メディアの話 ファンと欲望とジャニーズと。

以下の文章は、2023年5月、BBCによるジャニーズ事件報道が大きくクローズアップされたときにフェイスブックにアップしたもの。9月時点から4ヶ月前の投稿なので、その後の動向については、一切触れていない。あの時点で自分が何を思ったのか、備忘録として残しておきます。エンタメにおいて「ファン」の存在こそがすべて、という話であり、「ファン」はそれゆえにエンタメの世界に対して「結果責任」を負ってしまう立場でもあるという話です。誰も教えてくれないけど。「ファン=推し活」というのは、そんな特権性と暴力性を秘めている。

この春、一番面白かったコンテンツは、個人的に、ネットフリックスの相撲ドラマ『サンクチュアリ』とアニメ『推しの子』だ。

この2つのドラマ、テーマに共通点がある。

相撲という格闘技でありスポーツであり伝統芸、アイドルという芸能、どちらも「芸」を売るエンタテインメントであること。

そしてどちらも、この芸を売る側の当事者=アイドルと関取で頂点を極めたいという「欲望」を持つアイドル未満、関取未満の人間が中心にいること。

さらにその彼らの向こうに「顔の見えない」芸を買う人たち=ファン、タニマチ、市場があること。

特にアイドルは、ファンを獲得できなければ、アイドルになれない。ファンの存在が、初めてアイドルという存在を許す。

つまり、あらゆる「芸」を売る人は、まずファンという「芸」を買う人の欲望を満たし続ける必要がある。

それができなければ、すぐに芸を売る立場、芸能人のポジションから陥落する。

すでに何度か触れたけど、今のタイミングで備忘録的に書いておく。

芸能にしても、芸術にしても、スポーツにしても、伝統芸にしても、芸は作って売る側と、買う側がいる。そして買う側がいない限り、リアルタイムの芸能はビジネスとして成立しない。

芸は、常にファンの存在によって初めて成立する。

ジャニーズ事件。

1960年代から指摘されていた事実だ。

竹中労さんの「タレント帝国」ですでに指摘されていた。

私が直接その噂を聞いたのは、1980年代の大学生の頃。

芸能トップは少年愛。

その噂を1枚の絵で漫画に描いたのは、1980年代半ばの上條淳士さんの「TO-Y」だ。


芸能プロダクションに入るにあたって

男たちの水着審査がある。社長の趣味で、というシーンが描かれる。

ちなみにTO-Yは主人公の名前であると同時に大衆の「おもちゃ」である芸能人というダブルミーンングが。この漫画、ここで書いた構造全てが描かれている。秋元康さんも出てくるし。

業界内の人が知らないわけがない。

でも、解明までになぜ40年も50年もかかったのか。

唯一最大の原因について、あまりに当たり前なので、かえって誰も指摘しない。今のところテレビでも新聞でも雑誌でもウェブの記事でも指摘しているコンテンツを見てない。

それは、この芸能界における事件の構造が、芸というジャンルにおける根本的な問題を抱えている話だからだ。そして、全ての人間に跳ね返ってくる不都合な真実だからだ。

どういうことか。

それは、ファン=市場の存在だ。ファンの存在が原因、という事実。

ジャニーズ事件は、ファンが存在しなければ、ファンのサイズが巨大でなければ、存在しなかった。

さっさと告発されて、事件になり、メディアが取り上げ、事務所は潰され、当時者の社長はお縄になる。以上である。

なぜそうならなかったか。

それはファン=市場が、あまりに巨大になっていたからだ。ファンという欲望の総体があまりに大きかったからだ。それと同時にアイドルになりたいという少年たちの欲望もあまりに数多かったからだ。ジャニーズはどちらの欲望も満たし続けた。

ただしその根本には創業者のジャニー喜多川個人の性癖に基づいた性暴力と、「巨大ファン市場」を背景にした力の横暴とがセットであった。セットである。切り離せない。

ジャニーズを欲するファンの規模が巨大なのは、3つのギネス記録を持っていることからも明らかだ。

https://www.nikkansports.com/.../p-et-tp0-20121120...

しかも継続的。1960年台終わりから現在まで50年以上にわたって、新しいアイドルを育て、そしてそのアイドルを欲するファンたちの市場を形成し続けてきた。

「数多くのアイドルグループ」「ファン=市場」という二つの市場が存在しなければ、この事件は、ひとりの少年愛男性がいた、で終わりの話である。

彼が、凡庸な変態であれば、世界で最もたくさんのファンを集めるアイドルグループを延々と育成することはできない。

その点において、彼は間違いなく唯一無二の天才だった。

彼が作ったのは、あまりに強大で持続可能で、ある意味で、人間の本性をついてしまったアイドルグループと、そのアイドルを愛でるという2つの欲望の「市場」だ。

そこに尽きる。

ジャニーズという「商品」は、ひとりの少年愛男性が、この「ファン=市場」に対して、あまりに常に的確な人選と育成を行なった。アイドルグループという商品を供給し続けた。

タブーになったのは、事務所の力じゃない。男性のカリスマ性でもない。市場の大きさである。ビジネスの規模である。数々のアイドルという売り手の市場。巨大なファンという買い手の市場。凡庸なる会社員集団であるマスメディアはある意味で一人の変態がつくった二つの市場にただ乗りした。自分では作れない。だから告発するわけにはいかない。

そう、マスメディアだ。

マスメディアは、まずビジネスである。逆はない。テレビも新聞も雑誌も広告代理店もビジネスとして大きいからタブーにした。

当事者が凡庸であったら、ここまで大きな市場は構築できなかった。ささと報道したはずである。

天秤にかけられたのは、権力との戦いなんてかっこいいもんじゃない。

金とジャーナリズムを天秤にかけて、圧倒的に金のほうが、ビジネスの方が大切だったから報道しなかった。

いま、メディアが動いたのは「もはや金にならない」「つきあってるとかえって損する」。

以上だ。

ネトフリはじめ海外の動画配信やメディア規模が桁違いになった。metoo以降、芸能世界のコンプライアンスの基準が世界では桁違いに厳しくなった。日本芸能市場規模にに忖度していたら、かえって損するし、国際商品ができなくなる。

その判断がメディアにも働いた。芸能関係者にも働いた。双方に働いた。

ジャニーズという市場は、たったひとりの少年愛男性の変態性=天才性に支えられた超属人的なもの。

この少年愛男性が死んでしまった今、持続可能性はゼロである。

消えてしまったのは、彼の権威以前に彼のアイドルグループを見つけ育てる才能だ。その才能は変態性に支えられ、裏に数多くの性暴力がセットで存在する。セットだ。何度も言うけど、切り離すことはできない。

だから、事務所の存在価値はもうない。

それがわかっているから、彼に愛でられ、彼に蹂躙されたアイドルたちが事務所を次々と出ていった。アイドルたちは当事者だから、彼の存在する意味を誰よりも知っている。逆に言えば、彼がいなければ、事務所に価値はない。

ジャニーズファンという市場形成の根っこにあるのは、少年愛男性の「天才的な性癖」である。

それなしにこの市場はできなかった。

ここからが、けっこう面倒であり、本質的な話である。

つまり、ジャニーズのファン市場そのものの根っこが、少年愛男性の「変態性に基づいた」天才的審美眼と育成システムに支え得られてきた。という点である。

当事者はみんなそれを知っていた。おそらくファンも知っていた。

だから「ないこと」にされた。この少年愛男性の「変態性」がなかったら、ジャニーズも、ジャニーズファン市場も存在しない。そして今回の巨大で長年にわたる事件も存在しない。あまりに不都合である。

ただし、これは、ジャニーズ事件に限らない。

あらゆる「芸」に共通する構造だ。

芸を売る、芸を買う。

ふたつの欲望が交わる場所に、歴史的に、普遍的に存在する構造だ。

芸能コンテンツ、芸術作品と、創造者の変態性については、ピカソもヒッチコックもビスコンティもウッディアレンも、枚挙にいとまがない。

現代のアメリカやヨーロッパでは、この辺りが暴かれたmetoo問題が浮上して、現在に至る。

ただし、彼らの変態性、裏で犯してきた暴力と性癖。これと彼らの作品の内容、クオリティは切り離せない。ヴィスコンティ映画の美しさと変態性は、彼の強大な美意識と変態性と性暴力がセットだ。それなしにあの映画は存在し得ない。

切り離そうとして語るひとがいるが、それは無理だ。

芸能や芸術や格闘技やスポーツだの、人々の欲望に応えるエンタテインメント、芸の根っこには、「倫理」「道徳」と関係ない「本性」の天才的発露みたいなものが欠かせなかった。

なぜならば、人々の「欲望」の多くもまた本性的なものが根っこにあり、それは倫理や道徳の存在以前から人間の中に刻み込まれているものだからだ。

芸を売る側の変態性に基づく天才を、芸を買う側が愛でる。私たちは、創造者たちの変態性をバーチャル消費している。

その意味で芸術や芸能を楽しむ、というのは、常に創造者の変態性に加担している。そしてその変態性は、時代の倫理観や道徳観や法律が変われば、一発アウトってケースがしばしばある。その一つがジャニーズ事件だ。

芸術や芸能の本質にこの構造が普遍的に存在することは、誰もが自覚しておいた方がいい。

芸を買うことで、愛でることで、消費することで、鑑賞することで、自動的に私たちは、芸の創造者の変態性に結果的に加担している側面がある、という事実を。

古代美術をいま私たちはデオドラントされた環境で愛でている。

が、古代美術のほとんどは、文字通り血塗られた闘争の結晶であり、独裁者の暴虐の果てであり、苛烈な宗教者の権力の結果だったりする。

その変態性の生んだコンテンツをフリーライドして楽しんでいるのが美術館鑑賞だったりする。

今後、こうした変態性の暴走の結果うまれる芸能や芸術は、まさにコンプライアンス的には出てこない。出さないほうがいい、となる。

私個人は、それでいい、と思う。変態による天才の発露は構わないが、その変態が犯罪や暴力を伴うものであれば、止めるべきだ。例え、コンテンツが素晴らしかろうと。

ただし、人々の欲望そのものを止めることはできない。芸を売りたい欲望、芸を買いたい欲望。

欲望を無理に止める仕組みには、デストピア未来しかない。

そこで、欲望産業こそ、AIとITにゆだねられる。

すでにものすごいスピードで進んでいる。

あらゆる欲望は、AIとIT、人工知能と情報技術によって、「メディア」化する。中心に「ひと」はいない。

頭脳労働が、AIとITにとってかわられ、「メディア」化して、中心に「ひと」がいなくなるのとセットで。

本能に対する市場、あるいは頭脳そのもののAIによる代替が、起きるわけだ。

日本は、ちなみに欲望産業のバーチャル化先進国でもある。

ゲームとアニメをみればわかる。ある意味で風俗産業もそうだ。

今、すでに世界でゼルダが発売3日で1000万本を突破した。

日本だけで224万本。

1本7000円として瞬時に700億円ビジネスである。

すでに多くの人がゼルダ廃人で、リンクになって出てこない。丸太とかでなんかしてる(うちでも)。東工大の学生たちも「週末は出てこれません」と呟いていた(授業で)。

https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230517-247781/

欲望産業が、AIとITにとってかわるのはなぜか。

消費者のあらゆる無法が許されるからだ。

欲望そのものは無くならない。

亡くなった瞬間、人類は滅亡する。

逆に言えば、人類の滅亡は欲望の消失とセットである。

が、現代社会は、人間の欲望を管理し、消失させる方向に動く。

欲望は、倫理や道徳やシステムと関係なく、むしろ先に存在する。

倫理と道徳とシステムが優先されれば、欲望は管理される。そして究極的には消失させられる。

でも、それは滅亡の道。

どうするか。

ゲーム化するしかない。アニメ化するしかない。

日本ではすでにどちらも進んでいる。

「ひと」を介在した欲望産業は、地下経済化、会員ビジネス化への道を加速させる。こちらも歴史的にずっとあったけど、もっと先鋭的に、そうなる。

「推しの子」は、その意味で、リアルな「アイドル」とそれを欲するファン市場が存在する最後の時代を描いた「アニメ」「漫画」ということになるかもしれない。

私たちの芸に対する欲望は、全て仮想空間へ。

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