。


結論:国家の起源

とはいえ、国家は生存に社会を必要とする人間の必要から生じた物であり、それが人間性に根差し、歴史の中で生まれ、素朴な原始的社会から今日のように発展してきた事に変わりはない。

故に国家の起源とは、歴史上、人間社会の発展に伴って政治的権力(物理的強制力)が必要とされ、それが出現した時点であるといえる。

領域と人は他の団体にも存在しうるため、主権が生じた時点を国家の起源と考えるのは国家の三要件的にも妥当である。

まあ、いずれにも有史以前の話になるだろう。

国家の本質

国家の本質、つまり、”国家とは一体なんやねん”というのは古くから考えられてきた命題であり、学説は個性豊かで種類も多い。

なんなら個人的な国家観でいえば人類の数だけあるかもしれない。

ここでは主要な5種類を紹介する。

1.法学的国家説

法学的国家説はドイツ・オーストリアなどでかつて有力だった学説であり、これを主張した学派はウィーン学派と呼ばれる。

「国家とは社会秩序として定義でき、個人間の行為を規制する規則体系であり、望ましくない行為を制裁する強制力の行使によって人間関係をのぞましいものとする強制秩序である」

(ハンス・ケルゼン『The Political Theory of Bolshevism』)

というように、この学説において国家とは即ち「強制秩序」そのものである。

弁護士など法律家が政治的な発言をする時は、こうした側面からの杓子定規的な内容が多いようにみえる。

国家を法秩序と見做す考え方では国家を構成する人間的要素を無視する傾向があるが、国家は純粋に法的な領域の内側に収まるものでは無く、その点で国家を説明しきれていないといえる。

2.有機体説

法学的国家説は国家の役割を静的に分析したものであるが、
逆に国家を動物や植物のような一個の生物が如く「動的な主体」と捉えるのが国家有機体説である。

古く、プラトンの時代には国家を生物と比較する考えが存在していた。
これには、この考え方が国家の状態を説明する際、例え話にする事で理解を得られやすいという性質が関わっているかもしれない。

近代には進化論の影響から人間社会を生物に例えて説明するのが流行った。ハーバード・スペンサーは『社会学原理』において生物学の概念を社会学に導入して「社会有機体説」を唱え国家を生物体に例えた。

国家という全体に対して国民はそれを構成する各種の働く細胞であるという感じである。

有機体説はたとえ話としては有用であるものの、微に入り細に入り国家を説明するには拙く、寓話的であるがゆえに正確性を欠く。

3.社会契約説

この講座ではかなりの頻度で登場する社会契約説であるが、近代政治思想の基礎なのでしょうがない。

社会契約説において、国家とは個人の自由と安全を保障するものである。

国民が国家に権力を委譲する「社会契約」により、国家は国民の自由と安全を保障するための権力の保持と行使が正当化される。

また、国家は公共善を実現するためにも重要な役割を果たす。

自然状態において、個人は自己利益の追求に終始するため、国民全体にとっての利益(公共善)を実現するためには国家の形成が必要不可欠であるといえる。

とはいえ、ルソーのいう所の「一般意思(国民全員が国民全員にとっての最善を考えた場合に合意される最適解)」がフランス革命で独裁と暴政を正当化するのに使われたように、国家あるいは社会契約説があれば公共善が生まれるかといえば、また違ってくる。

4.理想主義的国家説

形而上学的国家説とも呼ばれる。

形而上学(けいじじょうがく)とは、森羅万象の根本原理を探求する哲学の一分野であり、物事の本質や真理、実在といった物理的な現象を超えた領域を考察する。

この別名の通り、この説は国家を倫理的・道徳的立場から見ようとするものである。

例えば、弁証法で有名なヘーゲルは国家を以て最高道徳の表現であると主張した。

これはどういうことかといえば、ヘーゲルは自身の歴史哲学として”世界史の目指す方向は自由”であるとしている。

そして、”国家の独立は国民が持ちうる最高の自由そのもの”である。

ようは世界の目指す方向に一致する特性を持つ国家は形而上的に最高の名誉を持つ事になるという理屈である。

またバーナード・ボーゲンザットにとって政治は公共善(個人の善の総和ではなく、個人の善を包括する、より高い次元の善)の実現を目指すべきものであり、国家や民主主義はそれを達するための崇高な手段なのである。

このように、これらの考え方は形而上学的・理想主義的な見地から国家に倫理的に最高の価値を見出そうとするものである。

他方、ハインリヒ・フォン・トライチュケは国家は権力国家論を展開して、国家は永遠の存在であり、公正な統治と独立維持のために権力を持ち、永続性ゆえに万物に優越するとしている。

それだけならよいのだが、永遠である国家に忠誠を捧げ犠牲になる事は国民の名誉であり、戦争はそれを生じさせる最高の道徳的善とまで主張しており、この考え方は国家を全能化し、国家至上主義をもたらすおそれもある。

5.階級国家説

これは国家を階級的抑圧や搾取のための機関とする説である。
古代ギリシャ時代からそれらしいものはあったが、カール・マルクスが最も有名である。

国家は支配階級の利益追求が目的の組織であり、ある階級がある階級を支配し抑圧することが国家を構成する要素であるという考えになっている。

よって階級対立がなくなれば国家も存在しなくなる。

故に共産主義者の目的である階級廃止の末には権力も無くなり、国家は消滅するのであり、共産主義の最終目標は無政府主義と同じである。

無政府主義には個人を基礎とする自由主義的なものと労働組合などの団体を基礎とする社会主義的なものがあるが、マルクスらの目標は後者に近しい。

ちなみにここからわかる通り、実は”共産主義国家”というのは論理的に矛盾した存在である。

ソ連などのこれまで存在した国家は皆、”共産主義社会を目指す社会主義国家”である。

しかし、これまで見てきた通り、国家は本来、人間のために存在する公共的存在であって、階級国家説で主張されるような状態は国家の役割を逸しているといえ、階級国家説はぶっちゃけ革命家の権力獲得を正当化するための闘争理論にすぎない。

そもそも、彼らの理屈に因れば、プロレタリアート独裁の後、国家は自動的に解消されるはずだったが、そんな事は無かった。

指導層は”赤い貴族”となって権力と富を独占し、ソ連崩壊後も”オリガルヒ”となって特権的な地位にあり続け、中共などは共産主義経済をやめてもなお専制独裁を続けている。

結局のところ、人々を煽動し意のままに操るための黙示録的預言に過ぎなかったのである。

また歴史上、権力に起因する悪がはなはだ多かったとしても、権力そのものをなくしてしまえば、無秩序の悪が栄え、ヒャッハー状態になってしまう恐れも大きい。

この説ではあらゆる権力を有害とするが、治世者、民主政においては国民自身が権力を制御し、権力が人々を益し害にならないようにしなければならないのであって、権力を消し去ってしまえば無秩序の害をもたらすだけになる。

結論:国家の本質

すでに述べてきたように国家は国家社会の秩序を維持し福祉を増進する事、それらを以て国民の幸福を増大する事を目的とする公共的存在であり、国家が持つ政治的権力の本質はあくまで公権的性格にある。

より詳しく見れば、まず、国家の基本的性質は「国家は国民の平和と安全と秩序を維持し、対外的にはその独立を保全するもの」であるといえ、これらがままならなければ国民の福祉どころではないため、この基本的性質が万全であってはじめて福祉の増進が可能になるといえる。

国家と政府、統治の形態

国家はその目的を達し、機能を遂行するために「政府」という機関を持つ。
国家としての活動は基本的に政府の諸機関によって行われる。

これまでも何度か述べた気がするが国家と政府は同一ではなく、政府は国家の一部である。

国家は政治的権力の枠組みたる「政府」とそれを構成し運用する「国民」の人的結合から構成されるのであり、政府の要人が更迭されても、政府自体が変更されても国民が残っていれば国家も残る。

国家の産業、歴史伝統や言語、文化や価値観を担い受け継いでいるのは政府ではなく国民共同体の側である。

革命や政変による多少の混乱はあるとしても、他国に滅ぼされるとか併合されるとか無人の地になるのでない限り、新首相や新政府によって国家は運営され続ける事になる。

実際、無政府状態のソマリアですら不十分ではあるものの部族を基礎とした秩序を再構築し、正式な政府を再発足させるまで回復した。

ちなみに古代の王朝国家等では王朝の変更により国家が変わったりする場合もある。おそらく国民と政府が一体では無かった時代的な要素が原因と思われる。

統治の形態分類

政府の統治形態については複数の分類がある。
君主制・民主制など統治形態個々の内容についてはくわしくは次々回でやる予定。

・統治に関わる人の数と倫理性での区分(アリストテレス)
 「公益:一人←君主政治・貴族政治・共和政治→多数」
 「私益:一人←僭主政治・寡頭政治・民主政治→多数」
  国民のための統治⇒支配者の為の統治に堕落する。
  民主政治(Democracy)が私益に走る衆愚政治として扱われている

・国家意思の構成(多数・独占)
 「民主制:責任内閣制・大統領制など」
 「独裁制:教義的・正統的・軍事的など」
  マキャベリの分類では共和制・君主制
  現代では民主制の君主国や独裁制の共和国もある。

・経済的見地からの歴史的分類
  「原始国家→封建国家→資本主義国家→社会主義国家」
  マルクス主義では資本主義→社会主義への変化は決定論的に進行する。

・中央集権か地方分権か
  「中央集権:単一政府(日本・フランスなど)」
  「地方分権:連邦政府(アメリカ・スイスなど)」

「単一政府」は中央集権的な統治機構を持っており、政治的権力は中央政府に集中統一され、地方公共団体はごく一部の範囲でのみ行政を担っている形態である。

「連邦政府」は地方分権的であり、政治的権力が中央政府にのみ存在するのではなく、支分国(州政府など)に独自の法律(米国の州には憲法もある)と立法機関があるなど相当な政治的権力が与えられている形態である。

単一政府は独自性を圧迫する傾向と官僚主義的傾向を促進し、連邦政府は地方自治の気風が醸成され地域の独自性が生かされるとされるが、中央と地方で権限争いが生じたり、意思疎通ができずに行政が非効率化する場合もあるため、地方分権がいいとは必ずしもいいきれない。

・夜警国家か福祉国家か
  「夜警国家:秩序・独立の維持のみ」
  「福祉国家:秩序・独立の維持+社会福祉」

フェルディナント・ラッサールが批判的に用いた「夜警国家」という語は、福祉が無く秩序維持や外敵からの独立保護といった国家の基本的性質のみを持つ国家を指す言葉である。

一方、今日の国家は教育・衛生・交通・経済・文化など諸活動の主体あるいは援助者としての機能を営んでいる。

「福祉国家」は国家の公共的性格を拡充し、年金・保険やインフラ整備、文化財保護やスポーツ後援といった国民の福祉増進の度合いをいや増す国家を指す言葉であり、大抵の現代国家は程度の差はあるものの公平な税制や社会福祉を通して国民の幸福を増大させようとする福祉国家である。

先のラッサ―ルは鉄血宰相ビスマルクに働きかけて年金など社会保障制度を整えさせ、ドイツ帝国を近代福祉国家の先駆けにする事により赤色革命を頓挫させた偉人である。


「主権」とは

国家が他の団体に優越して支配を為しうるのは国家が国家の領域内における最高絶対の支配力を保有するからである。

この最高絶対の支配力を「主権(sovereignty)」という。

sovereigntyはもともと最上位という意味のラテン語(superanus)に由来する言葉といわれる。

近代的な意味で「主権」が用いられるようになったのは15世紀フランスの法学者だが、16世紀のジャン・ボダンは『国家論』にて主権の性質や性格を論じ、漠然とした古代や中世の用語に明確な概念を与え、君主権力の最高絶対性を示し、以来、「主権」という語は法的に無制限の権力を意味している。

よって国家主権とは、国内において法的にそれに優越するどのような権力・権威も認められない、領土内のあらゆる物・国民に対して何らの制約無く無制限に支配できるという事である。

主権の性質についての学説もいろいろあるが、アメリカのレイモンド・G・ゲッテルの総括によると次の通り。

1.絶対性(absoluteness)
 国内において主権はいかなる権力にも優越し、無制限の最高法制定権である。
2.普遍性(universality)
 国家の主権は国内のあらゆる人間・団体に及ぶ。(外交官などは例外)
3.恒久性(permanence)
 国家の主権は国家が存在する限り継続する。主権の行使者が変わり組織が再編されても、主権がどこに在ろうと国家が破壊されるまで持続するものである。
4.不可分性(indivisibility)
  国家にはただ一つの主権しか存在しない。主権を分割する事は破壊と同義であり分割不可能、権力の行使は政府の諸機関に分担されても主権は単一である。

以上を一言で言えば、主権とは国家が続く限り存在する分割不可の最高権力となる。

中でも分割不可能性については重要で、主権を分割すると言う事は同一領域内に複数の最高絶対の権力が存在するという事になり、それはもはや内戦である。

後漢の主権が分割された状態

余談になるが、昔、社会学者の人らが地域主権を謳って各地の市町村に最高規範性のある条例を作ろうとするのが流行っていたが、これは法学的には憲法の最高規範性に挑戦する行為であり、政治学的に見れば主権分割により日本を分解する試みに他ならなかった。

また外国人参政権の問題で「地方参政権ならよい」という感想が稀に見られるが、地方参政権は「国家主権に対する国民主権」を資格として「国家主権の一部を分担する地方自治体」に対して参政権を行使しているのであり、地方参政権が許されるなら国政への参政権が許されないのはおかしい事になる。

ようは外国人に地方参政権付与は即ち、日本国民が占有している国家に対する国民主権を放棄して主権を一般開放する事であり、それは外国人にも国民と同等の権利を与える一方で日本国民だけが義務を負うという状態である。

これはたしかに「日本人を他国に奉仕させ邪魔になればいつでも消せるように縛る」という日本国憲法の精神には適うが、日本国民の国は名実ともに地上から失われる事になる。

閑話休題

これまで述べてきた通り主権は最高絶対のものである。

とはいえ、国民の持つ道徳的規範や習慣、伝統や正義の観念、世論といったものを無視してこれを行使する事は許し難い行為とみなされ、そのような国民を無視した主権の行使は反乱や弑逆、テロや革命を呼び起こし主権を脅かす結果をもたらす。

たとえ話ではあるが、主権をもってすれば、何の過失も触法行為も無くして意のままに身柄を拘束し死刑を執行する事も出来るし、私財を没収し奴隷労働を強いる事も可能ではある。

しかし、そのような苛政を行えば国民の反感は免れず、臣下も離反してしまうかもしれない(実際には苛政を行いながらも専制独裁が続く例もあるが)。

また、主権の最高絶対性は国家内におけるものであり、現実には他国とのパワーバランスや友好関係、国際法や国際条約によって制限を受ける。

例えば、国連憲章では侵略戦争が禁止されているが、これは加盟各国の主権に制限を加えるものであり、また日本はアメリカの核の傘に入り自衛隊の編制もアメリカの増援を前提としているためアメリカ様の言うがままになるほかない。

よって、主権は主権の行使を受ける国民の服従・同意と国際関係によって制約されているともいえる。

主権の分類

この「主権」が国家のどこに帰属するかについては論者により、また国により諸説あるところである。

君主主権論
国家の最高権力が君主に帰属するという考え方。君主は神や自然法によって授けられた権力を持つとされ、国民は君主の支配に服従すべきであるとされる。

この説では君主が主権者(sovereign)であり、主権は一人の人間に掌握され行使される。政府はその主権を分担する存在である。

・人民主権論
国家の最高権力が国民に帰属するという考え方。国民は、国家の最高権力の主体であり、政府は国民の代表であるとされる。

日本国憲法はこれである。
ただし、主権在民・国民主権における「主権者」は英語でいうと(sovereign people、sovereign citizens)、実際に国家主権を持ち行使する君主主権論での主権者と異なり、国家主権の正当性の源泉たる地位をもって主権者という。。

・国家主権論
国家そのものが最高権力者であるとする考え方。国家は、国民から権力を授かるのではなく、自らの存在によって権力を有する。

人以外にあるとする分類もある。

・法律的主権
国家の最高権力が法律にあるとする考え。国家のすべての行動は法律によって正当化され制約されるため合理的で効率的な統治が行える。

・政治的主権
国家の最高権力は政治的権力の行使者であるとする考え。主権の行使が行使者の意思決定に因るため状況に応じて権力の行使方法を変えられる。

例外的だが事実上の主権法律上の主権という分け方もある。

占領期の日本では事実上の主権は占領軍にあったが、日本国憲法では国民主権ということになっているという感じである。
まあ、今も大して変わらないのではあるが。

他にも憲法では民主主義を唱えているが実際には独裁という例もある。

今回のまとめ

「国家」は「国民」「領土」「主権」(外交能力)の三要件を持つ。
「国家」の起源は主権の発生時。
「国家」は秩序と独立を保全した上で初めて福祉を増進できる。

「国家」と「政府」は別もの。
「国家」は「政府」と「国民」の共同体から構成される。
「政府」は「国家」の目的、国民の幸福のために「主権」を行使する。

「主権」は国内および国民に対する万能絶対の強制力である。
「主権」は実際には国民の同意と国際関係によって制限される。

次回は「憲法」について

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?