健常者とは「便宜が図られた人」である

障害者と健常者との大きな違いとは、なんでしょうか?

からだやこころや気持ち、それに行動や認識などが、「ふつう」であるかどうか、でしょうか? だとすれば、そこで言われる「ふつう」とは、いったい、だれが、どのようにして決めるのでしょうか? だれが「そんなことをしてもよい」と言ったのでしょうか?

ここでは、そうした視点とはすこし変えてものごとを見ていくことにします。

改札が2階にある駅舎を使おうと思います。両足があって、階段を上ることができる人なら、難なく階段を上っていくでしょう。

ここで、ちょっと考えます。いま、あなたは、階段があることを前提にしましたね? 「えっ、この人、何を言ってるの? 改札が2階にあるなら、そこにたどりつくための階段があって当然ではないか」、きっとそう思われたと思います。ではなぜそこに、階段があるのが当然なのでしょうか?

そこに階段があるのは、両足があって、階段を上ることができる人が、2階にある改札を使うことができるための配慮であり、便宜であると考えることができます。もしも、階段がなく、断崖絶壁をよじ登って改札にたどりつかなければならないとしたら、どうでしょうか? そんな駅舎は、使えませんよね。使えるのはクライマーぐらいのものでしょう。あるいは、ひもが1本、2階から垂れ下がっているだけの配慮ならどうでしょうか? そのひもを握りながらよじ登ってみたいと思うでしょうか?

こう考えていくと、さきほど述べた「階段があるのは、両足があって、階段を上ることができる人が、2階にある改札を使うことができるための配慮であり、便宜である」という考え方も、一理あると思ってもらえるのではないでしょうか。逆に言えば、断崖絶壁では上れない、階段があれば上れるということは、階段という設備があるという便宜によって、改札が利用できる人を選んでいる、とも言えるのです。

そこにエスカレーターがあることによって、高齢者が楽に利用できるようになりました。そして、そこにエレベーターがあれば、車イスに乗った人たちや、ベビーカーを押す人たちが、改札を利用するためにがんばりを強いられることがなくなるのです。

エレベーターは障害者などに対する便宜ですが、それ以前に階段によって健常者は便宜をすでに図られていたのです。エレベーターなどなくてもよいという理屈は、健常者にとってみれば階段などなくてもよいという理屈と同じなわけです。

このように見ていくと、健常者とは、社会においてすでに正当に便宜を図られた人である、という言い方ができるのです。障害者差別解消法が言う「合理的配慮」(これは reasonable accommodation の訳ですが、まずい訳であると私は思っています)とは、正当な便宜が図られる人の範囲を広げることによって、障害のある人たちの〈生きづらさ〉を少なくしていくものである、とも言えるのです。

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