個人の生の多様性を押しつぶす杉田水脈氏

 『新潮45』2018年8月号に掲載されている杉田水脈氏の文章「「LGBT」支援の度が過ぎる」(pp.57-60)が話題となっています。早速、私も全文を読みました。

■問題となっている箇所について
 話題となっている箇所は、以下です。

「子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」(pp.58-59)

 杉田氏の理屈で言うと、こうです。
 (1)「生産性」とは、子どもを作ることである。
 (2)LGBTのカップルは、子どもを作らない。
 (3)「生産性」のない人たち(ここでは、LGBTの人たち)には、税金を投与すべきでない(と言いたいのは明々白々)。
 問題となってくるのは、(1)と(3)でしょう。(1)は、「生産性」の概念をきわめて矮小化しています。恣意的な概念操作だとも言えます。一般的に、生産とは何かにとって有用なものを生み出すことですが、この「有用性」を狭く取り過ぎているのです。いみじくも杉田氏は「少子化対策」と述べていますが、ここでの「有用性」というのは、子どもを産んで労働者に育て上げて経済活動をする人材を産むこと、すなわち経済を発展させるための有用性に限定されているわけです。もっと他の「有用性」もあってよいはずですが、「生産」や「有用性」といえば、すぐに経済的な合理性を想起してしまうことそれ自体が問題であると言えるのではないでしょうか。
 そして、(3)の「生産性」の有無によって人々を区別し、生産性(ここでいう「生産性」もまた経済合理性によって測られるものです)のない人たちには税金を使うな、という理屈です。これは、優生思想そのものであると言ってよいでしょう。人間の価値を生産性によって測り、生産力のない者には社会は支える必要がないと言っているのですから、「生産力のない人間は生きていく価値がない」と言っているのと同じでしょう。ご承知の通り、障害者は過去から現在にかけてずっと同じ言葉を浴びせられてきました。
 この箇所の問題点としては、以下のように整理できると思います。
 ①「生産性」という言葉をあまりにも狭くとらえている
 ②人間を「生産性」という指標によって価値づけしようとしている
 ①は、指標自体が偏向しているが、偏向していることに私たちは往々にして気づいてはいないという問題、②は、特定の指標によって人間の価値を測ることや、そもそも人間の価値を何かの指標を用いて測ろうとすることに問題があると指摘している、と整理できそうです。

■「普通であること」が社会の希望なのか
 私自身は、上記の箇所はもちろん問題であると考えます。しかしながら、杉田氏の文章を読むと、より重大な問題が他の箇所にこそ潜んでいるのではないかと思うのです。そして、そのような「問題のある見方」をするからこそ、「LGBTには生産性がない、税金を投入するな」というような考え方になってしまうのではないかと、私は考えています。
 杉田氏は、次のように述べています。

「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません」(p.60)。

 ここに、杉田氏の主張が凝縮しているのではないかと思うのです。多様性は社会をバラバラにする、ならば杉田氏が考える「常識」や「普通」に従うほうが、社会が秩序付けられ、安定する、そんなふうに思っているのではないでしょうか。
 具体的に、杉田氏は次のように書いています。

「最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」(p.60)。

 つまり、杉田氏の考える「常識」「普通」とは、「人間の性には男と女の2つしかなく、男は女を愛し、女は男を愛する」ということであることが読み取れると思います。それはまた、次の箇所からもわかることです。

「私は中高一貫の女子校で、まわりに男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました」(p.59)。

 女性ばかりの思春期においては、疑似的に同性を愛したりすることはあるが、それはあくまで疑似的であり、その期間だけで終わるものであって、最終的には男性という異性を愛し、異性と結婚することが「普通」なのだと、そのように杉田氏は言っています。
 さらに、杉田氏は次のように続けます。

「普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません」(p.59)。

 同性愛は(杉田氏の基準からして)「普通」ではない(異常だ)、のみならず、同性愛の人たちを勝手に「不幸」だと決めつけているのです。これなどは、まさに障害者が不幸であると決めつけられてきた世間からの眼差しと同じものなのではないでしょうか。杉田氏が「不幸」であると決めつける同性愛者たちを、私は「同性愛者であること」だけで「不幸」であるとは思いません。もしも、同性愛者たちが「不幸」であるとするならば、それは杉田氏のように「同性愛者は不幸だ」と勝手に決めつけてくる社会によってそうなってしまうのです。
 加えて、キリスト教やイスラム教の社会においては、同性愛者は迫害されてきた歴史があるが、日本の社会では「そのような迫害の歴史はありませんでした」と述べ、「むしろ、寛容な社会だった」と述べています(p.58)。また、「LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」(p.58)とも述べています。実際問題、法制度の問題や意識の問題、この両面においてLGBTの人たちがLGBTであるがゆえに社会で生きていく困難を抱えたり、自殺者まで出ていたりするのは、周知の事実です。このような現状を杉田氏は踏まえていないと言えますし、上記のような書き方は、キリスト教やイスラム教を引き合いに出してくるという点において、それらの宗教に対する不寛容をも示しているのではないかとも思います。杉田氏の見方というものは、みずからの「常識」や「普通」を問い直すことなく、そうした基準において人間や社会のあり方を測ろうとするものです。そうした社会においては、零れ落ちる人たちが出てくるのは当然であると言えます。そして、そこを疑っていくことからしか、何も始まらないのではないでしょうか。

■「普通」をかく乱させ、いろんな人が生きてよい社会へ
 たとえば私は元来の身体障害者であり、歩行はできていたが近年それも困難になってきています。異性のパートナーと結婚はしていますが、私は誰かと性的な関係を持つことが苦手です。愛するとは何かもよくわかりません。大学の非常勤講師であるが、雇ってもらえるところもほとんどなく、経済的に苦しいため、障害者の社会運動体でアルバイトをしています。こんな私を、たとえば「A(アセクシュアルな人)」の一言で片づけられるでしょうか。同じAの人でも、人によって異なっているはずです。杉田氏は「LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています」ということを「冗談のようなこと」(p.60)と述べていますが、上記の私のような例を見てもわかるように、人間の性のあり方というのは個人によってまったく違うものです。よく言われることだと思いますが、1人の生に対応して1つの性がある、と考えたほうがよいのです。そんな事実で崩壊するような社会の秩序なら、崩壊すればよいのです。社会の秩序が崩壊するというような脅しで個人の生の事実を押しつぶすならば、それは個人よりも秩序を重んじる考え方になります。安倍政権は改憲したくてたまらないようですが、自民党憲法草案が「公共の利益」を盾にしながら個人の自由に制限をかけてくることと、安倍氏が杉田氏のことを「素晴らしい」と評価することとは、直につながっていることなのです。

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