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有益でなければ価値がないか?

わたしの書いた文章を「わざわざ貴重な時間を使って読んでくださる人がいる」という事実は、とても嬉しいことで、有り難いことで。だからこそ、自分に問うことがある。

「読む価値のある文章だったか?」


この質問に、自信を持ってイエスと答えられるわけではない。だが、常に意識をして、そんな文章を目指そうとしている。少しでも記憶に残ったり、読んで良かったなと思えてもらったり、もっとふわりと、なんかいいなと感じてもらったり。わたしは価値をそんな風に、感覚的に感じてもらえるものとして捉えていた。価値をそのように、捉えたかった。


だが、今求められているコンテンツは、そういったものではないらしい。最所あさみさんのこちらの記事には、Instagramで求められている情報が「アートからインフォメーション」へと変わってきたとあった。


アートとは、いわゆるセンスと置き換えてもいいかもしれない。センスに共感したり憧れたり、なんかいいなでフォローしたり。そんなプラットフォームではもうなくなってきている。Instagramでは、ためになる情報や役に立つ情報=インフォメーションが求められるようになってきたらしい。


無料で情報が得られると同時に、情報に課金する時代だ。選ばれるか否かは、有益か無益か。この記事は本当に納得する部分が多かった。

きっともう、そういう時代だ。
アート<インフォメーション


…だが果たして、コンテンツとは有益でなければ価値がないものなのだろうか?


わたしは、noteをはじめてから、文章が纏う空気感が好きだったり、その人の視点が好きだったり、なんかいいなというふわりとした基準でフォローしてきたことばかり。もちろん有益な情報を共有してくださる方もいるが、それもまた感覚的にいいなと感じてフォローしている。


ただ有益な情報であるかどうか、そんな感覚だけで生きていくなんて、なんとなく味気ない。


答えが出ていなければ無益だろうか?どちらの立場にも立てない人の意見は無益だろうか?自分の人生に生かせない教訓は無益だろうか?ただあたたかい気持ちになるだけの文章は無益だろうか?


答えが出ていないことに対する葛藤や、どちらの立場にも立てない人の小さな声、自分には到底経験することができないような誰かの人生、ただあたたかい気持ちになる文章。そういったものに価値を見出して、愛でることのできる感覚を、センスを、アートを、忘れたくないと思う。そして、磨いていきたいと思う。

#エッセイ #日記


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