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『大五郎8ℓ』

絵に描いたような幸福な一日を過ごしたはずの僕は、なぜか大五郎の4ℓペットボトルを買っていた。理由はわからない。
もっとわからないのは、その酒を飲んでいないことだ。なぜか飲んでいない。
実を言うと、飲みたいから買ったのかどうかすら記憶になかった。ほとんど無意識のうちに買っていた。
何もわからないのに、4ℓのペットボトルが自分の部屋にドスンと鎮座し、その分の空間が狭くなっているのだ。これは存在論的な侵略のようにも思えなくもない。まあ、気のせいなんだろうが。
もうひとつの問題はこの大五郎の厄介なところは捨てづらいことだ。無色透明の、まるで水のような液体だが、れっきとした焼酎甲種。酒である。酒をキッチンの排水口に捨てるのか? しかも買って、飲みもせずに封を切ってそのまま排水口に流す。ものすごく罰当たりな気がする。一体何がしたかったんだ、お前は、と言いなくなるくらい罰当たりだし、意味不明である。
何度か大五郎と面と向かって、話し合ってみたが、自分には4ℓの焼酎が流れていく時間に味わわされる背徳感に耐えられそうもないと、彼に看破され、彼は残留を勝ち取っている。ちなみに4ℓの焼酎が流れる時間はどれくらいなのかは、僕は知らない。
こうした問題に頭を悩ませた結果、僕はアルコール外来に行った。
いままで酒を飲み続けていた時には行こうともしなかったアルコール外来に、酒を飲まなくなってから行ったのだ。部屋に鎮座する大五郎のせいで。

その病院は渋谷にあった。鳴子坂クリニックという名前である。ここにした理由は近くにあったから、それと予約で取れたから。そのふたつである。感染症のせいか、どの医療機関も予約は数ヶ月先にしか取れなかった。むしろこれほど空いているクリニックというのも不安になるが、こちらも酒は飲んでないし、飲みもしない大五郎を買ってしまうんです、と相談するつもりなのだから、しっかりした医療機関である必要はない。まったくない。

当日、病院近くに着いた時、予定の13時には、ほんの少し時間があったので、すぐ近くの立ち食い蕎麦屋に入った。立ち食いと言いながら、席はある。
僕は春菊天の蕎麦のチケットを買い、店員に渡した。
「温かい蕎麦で」と注文して、席に座る。僕は春菊天の蕎麦ほどパーフェクトフードはないと常々思っている。出汁の味わいの中に、天ぷらの油分が混ざり、あっさりとした蕎麦に満足感を足すことができるにもかかわらず、春菊の香りが蕎麦や出汁の香りに立体感を出してくれる。気がする。立体感と言いつつも立体感とはなんなのかはわからない。とりあえず別ベクトルの方向性を足してくれるのだ。
店員に呼ばれ、丼を持って自分の席に帰る。その間にも、作り置きの冷えた春菊天から油が出汁に流れ出していく。出汁を一口すすってから、蕎麦を啜る。ここまではただのかけ蕎麦だ。それから春菊天を出汁に沈める。油がさらに濃い茶色の液体の中に浮かび、キラキラと輝き始める。僕はふやけた春菊天を持ち上げ、齧る。半分温かく湿っていて、半分冷たく乾いている。天ぷらの食感を味わうのはここまでだ。ここから先は春菊天を出汁に沈めながら、食べ進める。最後には衣は出汁にほとんど一体とな李、油の喜びを僕に与えてくれる。それがパーフェクトフード春菊天蕎麦である。歳のせいかもしれないが、これ以上、油が多いと、体が拒否し始める。
先日のコーヒーショップとはまるで方向性が違うが、これもまたパーフェクトな1日と言えるはずだ。だが、それでも自分には何かの落ち度があり、大五郎を買ってしまうのだ。その理由を知るために、僕は春菊天蕎麦を食べ終えると、店を出て、ビルに向かう。
特に待ち時間もなく、僕は診察室に通された。

「勃起されます?」
 医師は不躾にそう尋ねてきた。僕が答える必要性を考えていると。
「貴方、されないでしょ。貴方、ない人だわ」
 奇妙な断定をされた。そういったエキセントリックな言動以上に、僕の心を捉えていたのは医師がかけている眼鏡だった。昔、眼科であった検眼用の眼鏡にしか見えなかった。不躾な質問をされたのだから、不躾な質問くらいいいだろうと思い、僕も彼女に尋ねた。
「その眼鏡、検眼用のやつですよね?」
「そうですよ。それが何か?」
 まるで僕に興味がないとばかりにパソコンに何かを打ち込みながら、医師は唐突なクールビューティーと化した。仕草がそう見えるだけで、実際のクールビューティーとは違うが。何より検眼用の眼鏡だ。
「いや、どうしてかけているのかな、と思って」
「日によって視力って変わりません? 曇りと晴れだと見え方全然違うでしょ。あれ嫌いなんですよ。これだとほら調節できるでしょ」と医師は検眼用の眼鏡をいじってみせた。「あら、貴方……年よりは若く見えると思ったけど、そうでもないですね。ほら、そういうこともわかるんですよ、この眼鏡だと」医師は僕をさらに見て、「貴方、若作りしてますねえ」
「これ診察と何か関係あるんですか?」
「ないんじゃないですかね? 何にでも意味を求めちゃ駄目ですよ。じゃ、結論から言います」と医師は体を椅子に持たせかけた。
「アルコール依存症ですね」
否定したいという気持ちはまったくなかったが、僕は医師に尋ねた。
「でもお酒は飲んでいませんよ」
「依存の形は色々ありますよ。例えば、ある人は数ヶ月お酒を飲まなかったんですが、依存症だったことがわかりました。どうしてだと思います?」
「わからないです」
「食べているものが明らかに酒の肴だったんですよ。ほら、酒盗とかイカの塩辛とかそういものばかり食べていたんですよ。まあ、特別そういうものが好きだったという可能性も少しありましたが、アルコール依存症にしておきました」
「病名をつけると気が楽になるとか、そういう話ですか?」
「ま、そうですね。医者の仕事の8割くらいが病名をつけてあげることですから。分類してあげると言いますか。だって貴方もちょっとホッとしたんじゃないですか? 飲まないのに焼酎を4ℓも買うなんて説明できないですもんね」
「まあ、そうですね」
「せっかくなんで、セミナーに参加されますか?」
「アルコール依存症のですか?」
「ええ。でも、飲まないアルコール依存症の方のセミナーです。貴方みたいに特殊な依存の形を持っている人たちの集まりです。あいにく、この状況なので、みんなで集まって開催はできないのですが、患者同士で面談するという形で、いまは行っています。その人の依存症の話を聞いたり、体験したり、そうすることで自分の問題を捉え直せるきっかけにもなりますから。あ、その面談の終わりにはレポートを書いてもらっています。それで私に報告していただきます。書くことも形式も自由です」
どう答えようか考えたが、答えはすぐには出なかった。
「少し考える時間をもらえますか?」
「いいですけど、考えたって意味ないですよ」
最後に医師の名刺をもらい、クリニックを出た。医師の名は、鳴子坂いずみ。検眼用眼鏡をかけた女。

翌日、僕は名刺の電話番号に電話した。理由は簡単だった。
大五郎が8ℓになっていたからだった。


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