自覚的に年末感や季節感を感じること

子どもの頃は年末の空気感みたいなものは自然と感じていた気がするが、歳を重ねたからか、今の仕事がそうさせるのか、いまはある程度意識して作り出さないと、年末も淡々と過ぎて行くことが多くなってきている気がする。

仕事面で言うと、自社で提供しているサービスは製品であれプロフェッショナルサービスであれ、基本的には月単位で課金するモデルで、特定の月にまとまった金額が発生するものでもなければ、何か節目があるものでもない。むしろ時期を問わず粛々とクオリティを変えずに安定したサービスが提供し続けることを意識していることが多いし、変にムラは無い方がいい。

何かを新規に導入してもらう際も、時期を意識して無理に使ってもらうくらいなら、しっかりと納得してもらった状態で契約した方がその後の継続率は高いし、月課金だとひと月ずれたところで、会社全体としての収益にはそう大差ない。

営業組織がある程度しっかりしていると、目標達成のために節目を用意しておいた方がモチベーションのコントロールもしやすいので、年末や期末に向けて気合を入れられるような構造にしておくことの意味も大いにあったり、マーケとかであれば、年末の大きなイベントを節目に年末感がどっとでたりとかもあるが、少人数で色々とやっていると、関係者のそうした動きに同調することはあっても仕事は節目なく続いていくので、淡々としがちではある。

まあつまり、年末感や季節感、1年における節目みたいなものは、ほっときゃ自然に生まれるものではなくて、自分や組織で意識的に作り出さないと感じることはないわけだ。子どもの頃は学校が、大人になってからは所属する組織が生み出してくれているわけだ。

まあ、仕事にもよるか。農業や漁業とかは季節や時期そのものが仕事に大きく影響するので季節感は常にあるだろうし、メディアは年末感みたいなものをむしろ生み出す側なので、こんなことを考える必要もおそらくないだろうな。

この辺は小規模で仕事をしていたり、フリーランサーとかだとありがちな話なのかもしれない。仕事が主体的なもの中心になるわけなので、こうした自分が感じる空気みたいなものも主体的に感じにいかないと何もないってことだ。まあ、理にはかなっている。

そんなわけで、昔よりも年末感や季節感に対して自覚的になってきた気がする。家族や子どものイベントや街並みの変化とか。

そういう意味でも、noteとか書いているのは良いことなのかもしれないな。何かを毎日書きながら年末を迎えるのは初めてのことだ。

#日記 #年末

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