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解き放たれた女たちのイメージ

2023年3月11日付『毎日新聞』朝刊「今週の本棚 朝のあかり 石垣りんエッセイ集」
 静岡県南伊豆町立図書館の中に「石垣りん文学記念室」がある。こじんまりしたアーカイブで7~8年前に一度訪ねた。石垣りんは1920年に東京で生まれ、2004年に東京で亡くなった。南伊豆は父の出生地というだけで、たまに里帰りはしたようだが、それほど深い縁があるわけではない土地だ。詩人は中学校を卒業すると事務見習いとして日本興業銀行に就職し1975年の定年まで働いた。都内のアパートで一人暮らしを続け独身を通した。
 私はこの記念室で初めて詩人の作品を知った。一番強烈な印象を覚えたのは『崖』という作品だ。
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまつさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
 この15年たっても海にとどかない女たちのイメージに、今も戦慄を覚える。評者は、詩人の定年退職の日の上司のスピーチのエピソードを紹介している。「君は半人前だ。どうしてかというと、結婚しなかったから。子を生まなかったから」といわれたのだという。ところが、「自分のことも職場のことも、どこか離れた場所から、くもりのない視線で見ている」と評者は詩人の心のありようを理解している。家の事情で上の学校に行くことができなかった、貧しく自分が働いて家族を養わねばならない今でいうヤングケアラーだった、そして女性だった。そういう二重三重のハンデを負った詩人が、戦中戦後の男性優位、学歴偏重の日本で、そして屈指のエリートが集まる大銀行で40年以上、働いた。その勤めの最後の日に聞こえてきたこの上司の言葉はしかし、超然として立つ詩人の傍らを何の響きもなく虚ろにみじめに消え去った。そこに「学歴や結婚歴とは無関係な、ほんとうのかしこさを感じる」と評者は書く。
 私はそこにこそ、「火だの男だのに追いつめられて とばなければならないからとびこんだ」女たちの運命を知り、文学にまで昇華した知性を感じる。そしてその圧倒的な知性は、結婚歴やら学歴やらによって左右されるらしい薄っぺらで小賢しい処世術がすべてだと思い込む「何と幸福な」男たちのおめでたさを、哀れみを含んだ微笑とともに眺めている。この切れ味。この立ち姿。なんともカッコいいのだ。
 いったい、崖は女たちの無念や悲しみの果てにそこですべてが終わる場だったのだろうか。それとも、彼女たちをがんじがらめに縛り付けていた現世の差別や因習を作り上げた男たち、その男たちが始めた戦争から自らを解き放ち、命がけで勝ち取った自由が始まる跳躍地点だったのではないか。であればこそ、その自由を抱いた女たちが海面に激突することがあってはならないのだと考えた。

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