純粋無垢な主人公が「無知の知」に辿り着くまで―『リチャード・ジュエル』

哲学の基本は「無知の知」だという。自分が無知だと自覚することで知識への欲求が生まれる。今まで当然と受け入れていた物事へも疑問を抱くようになる。そして、世界の真理を解き明かす旅が始まるのだ。

実話を基にした『リチャード・ジュエル』(2019)の主人公は限りなく無知な人間として描かれる。1996年、オリンピック開催に盛り上がるアトランタ。リチャード(ポール・ウォルター・ハウザー)は警備員として会場近くの公園にいた。リチャードは任務の合間を見て談笑する警官たちに歩み寄って、ぎこちなく輪に入ろうとする。リチャードはかつて法務執行官の職に就いていたが、問題行動から解雇されていた。しかし、今でも警官や保安官への憧れは捨てていない。まるで無邪気な子供が映画のヒーローを愛するように。

やがてリチャードは不審なバッグをベンチ下に発見する。中身はパイプ爆弾だった。結局は被害者を出してしまうが、誰も気づかないままなら何百人もの人々が死んでいたかもしれない。リチャードは一夜にして英雄になる。彼は誇りで胸がいっぱいだ。FBIから連行される際も「再現テストがある」という説明を疑っていない。リチャードはいまだ純真な子供の心を持っている。子供なら誰もが、いいことをすれば褒められると信じている。母親や教師、そして父親から。

しかし、FBIがリチャードに行ったのはテストでなく尋問だった。彼は職を転々としていて母親と2人暮らし。おまけに、容姿もスマートではない。FBIはリチャードが注目を集めるために自作自演で爆弾を仕掛けたのではないかと疑っていた。担当捜査官から女性記者は色仕掛けで情報をリークする。このシーンは「女性差別的だ」とアメリカ本国ではバッシングを浴び、本作は賞レース狙いの年末公開だったにもかかわらず、ほとんど演技部門でしか評価されなかった。

脚本家のビリー・レイは『サスペクト・ゼロ』(2004)や『フライトプラン』(2005)などのサスペンス映画を得意としてきた人物である。盛り上がりを作ろうと史実に過剰な脚色をした印象は否めない。クリント・イーストウッド監督をはじめとする、男性中心の製作陣では、脚本の問題点に気付けなかったのだろう。ただ、司法とメディアが繋がっているという描写自体には強烈なメッセージがある。純朴なリチャードが思うほど、世の中は健全で分かりやすくない。何よりも、悪意に満ちているのだ。

FBIやマスコミは容赦なくリチャードを攻撃する。連日、自宅前には大勢の報道陣が押しかけてきて仕事にも向かえない。FBIの家宅捜査では食器や下着まで押収されてしまった。それでも、リチャードは加害者たちに好意的だ。過激な暴力を受けた人間はそのことを認めたくなくて、わざと明るく振舞うケースがあるという。ただ、リチャードの場合は本気で信じているのだ。「きっと分かってくれるはず。なぜならFBIなのだから」と。

本作はリチャードと母親のボビ(キャシー・ベイツ)の関係を強調して描いている。ボビは過保護なまでに息子を思い、無条件で信じ続ける。ただ、リチャードには父親がいない。思い出すら示唆されない。リチャードにとっての父親はアメリカそのものだ。善良な国民になり、評価されることでリチャードは父親からの愛を受けられるのである。警官、警備員、保安官…リチャードが目指してきた職業はアメリカ人男性が好む典型例ばかりだ。

そんなリチャードの幻想を弁護士のワトソン(サム・ロックウェル)が打ち砕く。彼は、法律の専門家として唯一、リチャードの味方をしてくれる人物だ。FBIのような威厳はない。また、リチャードから電話があったときには大金が手に入ると喜んでいた俗物でもある。(リチャードは当初、自伝の相談でワトソンに連絡していた)しかし、ワトソンは誰よりも正直にリチャードと会話をしてくれた。彼の危機を率直に説明し、このままでは死刑だとハッパをかける。

そう、ワトソンはリチャードにとって本物の父親代わりとなる。そして、リチャードは国家や司法に抱いていた幻想から目覚めていくのだ。かつてのリチャードは迷える子羊だった。権力側からすれば、無抵抗で純粋な人間ほど御しやすいものはない。だからこそ、政府やメディアはあたかも無知が知識よりも優れているような印象を与えてくる。戦争のたび、反知性主義が歪められて利用されてきた歴史を振り返れば分かるだろう。「善良な国民」とは、ともすれば権力にとっての「格好の餌食」になりかねない。

イーストウッド監督は本来、権力側の人間である。共和党支持者として政界に進出した過去もある。発言は一貫して保守的だし、男根主義に偏っている面も垣間見える。ただ、少なくとも知性的だ。イーストウッドは全ての無知なる「善良な国民」に問いかける。お前たちは被害者のままでいいのか、と。

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