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D・ボウイ、”過程を見せない”美学とは?

デヴィッド・ボウイがこの世を去ったのは2016年の1月10日。

あれから5年以上経った今もボウイに関する話題には事欠かず、彼の名を冠した作品のニューリリースは活発に行われ、他にも出版物をはじめとする各アイテムの発売、(過去出演作の再上映を含む)関連映画の公開も続いているようだ。

その中から今回は先月、京都国際映画祭2021で再見した写真家・鋤田正義さんのドキュメンタリー映画『SUKITA』(2018年作品)のある一部分を引用する形で書いてみたい。

(長年ボウイを撮り続けてきたことでも知られる)鋤田正義さんの軌跡をたどる映画『SUKITA』には、数多くのゲストが画面に登場する。その一人がデザイナーのジョナサン・バーンブルックで、リリース当時話題となったボウイ10年ぶりの復帰作『ザ・ネクスト・デイ』(2013年)のアルバム・カバーを手掛けた彼が、そのカバーの元となる70年代の名作『ヒーローズ』(1977年)のジャケット写真を撮影した鋤田さんと対面を果たすのだが、そこで明かされるボウイとのエピソードがとても興味深い。

それはなぜかと言えば、ここでバーンブルックの口から語られるボウイの言葉こそ、ボウイの創作活動におけるすべての基本姿勢になっていると思うからだ。

バーンブルックが『ザ・ネクスト・デイ』のアートワークを手掛けた際のラフ・デザインは、2017年に東京でも開催されたボウイの大回顧展 ”David Bowie is”でも見ることができたが、当初バーンブルックがそのラフ案を公開した際、ボウイは不快感を示してきたという。

その時ボウイは「過程を見せるな」と言ったそうだが、この “過程を見せるな”という言葉にアーティスト、デヴィッド・ボウイの美学が集約されているのではないか。

自分は初めてこのボウイの発言を知った時、彼の「作品」に対する考え、あるいは生前の彼が(自らの判断でボツにした)過去のアウトテイクやデモ等の未発表音源をどのように位置づけていたのかよくわかったし、話が少し飛躍するかもしれないが、次々と新たな“仕掛け”を繰り出すも、決して自らの手の内を明かさない、複数の意味合いが込められた自らの楽曲について余計な注釈を加えない。過去のインサイド・ストーリー的な内情も一切明かさない等、要するに絶えず変化を繰り返し、アーティストとして大胆かつ果敢であり続けながら、”見せなくていいものは見せない”という、こうしたボウイのスタンスは先の言葉と同様の姿勢に基づくものだと言っても過言ではなく、晩年の病状を最後まで公表せず、キャリア屈指の傑作『★』を残して静かにこの世を去っていった彼の生きざまにも直結するものだと思う。

つまり、(バーンブルックに)「作品に自信をもって、自分の考えを通しなさい」という彼にとって、自身が認めたかたちでリリースした「作品」がすべてであり、こうしたボウイの姿勢はアーティストとして非常に潔いと思う。
 
だから今秋、楽曲の権利関係移行や著作権売買に関する話題が報じられたレコード会社には生前のボウイの意思や意向を最大限尊重する形で今後ニューリリースを行ってほしいし、我々ファンは、ボウイが遺した作品を各々の解釈で受け止め、その作品のなかにある(解釈の余地が残された)”曖昧な領域”や”ボウイ”という存在については、各自の想像力でそれぞれの答えを探り当てればいい。

けれども、ボウイは自らのアーティスト人生最終曲で歌っている通り、すべてを明らかにはしてくれないのである。


(2021年12月19日) 重複表現のあった箇所を修正させていただきました。

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