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コロナ渦不染日記 #8

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五月一日(金)

 ○朝、布団のなかでなんとなく不安が兆す。

 ○今日から五月。旧暦では夏の盛りである。だからなのか、朝から暖かい。カーディガンを着ていると、穴のなかにいてもうっすらと汗ばむくらいである。

 ○総理大臣が緊急事態宣言を一ヶ月ほど延長する旨を協議中と発表した。四日には発表の予定という。当然のことと受け入れる反面、こうして「延長」がだらだらと繰りかえされる現状に、さだかならぬ不安を覚えないでもない。
 この度の災禍において、なされた判断はすべて「状況判断」である。これは、先の見通しが立たない不測の事態に接して、これまでの「先の見通しに依拠した行動」がとれないための代替案である。が、代替案でしかないがゆえに、そして不断に「状況」を「判断」せざるをえないために、これは我々に強いストレスを与えるということも、なんとなく体感できてきた。
 これは、本来は逆であろう。「状況判断」は生き物ならどの種族もやっているものであるが、同時に生き物に強いストレスを与えるものでもある。だから、「状況判断」をしないですむように、人は文化文明を作り上げたのであろう。人間が生来持ちあわせない生存スキルの代替品として、道具や衣服が生み出されたように、状況判断の代替品として、暦、そして宗教をはじめとする文化文明が生み出されたのだ。
 だが、生き物の生き方に限界があるように、文化文明にも限界がある。その限界を迎えたとき、「状況判断」が使えるだけ、人間はマシともいえようか。文化文明を持たぬ生き物は、「状況判断」で対応できなくなれば、座して死を待つしかないのだから。

 ○なお、この文章の読者の大半は人間であろうと思われるので、一応付記しておくと、ぼくのようなうさぎをはじめ、ネコ、イヌ、鳥、牛、馬、豚など、人間と生活圏を共有する生き物は、たいてい独自の文化文明を持っている。ただし、人間に知られると面倒くさいので、ばれないように隠している。
 このことを看破し、かつ明文化せしめたのは泉鏡花だけであった。鏡花の「草迷宮」に曰く、

「[前略]およそ天下に、夜を一目も寝ぬはあっても、瞬[またたき]をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥間[なかま]一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御身[おみ]等が顔容[かたち]、衣服の一切すべて、睫毛[まつげ]までも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも活けるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
 すべて一たびただ一人の瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、木の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失うするものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪[あやし]むまい。」

——泉鏡花『草迷宮』より。

 とあるのは、このことである。

 ○夜。ジニーさん、ゆんぺすさん、J0SHUAさんとオンライン飲み会。各自の自宅で酒を片手に『帝都物語』を同時再生する。

 一九八八年の時点で、制作費十億円にして興行収入十億五千万円というから、純利益五パーセントは興行成績としては失敗の部類に入ると思うが、そこまでも含めてバブル期と思える。H・R・ギーガーデザインの〈護法童子〉の回転ノコギリ含め、すばらしい特撮と美術だった。


五月二日(土)

 ○連休初日。午前中はこの日記を編集する。

 ○在宅勤務と外出自粛に対応して、遅まきながらコーヒーメーカーを購入した。

 購入のきっかけは、以前、都内で友人たちと集まっての料理会に参加したときに、会場となったレンタルルームに、サーバーが真空断熱ポットになっているコーヒーメーカーがあったことである。ぼくは普段、琺瑯のポットにドリッパーで淹れているのだが、これは数十分もすれば冷めきってしまう。それが真空断熱ポットになれば、飲みきるまでは温かいままでいてくれるだろうと考えた。
 それが昨日届いたので、台所にセッティングして、今朝使ってみたのである。感想としては、保温性は抜群、ただしコーヒーメーカーとしては手淹れに劣る、といったところ。そもそも、ぼくは自分のコーヒー淹れの腕には(素人としては)それなりのもので、簡単な自動式に超えられるものではないと自負しているので、それはちっぽけなプライドを守ることになり、満足といえば満足である。日常はコーヒーメーカーにまかせ、たまに自分で淹れるような運用がよかろう。

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五月三日(日)

 ○朝からサンドイッチなど作り、出かける。外はTシャツ姿でも暑いくらいの好天、夏日である。十数分あるくと、毛のしたの皮膚がぴりぴりしてきた。

 ○バスに乗ろうとしたとき、前に並んでいた神経質そうなご婦人が、こちらをふりかえってびくりとしたようすを見せた。マスクをして鼻から下を隠した、二足歩行のうさぎを目にし、驚いたか。あるいは、思えず、こちらが接近しすぎてしまったか。しかし、後者だとしても、他人を病原菌のごとく忌避するかのごときたたずまいが、その他人にどう受けとられるのかということを考える余裕なきようすは、はなはだ不愉快である。

 ○バスと電車をのりついてたどりついた、川沿いの土手で昼食。サンドイッチの中身はタマゴサラダ、そしてアジフライである。フィレオフィッシュ的な白身魚のフライをはさみたかったが、手間を惜しんだのと手近な店で売っていなかったので、アジフライにだししょうゆを数滴しませて、スライスチーズとともにからしバターをぬったパンではさんだ。
 空は青く、草は緑、川はのっぺりと日光をうつし、風が薫る。車や人の声は遠くかすかに聞こえるときがあるかどうかといったところ。まことに厭世家にうってつけの休日である。
 昼食をたいらげると思いのほか腹がふくれた。運動不足を感じながら、リサ・メイスン『アラクネ』を読む。


 ○昼食後、少し歩いて、北欧家具と生活雑貨の店へ行く。以前は、休日ともなれば家族連れでごったがえす店内が、いまは、閑散とはいわないまでもすっきりしている。それでも、ショウルームを見、家の間取りを想像するのは楽しいであろう、多くの家族連れが足を止めていた。
 どんなことがあろうとも、時間は流れをとめず、人は未来を思い描く。その未来が、思い描けたもの、自分の望んだものと違ってしまうことはあるにしても、それでも、「未来がやってくる」ことを知ってしまった人間は、それを思い描かずにはいられないのである。
 だから、やってきた未来が思い描いたそれと異なっていたからといって、落胆するのも怒り出すのもムダである。それはおのれの心のなかのひとり相撲にすぎないのだ。勝手に望み、そのとおりにならなかったことを勝手に悔やんでいるだけなのだ。それだけならまだしも、その望みの叶えられないことを、自分を含め、誰かのせいにするのは、まったく益のないことである。そんなことをしている時間があるならば、理由を突き止めたらばさっさと先に行くがよろしい。
 だが、そこで足を止め、思いどおりにならないことをうらみ、うじうじと泣き言をいうのが人間である。それこそが人間性というものだ。人間性とは、なにも、みながかくあると信じたいようなあたたかくやさしいものだけではあるまい。ジャガイモみたいな顔の梶井基次郎が言うごとく、

[前略]鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和なごんでくる。

——梶井基次郎「桜の樹の下には」より。
太字強調は引用者による)

 ものでもある。

 ○夜、イナバさんと行きつけの居酒屋で飲む。十万円の給付金が手元にやってきたとしてなにに使うか、という話をする。イナバさんは「固定資産税」とのこと。

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→「#9 ゴールデンウィーク後半」



参考・引用文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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