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メディアの話。パーフェクトデイズとその他色々。

で、「パーフェクトデイズ」である。

あの映画は、全くもってパーフェクトでない男の話である。

だから面白い。

すでに3回みてしまった。

まず、冒頭のたった10分強で、主人公のキャラクターを「アクションだけ」で観客に教えてくれる。

「ダーティハリー」みたいだ。

主人公が寡黙なプロってところも含めて。

この世界における神様はスカイツリーだ。

物語は常にスカイツリーの視座から見渡せる東京の東と朝日で始まり、彼の夢で終わる。

ひとと影と木漏れ日と。

で、その木漏れ日がリフレインする。次の朝に。

窓から木漏れ日が入り、

おばあちゃんの竹箒で目を覚まし、

顔を洗い、髭を切る。

髭をハサミで。

あのシーンから、彼の育ちの良さと、人付き合いの舞台から降りてないことが瞬間にわかる。

世捨て人ではないのだ。

木の苗に水をやる。

朝の彼は何があろうといつも空と木漏れ日を見上げ、笑顔だ。

おそらくそれは、前日の夢が彼をリセットしてくれるからだ。

缶コーヒーを買い、いっぱい飲み、

カセットを選び、押上のスカイツリーの元から

ダイハツのワンボックスで渋谷方面に首都高で向かう。

劇中の音楽はカセットから流れる。

主人公は寡黙だが、音楽は饒舌だ。すべての曲が教えてくれる。

タランティーノ映画を連想するが、タランティーノ映画以上に、音楽が饒舌だ。

トイレ掃除は

丁寧に、しかし決してノロノロではなく

手際よく行う。

鏡を使って裏を見て、拭き残しはしない。

自作の道具を使い、利用者がいれば、すっと身をひき、姿を消す。

プロフェッショナルである。

彼が、トイレの清掃という仕事に「誇り」を持っていることが瞬時に伝わる。

主人公はぼっとしていない。

ものすごく観察している。

トイレを利用する人。周囲の人。

そして光。影。木漏れ日。木々。

その観察眼と重なるのはフィルムカメラだ。

オリンパス。

最初かれは喋らない。

あまりに無口で、最初は障害を持っているのかも、とまで思わせる。

相方が来ても、一言も喋らず、首を向けるだけ。

そう思わせておいて、松濤の隈研吾トイレで彼のキャラクターの

片鱗が浮かぶ。

トイレに閉じこもってお母さんと逸れた少年に

優しく声をかけ、外に出す。

慌ててやってくるお母さんは主人公からひったくるように息子を奪い、手を消毒シートで拭き、引っ張っていく。

でも、彼は怒らない。

なぜだろう。

少年が手を振る。彼もニコッと笑って手を振る。

怒らない理由は後からはっきりわかる。この時点でもうっすらわかるのだが。

彼は、「そっち側の出身」なのだ。

あのお母さんは、のちに出てくる彼の妹の一部とオーバーラップする。

彼=平山さんがかつていた、でも今は「違う世界の人」なのだ。

その世界を彼は知っていて、でも自分の居場所じゃない、と思って出て行った。

迷子の子供は、彼の世界にも妹やこのお母さんの世界にも「まだ」属していない。

息子も、彼のめいも、そして金髪の女の子も。

だから彼が好きだ。

なぜ好きか。

彼が、大人であることを降りた、子供だからである。

でも、仕事も人生も降りてはいない。

北杜夫の「僕のおじさん」なのだ。

子供は、大人を降りたおじさんが大好きだ。

彼は子供だ。

達観してない。全くしてない。

だから、好奇心で動ける。毎日のルーティンの中に好奇心を見つける。

その意味ではパーフェクトだ。

が、しかし子供であるが故に、彼は常にどこかビクビクしているし、ドキドキしている。

子供だから毎日夢を見る。今日会った人、今日見た影。今日感じた木漏れ日。

ただし、子供と違うのは、彼の夢には、彼の「過去」が投影される。

子供に「過去」はない。

そんな彼のドキドキは、女の人に伝わる。

だから、彼を女の人は見逃さない。

金髪の少女も、寡黙なOLも、石川さゆりも。

金髪の少女は子供でもあり、女性でもある。

寡黙なOLは、もしかすると、紙に丸とバツをつけあう仲かもしれない。

彼のパーフェクトたらんとする世界は、毎日揺らいでいる。

その揺らぎの大半で、彼はお風呂の中で顔を埋め、ニコニコする。

でも、彼が大人を辞めた理由に直面すると、彼はあからさまに子供にさらに戻る。
イヤイヤをし、一人で号泣してしまう。

好きだった写真を見ることすらもできなくなる。

彼自身はおそらく違う、が、発達障害のひとにシンパシーがある。

彼の中にもいる。ある種の発達障害が。

寡黙な彼が一番饒舌になるのは、若い相方が突然辞めて、シフトが変わって、夜遅くまで働かなくっちゃいけなくなったとき。

彼は電話で猛然と抗議する。

ルーティーンが崩されるのがいやなのだ。

その上で、彼はいなくなった相棒が結構好きである。

彼のことを思うと笑みが溢れる。

幡ヶ谷駅近くのトイレ掃除でやってきた知的障害者の男の子と、
相棒との戯れを見た時も。

相棒も男の子も、現実社会とうまくやっていけない。

なぜか。現実社会は、子供のままを許さないからである。

彼は、故にそんな二人が好きで、自分もあっち側から、こっち側に戻ってきたことを自覚する。

そんな子供の彼をさらに不安定が襲う。

心を寄せる石川さゆりの元夫。

三浦友和。

この男との出会いはぎこちない。

お互い子供のように、突っ張ってタバコを吸ってむせる。

好きな女の子がおんなじだった中学生のようである。

酒を飲んで、影踏みをして、

彼からつきものが一つ落ちる。多分三浦友和からも。

つきものが落ちた彼は、

朝日を浴び、今度は笑いながら、泣く。

そして木の苗だ。

代々木八幡の僧侶にことわって、小さな苗をあらかじめ用意した紙の箱に移す。

木の苗は、頭上の巨木が枯れない限り100%、若死にする。

光が当たって初めて生きのびる。

主人公はそれを知っている。僧侶も知っている。

彼は巨木の下から、苗をすくい出し、

自宅の植物灯の紫の元で育てる。

その多くは、イロハカエデのようだ。

この木々は大きくなれば、いずれ「木漏れ日」をうむ。

木漏れ日に執着する主人公は

自ら木漏れ日の元を育てている。

目の前に子供のいない彼にとって

木の苗たちは、明らかに子供だ。

映画を観た後、反日武装戦線の桐島が自首して捕まった。

偽名でずっと工務店で働いていた。

過激派の多くは当時では珍しい大学進学のインテリ坊ちゃん嬢ちゃんだ。

悪い意味で子供じみた理想で多くの人の幸せを殺めた。

逃亡しおせた彼ら彼女らの中に「平山もどき」がいるかもしれない。

ふと思った。

でも。やはり違う。

桐島と平山は違う。

逃亡する、と、降りる、は違う。

似て非なるものである。

平山には過去に対する自己弁護も自己憐憫もグチもない。

世の中には「住む世界」を変えた「平山」が色々なところにいる。

私も数人知っている。

あの人たちはパーフェクトデイズを生きている。

ポイントは、「いつかはいつか、今日は今日」だ。

今日、この瞬間に好奇心と喜びを見出せるかどうか。

人生を微分した瞬間を楽しめるかどうか。

最後のバイク。

彼の前を通り抜けるバイクは、アラビアのロレンスを連想させる。

あのバイクはロレンスの最後とループする。

ループ。

その点で、この映画は内容は全く異なるが、ロレンスと重なる。

泣きながら運転した彼は、またトイレを朝2つ掃除し、3つ目のトイレのある代々木八幡でパンを食べ、写真を撮り、午後1つのトイレを掃除すると、午後早くには押上に戻り、着替えて風呂に行き、隅田川を渡って浅草駅下の飲み屋に行き、あるいは石川さゆりママのスナックに行き、幸田文やパトリシアハイスミスを読み、寝て、夢を見るのだ。

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