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連載漫画のはじまりと終わりについて2(改変あり)

あるいは『ヒカルの碁』でいっぱいの


最近人と話をしていて驚いた事がある。               「『ヒカルの碁』の終わり方が唐突だった」             と、その人は言う。 ボクはそういう考え方を聞くのがそれこそ唐突だったので驚いたが、さらに驚いたのは                 「韓国のせいで終わった」                     と言われたことだ。週刊少年ジャンプの漫画の終わりと韓国って関係があるのか? と首を捻ったものだけど……なるほど。ウイキペディアに書き込んだ人もいた。物語終盤の強敵が韓国人で、それについて抗議の声が韓国で上がったとか。これまた初耳だった。

一体、隣の国の漫画に強敵として取り上げられて、抗議するものだろうか? 抗議する人がいるとして、漫画を発行する国の出版社が問題視しなければならないほど数がいるものだろうか? 数がいるとして、それを出版社が聞き入れて連載をやめるものだろうか?

どれもボクにとっては未見の事態なので、随分考え込んでしまった。そんなことあるのかな? 集英社の知り合いに連絡して確認するのもなんだか気が引ける事態でもある。物見高そうだと思われそうで。       だから一人で考えてみた。                     

まずは「韓国(誰だかわからないが相当数の韓国人)の抗議で連載が終わった」と仮定してみる。こう仮定しないとそもそも話にならないので仮定してみた。ボクが平気で仮定できるのは、ひっかかりが他の人と少し違うからかもしれない。                                                        ボクのひっかかりポイントは                    ◎誰が連載の終了を決めたのか                   ◎終了は唐突だったのか                      ◎唐突だとしたら誰のせいか                    である。上で話した人は多分「全て韓国のせいだ」と言いたいのだろう。

ボクは違った考えだ。順に言えば                   ★終了を決めたのは編集部である                  ★終了は唐突ではない                       ★唐突だとしたら、原作者ほったゆみさんのせいである        順に説明をしていくと…。あれだけ長い連載(単行本で23巻)となると、どの時点で終わるのかは、特に週刊少年ジャンプの場合は決めるのは編集部になる。作者の都合ではない。「特に」って言ったのはわけがある。作者が終わりたいときに終われない話は前回したけれど、あれはもう少し長くやりたいの終わった例。とっくに終わりたかったのに引き延ばされた例も週刊少年ジャンプではあるからだ。 

仮定のような大抗議が韓国で起きたとして、外交ルートを通した抗議が来たとして、それに集英社が責任を感じたとして(なんだか仮定だらけになってきた)、それでも決めるのは編集部である。むしろ、そこで決める責任とらないなら編集部いらんがな、と思うほどである。      で、編集部が終了を決めるとなると当然のように何ヶ月か前に告知する。週刊少年ジャンプのようにロットのデカイ印刷物の製作工程から考えたら原作最終回入稿の1ヶ月半前には告知しないと、トラブルだらけになるだろう。ようするに終わる5,6回前には「終わりますよ」と告知しないとマズイって話です。                          ここで三つ目の★が意味を持ってくる。つまり、唐突な終わり方と感じさせるなら、それは韓国の読者のせいではない。それは原作者が未熟だからだ。プロの作者が終了数回前に予告されて唐突に感じる終わり方をしたとしたら、それ以外の理由はない。

     

ここからは作品のボクの思い。
理屈だけ言えば上のような話になる。                じゃあ作者は未熟だったのか?ボクはそうは思わない。        『ヒカルの碁』と同じくらいの時期にボクは将棋の漫画を描いていた。格もジャンルも全く違うかも知れないが、盤面競技を描く漫画として、自分の支えの一つだった。自分の漫画を描きながら傍らの『ヒカルの碁』を読み、物語のうねりに心を任せたりした。行きづまった時も読み直しては気を取り直したり反省して、また原稿用紙に向かうという7年半だった。 『ヒカルの碁』は取材も行き届いていた。作中で出てくる学校にボクも取材に行った事がある。ボクはのちに囲碁の漫画も描いたので、日本棋院の建物だけでなく機構もしっかり調べて描かれているのがわかった。   日本が国際棋戦で勝てないという現状もあのままである。その理由は結構世知辛いものもあって、さすがにそこまでは触れていなかったが。ズーーッと見続けた自分の目からは『ヒカルの碁』は十全を尽くして終了している。「唐突な終わり」という発言は、個々人の感想として出るので構わないが、同意は仕切れない。

                                 最後の場面。主要な登場人物で物語途中でいなくなった藤原佐為の声がするところで終わる。佐為は実在の人物ではない。あ、いや。漫画のキャラクターだとか幽霊だとかという話ではなく…主人公ヒカルと同じような意味の登場人物ではない。ヒカルにしかみえないという設定になっているが、実際は佐為パートをすべて抜き去ってもあの話は成り立つ。                                     あの物語の中の佐為は、ヒカルの幻想、イマジナリーフレンドだ。ヒカルの中に眠っていた囲碁の才能の形象したものだ。佐為=才なのである。ヒカルが自分を自分で鍛えられる頃、修練の仲間が出来た頃佐為は消えていく。ヒカルは佐為をさがして山陽路まで赴き、やがて喪失感におぼれる。その彼が自分自身の中に佐為=才を再発見するくだりは、何度読んでも涙が溢れる。少年が大人へと目覚める素晴らしい瞬間だからだ。     原作のほったゆみさんは全体を慎重に大胆に話作りしている。元々大人向けの漫画を描いていた漫画家さんで、描き方が大人だなあと思う。週刊少年ジャンプは読者と同世代が漫画家になろうとやってくる雑誌なので(どの少年誌も少女誌もそうだろうけどここは特にそれが多い)、こう言う漫画は他の人には出来ないなあと、思う。

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