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ひとはなぜ食べるのか

ひとはなぜ食べるのか?

お腹がすくから、。。。たしかに。

身体を維持するため。。。そうですね。

生きていくためにはなくてはならない行為です。

では,もう一歩踏み込んで

世界には空気だけ吸って身体を維持しているヨギも存在します。

人間が生きていくのに,必要なものは、太陽の光、空気、水、食物だそうです。

じゃ,なぜ,あえて,食べるという行為が存在するのでしょうか?

いろいろ考えられます。

私は3つの視点で考えてみました。

1.自分との関係

いま、ここ!!をもっとも体験できる行為だから。

目で見て、香りをかぎ、歯でシャキシャキ噛み、舌でふれ、味わう・・・。

人間に与えられた五感ををこれほどまでに使って,感覚を思う存分満たしてくれることって,

食べること以上にあるだろうか???

喜びの宝庫です。

うちの旦那さんは、毎朝同じものを食べます。

そのたびに、いつも,『うまい!このパンケーキ。』と毎回感動して食べてくれます。

これは,彼がお世辞を言ってる訳ではなく、本当においしい!!と感じているいま、ここ!!の言葉なのです。

このことに気がついたら食べることを、おろそかにしたり、何か他のことをしながら―ーー例えばFacebook見ながらとか,テレビを見ながらなんて、なんて勿体ないと思うはずです。

だから,次に自然にこの感動を人に伝えたくなります。

2.人との関係

私は、人に食べてもらうのが大好きです。

これは子供の頃、

おばあちゃんが,熱々のおにぎりを私に食べさせようと思って握ってくれた、

その、”愛”が詰まったおにぎりだったので、

それはもう美味しくて美味しくて

大きなおにぎりを7個ぐらいペロッと食べていました。

もう,この美味しい感動をひとに伝えたい,

こんなに食べることで感動できるんだよーーーーと、

皆と分かち合いたいという思いなんです。

もう一つ私が,ここまで食べることが好きなのは、母との関係もあると思います。

生後3ヶ月で、母は働きに出て,私はおっぱいから離され、

それ以後おっぱいを飲まなくなったそうです。

一番必要な時にもらえなかったという,”食べることへの執着”なる熱い思いが,

今の私の食べるヨガの、原動力です。

(これは話すと,長くなるのでこの辺にしときます。また別の機会に。)

3.神との関係

よく,残さずに感謝して頂くのよって耳にします。

一体誰に感謝するんでしょうか?

もちろん,ご飯を作ってくれた人、うんうん

農家のお百姓さん、そうだね

動物を私たちの代わりに殺してくれた人、申し訳ないけど。

その方々に感謝するのは、当然ですね。わかります。

でも、ときどき

犠牲になってくれた動物や魚さんに感謝して・・・と聞く時、

何か

違和感を感じます。

私が,動物を食べていないからでしょうか?

いえいえそうではなさそうです。

私は野菜や果物を食べます。

でも、その野菜や果物に感謝してる訳では無い気がします。

(もちろん,犠牲になってくれているいのちは、わたしにも与えられているこの

いのちと同じものだと知っているし、それらのいのちと繫がっていることも感じます。)

だからこそ、いのちは、尊いものであり、大切に扱いたいものです。

でも、感謝の対象はあくまでも、そのいのちを授けてくれている、いのちの源ではないでしょうか。

私たちは、そのいのちはすべて繫がっていて、その大きないのちの営みの中に生かされている、

そして、自分はその一部分を受け持っている、これまた尊い、いのちの一つなんですね。

この,野菜、果物、お米、粉、豆などなど。

たくさんのバラエティで。色とりどり、形とりどり、かおりとりどり、味とりどりのものたちを,

ナーーーーーンの代価もなく,

気前よく私たちに振る舞ってくれているもの、

それは,この自然をコントロールしてくれている大いなる存在,つまり神様です。

木々からは、季節の果物が惜しげもなく与えられている!!

全ての生きとし生けるものには、すでに、全てが与えられている。

何ひとつ、工場で作り出す必要なんてないんです!

鳥も、花も、動物も、そして人間も、本当は余るくらいの食料が全て与えられている。

争う必要はないんだわ。必要以上に働く必要も、貯め込む必要もないんです。

恵みの雨は、大地を潤し種を蒔き、東風が吹けば、春になって、芽を出す。

月は、太陽の光りを反射して、夜中の畑に降り注ぐことで、野菜に滋味を与えてくれている。

(私の岡山で長年農業をやっている叔父が、キャベツは満月の月の光がないと、甘うならんのよ、と言ってました!)

こんな驚くべきことが,当たり前のようにあること。

すべて与えられていることに感謝するしかないですよね~~~~~。

気がつくだけで、すごいことですこれは!

しかも、しかもそれらの食物は何の努力も無しに

身体の中で消化され,栄養になって,私たちを維持してくれている~~~。

どんな天才にも,この身体の中で起こっている,消化のシステムを作り出すことは

できないのに・・・。

私は,つい忘れて,あれがないこれがない、こうしてほしい、こうして欲しくなかった、、

と不平ばかり言っている。

すべて,神から与えられて,すべて自分の中にそして自然の中に備わっている、

このことに気づくために、食べるという行為が与えられているんだ。

シンプルすぎて気付かなかった。

なんで,当たり前と思ってしまうのか。

日々の生活、

今から今日から、自分でできること。

それが食べるヨガ。

何も難しい、アサナをする必要もない。

自分のために、そして、身近なひとのために=パートナーや子供、親、友人に

おいしいご飯を愛を込めて作る行為。

誰もが、必ず毎日やること、息することと、食べることと、排泄すること、

その中に神様の力を見いだしていくこと。

感謝していくこと。

ここにも、あそこにも、与えられていることに気付いていくこと。

食べるヨガは、シンプル、で美味しい。

ただそれだけ。

何を食べるかは、重要ではありません。

思いこそが、jyu-you。

何を食べるかは、重要ではないという意味は、思いによって、

何を食べるかが決まって来るという意味です。

しっかりと、この食べることの意味を意識化できたなら、

自ずと何を食べたらよいかが、わかって来るということです。

私たちは。愛と感謝でできている、

なぜなら神の愛で,できたものを頂いているから。

私たちは、この神の愛と、私たちのお返ししたいという感謝の気持ち、その関係を食べるのです。

これこそが、食べるヨガの真髄です。

関係を食べるヨガ、なんです。

食べてみたら分かるよ。

喜びに溢れた食べ物を食べると。魂が喜ぶのがわかるから。

神の愛で与えられた材料を愛と感謝を込めて調理して、まず神様に捧げて、お返ししてから頂く行為。

すべては神の愛で作られているので、愛に満たされたものを頂くと喜びに満たされる。

これを、プラサーダ=神様の慈悲と言います。

神様に最初に捧げることで、精神的な食べ物であるプラサーダに変換されます。

これが食べるヨガ。

よく、神様はハートのあたりにいるって言うけど、私の場合は

おなかにいるな・・食べるヨガの神様。

いつも、ありがとう!

ヤムナ

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