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津和野乙女峠マリア聖堂を訪ねて

今回の記事は、メンバーシップ「オトナの美術研究会」の企画「月イチお題note 7月のお題 #美術館周辺のおすすめスポット 」に参加しています。

私がおすすめするのは、島根県津和野町 乙女峠マリア聖堂 です。
津和野は何度か訪れたことがありましたが、この聖堂には、行った事がありませんでした。その名前から、森の中に小さな古い教会があるのかな、としか思っていませんでした。

 乙女峠マリア聖堂は、安野光雅美術館の近くにある小さなお堂です。
この春に、美術館の後に足を伸ばして初めて行ってみました。

 美術館とはJR津和野駅をはさんで線路の反対側にあり、急な山道を少し登った森の中にあります。
 駅の改札口を出て右方向へ線路沿いに進み、踏切を渡って再び駅方向へ戻るように歩き、道案内が出ている角を山方向へ曲がります。

右側の建物は光明寺。やや古びた石州瓦が良い味を出していました
山道の入口 乙女峠参道の案内地図
急に道幅が狭くなります。左に清い谷川が流れています。
しばらく登ったところから振り返って撮った写真。雨や雪の日は滑りやすく危険。

山道を10分ほど上がっていくと、石垣が見えてきます。

 石垣の組んである広場まで行くと、まず目に入るのが、正面にある石碑と聖書を模った大きな記念碑です。
そして、右手に小さな教会と、銅像があります。
この場所の謂れを記した石碑がありました。

「キリシタン殉教史跡 乙女峠の由来」とあります

 不勉強でこの土地の歴史を知らなかった私には、衝撃的な内容でした。
要約すると、ここは江戸末期から明治はじめにかけて長崎浦上で捕えられた大量のキリシタン信徒の流刑地の一つであり、彼らが改宗を迫られて拷問を受けた獄舎の跡地だったのです。
 153名の流刑者がここに送られ、明治6年(1873年)にキリシタン禁止令が撤廃されるまでの五年間で、37名の殉教者が出たそうです。

礼拝堂は無人ですが、鍵はかかっていなくて自由に入ることができました 
昭和23年(1948年)ネーベル神父(岡崎神父)が建立

 小さな礼拝堂ですが、祭壇はきれいに整えられていました。
窓にはステンドグラスが嵌められてあり、拷問に耐える信徒の元に夜になるとマリア様が現れたという話、食事を与えず空腹にさせた子供に菓子をやると言って改宗を迫った役人の話、拷問に耐えきれず「転んだ」者達を、後に長崎浦上へ戻った信徒たちは温かく迎え入れた話しなどが表現されていました。

お堂内に置いてあったプリントに、この場所の詳細が紹介されていました。

一部、抜粋しますと
「慶應元年(1864年)に大浦天主堂であった信徒発見の喜びもつかの間、慶應3年(1867年)には江戸幕府による「浦上四番崩れ」と言われる厳しいキリシタン弾圧が始まる。およそ3,400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けた。鹿児島、萩、名古屋等の全国二十二箇所が選ばれ、その中に津和野も加えられた。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛した当主亀井慈監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからである。藩出身の国学者福羽美静の指導で津和野藩はキリシタン信徒を改心させる務めをおったが、彼らの信仰は厚くたやすく改心させることはできなかった。そこで彼らは最初とっていた方針を変更して、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめた」

雪の中に三尺牢に閉じ込められた安太郎という若者
毎夜九ツから夜明けまでマリア様の御影が頭の上に現れて、話しかけてこられたという
最も過酷な拷問だったという「氷責」が行われた池
氷点下が続く真冬に、裸にされたキリシタンが何度も池に入れられた

 乙女峠のとなりの谷、蕪谷に殉教者が葬られた墓地があります。
この広場から細い山道が蕪谷へつながっています。なかなか距離がありますが、山道を歩いて行ってみました。
 引き返して下におり、舗装した道を自動車で墓地の近くまで行くことも可能です。

途中、参道には、キリストが死刑宣告を受けて、磔刑の後、墓に葬られるまでの
エピソードがレリーフになって一定間隔で設置されていました。

私はクリスチャンではないので、聖書の知識が乏しく、重い十字架を背負わされて磔刑の場所までの道中のエピソードなどは、初めて知る話ばかりでした。

このような山道が続く

 参道は、山道がしっかり通っていますが、遊歩道のように整備されてはいません。道幅は大人一人分、写真の左側は谷になっていて足を滑らすと登るのに苦労しそうでした。また、勾配の急な箇所もあります。
登山スタイルでなくても大丈夫ですが、滑りにくい靴と両手が使えるリュック等は必要です。季節によっては、虫除けスプレーや蛇、猿、いのししなど野生動物に遭遇した時の心構えも。

レリーフは全部で14枚ありました。
途中から、キリストの物語を読むことで自分が励まされているような気になりました。
そして、道がなだらかになったと思うと、急に視界が開けた場所に出ました。

到着 
ちょうど日の光が差して神々しい雰囲気に
37名の殉教者たちの墓
明治25年(1892年)に、ビリヨン神父が蕪谷に葬られた殉教者の遺骨を一つの墓に集めた
最後のレリーフ

山道はさらに上へ続き千人塚へと向かいますが、私はここで下界へ降りました。
坂道を下ると立派なお寺があります。

覚皇山 永明寺(ようめいじ)です。

室町時代の応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘公により創建された、およそ600年の歴史がある古刹です。曹洞宗の本山である永平寺より月因性初禅師を開山とした島根県最古の別格大禅院で 〜中略〜 歴代津和野城主の菩提樹として尊宗されていました。

寺の案内板より
階段を上がって行くと
手前に砂利じきの方形の空間が広がっています
なんだか神社の境内のように清々しい雰囲気でした
鐘楼

ここは、大阪夏の陣で家康の孫千姫を炎の中から救った坂崎出羽守や、前出の最後の津和野藩主亀井慈監(かめいこれみ)の菩提寺ですが、
森鴎外の墓もあります。

森鴎外は死に及んで「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と
いう遺言を残した

森鴎外は、文久2年(1862年)に津和野町に生まれ、10歳まで暮らしています。その後、藩医をしていた父親が上京するのに伴い、この地を離れ、以後戻ることはありませんでした。 鴎外の生涯や経歴については、ここでは省きます。

 奇妙なことに、鴎外は幼少の頃に、乙女峠のキリシタン収容所や中で行われたことについて見聞きしたはずなのに、生涯その話題を口にすることなく、著書でも一切触れていないそうです。(津和野町立森鴎外記念館の展示解説より)

 そもそも、私が今回の津和野行きで、乙女峠マリア聖堂を訪れようと思った理由は、
2022年1月に、二兎社(永井愛主催)の演劇公演「鴎外の怪談」を鑑賞したからです

作展・演出 永井愛、2021年11月〜2022年1月全国公演

後年の森鴎外を主人公にしたお芝居です。
幸徳秋水や大石誠之助らが関わった大逆事件に際して、公私のはざまで懊悩する鴎外の姿が、何事もお上大事、お家大事の厳格な母親と、進歩的な考えの持ち主で美貌の年下妻との間で右往左往する様子を背景にしながら、コメディタッチで描かれています。
 作中で、津和野乙女峠のエピソードが、鴎外を説得しようとする母親のセリフにうまく取り入れられていました。
 津和野は何度も行ったことがあるのに、そんな歴史があるとは知らなかった・・・という驚きもありました。
 
二兎社の公式ホームページで有料で動画配信があります。
細かい部分まで、歴史に忠実になるよう資料を調べて、それを複雑に組み合わせてかつ、シリアスになりすぎず、思わず笑顔になってしまうような物語に仕上げる永井愛さんの技量。素晴らしいです。
森鴎外作品の好きな方には特におすすめです。



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