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躁鬱

数週間前、所謂躁鬱、双極性障害の〝躁〟の部分が出てきてしまって、珍しくドーパミンに溺れていた。

そうなれば脳内は、本当に脳内麻薬という感じで、生きていることの幸福感と感謝に満たされて狂ってしまいそうになる。教祖にでもなりそうな程に幸せしか浮かばない。母に産んでくれてありがとう。親に育ててくれてありがとう。なんて幸せなんだろう、こんなにも充たされていて幸せな環境を日常的に味わえるだなんて。幸福感と、それに対する感謝。永遠にそう。
幸せで、楽しくて、自分ならなんでも出来てしまう気がする。空でも飛べてしまいそうな感覚がする。何故だが笑いが止まらなくなる。

これが、僕の躁状態。そしてこの影響なのか、躁の状態が終わってもなお、生きていることの感謝がずっと心に残っている。良い事と言えばもちろん良い事なのだろうが、やはりその感情は過剰なのだ。精神状態が悪過ぎない限りは、考えるだけで幸せになる事が出来る。お酒でも、ODでもない。己の脳内異常。それがまだ心の奥に残っている。幸せ。

こうなってしまえば、自分の考えていることや身近で起きた出来事によって抑鬱状態になること、つまりは〝ヘラる〟ことが、どれだけ詰まらないことなのかがよく分かる。もちろん一時的な気分の低下ではあるのだが、重たい考え事をしている時に抑鬱状態にでもなってしまえば、無意識に死について考えてしまう。

昔のように自殺方法を調べたり自傷行為について調べたりなんて馬鹿らしいことはしなくなったし、踏みとどまることだって出来る。だってまだ生きていたいから。それなのに、ただ忽然と〝死〟だけが頭に浮かんでしまう。死にたくないし、そんな事なんて考えたくもないのに。先程書いた躁状態と同じく、それしか考えられない。他の事を考えて気を紛らわしたくても出来ない。

それが僕の鬱状態。

話を戻すが、そういう感情になる前に、あまり己を責めるような考え、プレッシャーを自ら掛けてしまうような考え方をしない為、なんでこんな事でしんどくなっていたんだろうと思うようになっている。要は、生きてるだけで万々歳なのだから、別にそれ以外の邪念は必要無いだろうということだ。考える必要すらなくなる。

でも、幸福が過剰過ぎないのだから、今の精神状態は優れています。と言われてもそれとは違う。
そういう健康的な幸せでは無い感覚がする。
だって幸福というのは、親愛含め好きな人に抱き締められた時だったり、自分の誕生日に、頑張って貯金したお金で自分へのご褒美として奮発したものを用意したりした時、そういう時にこそ感じるべきものなのだ。日常的に、理由もなく、狂った様に幸せという感情が心の芯で芽吹いているというのは、僕にとってはどうもおかしい感覚なのだ。

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