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お年寄りたちが空襲を記録するわけ

 2022年6月3日付『毎日新聞』「記者の目 作家・早乙女勝元さんの遺産」栗原敏雄専門記者。シベリア抑留や遺骨収集問題など日本の戦後処理問題を取材している栗原記者の早乙女勝元さん回想記事。作家は5月10日に90歳で亡くなった。45年3月10日の東京大空襲で焼け出された早乙女さんが敗戦後、町工場で働きながら文学を志し、「70年に『東京大空襲を記録する会』を結成した」との一文を読んだとき、ふと思い出した。
 2017年8月に同紙岐阜県版に拙稿「空を仰ぐ少女―豊川空襲の記憶―」第7回(8月13日付)で、「岐阜空襲を記録する会」事務局長の篠崎喜樹さんにお話をお聞きした。その際、篠崎さんは、「1970年に『東京大空襲を記録する会』が設立されたことを機に全国で空襲を記録する会が設立され、岐阜空襲を記録する会もこれを受け1974年に生まれた」と説明された。それを思い出した。
 非戦闘員が犠牲になった都市空爆の被害状況について、軍はまともな調査をしなかった。被害の当事者である民間人がその詳細を記録する必要に迫られ、全国の都市で「記録する会」が生まれた。豊川空襲で亡くなった女学生についても、被害者名や総数については軍事機密を盾に公的記録は公開されず、どこに消えたかわからない。遺骨も特定されないままだと聞いた。
 戦争を始めた為政者の責任はもちろんだが、戦争に反対しないばかりか戦勝の報に浮かれ、戦争遂行に協力し、あげく被災した国民も一片の罪は免れないという議論もあり得るだろう。しかし早乙女氏のように「焼夷弾に炎の中を逃げ惑った12歳の子ども」に罪はあるのか。必死に子供を育てている最中に焼死した母親たちに罪はあるのか。非戦闘員の空襲被害者はなぜ死ななければならなかったのか。軍関係者への援護と補償を認めた政府は、民間の被害者・遺族に対しては―栗原記者が書くように―、補償を拒んだままだ。

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