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言葉の四積層

先週の訪バンクーバーは、あたりまえだけれども、久しぶりに英語ばかりでコミュニケーションを行うことになった。大らかなカナダの英語はとても聞き取りやすかったし、人々のマインドも開かれていたので、穏やかな時間だった。聞かれて答える、問いかけて返ってくる、いつものそれらの行動を、いつもでない言葉で行うという、それだけの僅か3日間はとても楽しかった。
うん、たまにはいいよね。

シーズンは秋に移ったばかりで、坂の多いバンクーバーはどこも美しかった。旅行者も使うことのできるシェアバイクなんていうものもあって、シティもサバーブも広範囲にわたって動き回ることができた。徒歩と自転車とバスとタクシー。移動のスピードと目の高さが変わるたびに、いつもと違う景色と匂いをたくさんインプットされて、豊かな刺激を受けた。

僕は動きながら物事を考えるのが好きだ。
短い時間だったけれども、バンクーバーをウロウロしていると、僕の頭はモミモミされていく。その時間の中で昔からぼんやり思っていたことが言語化されてきた。それは、言葉というものが、つまりコミュニケーションというものが、4つのレイヤーでできているっていうことだった。

1)表層:リリック/ワード
2)次に浅い層:メロディ/イントネーション
3)次に深い層:リズム/ビート
4)深層:情熱/欲求

(このことを、僕の友人の柴田さんに話したら、彼はヒップホップの文脈で、表層:ライム、準表層:トラック、準深層:ビート、深層:バックグラウンド、という変換で理解をしていた。これも、とてもおもしろい。彼はレペゼン西院だ。たぶん)

声音とか音量とか匂いとか、もちろん、いろいろな要素を足すことはできるけれども、核となる構成はこの4積層。

たとえば、「おなかがすいた!」とか「喉が渇いた!」のような言葉は、第4レイヤーの欲求が大きければ充分に成り立つコミュニケーション。「いらっしゃいませデニーズへようこそ」という言葉は、来店時のイニシエーションで、その言葉が存在することが目的なので、大部分が第2レイヤーのメロディで成り立っている。「落ち込んだ友人を慰める」というコミュニケーションは複数のレイヤーを使わないと成り立たないだろうな。僕らの言葉は、この4つのレイヤーに分けることができると考えると、なかなかおもしろい。

「スリーメン・アンド・ア・ベイビー」という古い娯楽映画がある。はっきり言って、わざわざ探してみるほどの名画ではないと思う。少なくとも「人生のベスト10映画」にこの作品を入れる人はあまりいないだろうし、積極的にお勧めすると、ちょっとセンスを疑われる映画なのかもしれない。世間的な評価はよくわからないけれども、消費される娯楽のひとつと言ってしまっていいと思う。
でも、告白すると、僕はこの映画がとても好きだ。今でもたまに見たくなるし、そして、こっそり見ていたりする。イエス、アイハブ、ノーセンス。

――ニューヨークの豪華なペントハウスに暮らす独身の男三人(スリーメン)の放蕩の日々に、「あなたの子どもです」という手紙とともに赤ちゃん(ア・ベイビー)が入り込んでくる。さらば、放埓の暮らしよ。さらば、酒と女たちよ。パーティの時間は終わり、彼らは慣れない育児に振り回されることになる――
というのがあらすじ。うん、こうやって読むと、悪くない気がしてきたぞ。まあ、気のせいだけどね。

この映画の中で、僕がとても好きなシーンがある。
於深夜、建築家の男が赤ちゃんをやさしくあやしているシーンだ。

建築家は、とてもゆっくりと、とても優しい口調で、赤ちゃんにボクシング雑誌を読み聞かせている。
「赤コーナーのぉ、男がぁ、対戦んん、相手にぃ、右ぃ、ストレートをぉ、放ったぁ。ところがぁ、カウンターをぉ、受けてぇ、無残なぁ、パンチをぉ、くらうぅ、瞼がぁ、切れてぇ、血がぁ、大量にぃ、噴き出したんだよぉぉぉ」

同居人の漫画家が、それを聞いて咎める。赤ちゃんになんてものを読み聞かせてるんだよと。建築家曰く、いいんだよ、どうせこいつらに言葉なんてわかんないよ。大切なのはトーンだよ。

このエピソードに何の説得力もないけれども、コミュニケーションというものはワードだけで成り立つものではないなって思う。もちろん、会話の言葉だけではなくて、読む文章にもリズムやビートが存在する。
そして、僕は伝える目的によって、それらのレイヤーを行き来する必要があるのじゃないかなって思っている。


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