障害者のことばかり話している?!

 授業で、戦後日本の障害者運動の歴史、青い芝の会、そして、障害者の自立生活とそれにまつわる話しをしたところ、以下のような感想がありました。

「あなたもあなたの周りの人も「自分」のことしか考えられなかったんですね。もう少し中立的な立場で話してください。教える立場に立つのなら。
 行政も福祉にばかりお金をかけていられないです。
 苦労しているのは健常者も障害者も変わりません。
 結局自分のことしか考えてませんよね。」

 次の授業で、以下のように応答したいと思います。

 まずは、思っていることを素直に言葉にしてくれたことに感謝します。
 ありがとうございます。
 このようなことを書いて出してくれるのに、勇気が要ったかもしれません。
 それに関しては、真摯に受け止め、誠実に応答するのが私の義務ではないかと思いました。
 また、言えないだけで、心のどこかでそう思っていた人もいるのではないでしょうか。

■「中立」ってなに?
 中立とは何でしょうか? 障害者の考えと、健常者の考えを両方言えば中立なのでしょうか?
 この世の中は、圧倒的に「できるほうがよい」という価値観で占められています。「できる」ほうが、この世の中で生きていくときに得な社会です。こういう社会を、能力主義社会といいますが、それは「できる」ことによって人間の価値が示されてしまうような社会です。いまの基準は、そのような社会です。そのような基準では、障害者をはじめ社会から「無能力」だとされた人々が生きづらいのは当たり前なのです。
 また、そういう基準が疑われることなく絶対視されている中においては、私たちはそのような基準で物事を見たり考えたりすることが当たり前になってしまいます。
 つまり、私たちは、「障害者は障害があるから生きづらいのは当たり前だ」という世の中で生きているわけです。こんな社会は、果たして「中立である」と言えるでしょうか。
 もしも、「中立」というものがあり得るとすれば、それは障害者のほうこそが望んでいるはずです。この社会は、健常者が有利なようにできている、すでにこの時点で「中立」ではありません。私のことを「中立ではない」と批判されるなら、その前にこの社会が圧倒的に中立ではない、そのことをまず批判されてもよいように思います。「中立」ではない社会において、健常者にとって都合のよい考え方が多く広まっていくのです。
 学問もまた同じです。「障害のある個人を治して社会復帰させる」という発想に立つ学問は、障害を異常視して、健常者を正常なものと決めつけ、健常者中心社会については何も疑うことなく、「変わらないもの」という前提で話しが進みます。ちょうど、差別がある社会において、社会の差別構造を問わずに、差別されているのは差別される側に個人的な原因があるのだから、その原因を取り除こうとしているだけです。これでは、差別社会は変わりません。もっとも、治療することが必要な場合もあるでしょう。ですが、それはあくまで社会の都合によって決められてはならない、ということです。

■行政は何にお金をかけるべきか
 すべての人が、自由で幸福に生きる権利を有します。
 権利を有するということは、それを支える義務があるということです。
 そして、その義務を担うのは、私たちの社会です。
 とくに、この国においては、自助努力や相互扶助が強く言われますが、本来、公的な援助においてすべての人の自由で幸福に生きる権利が保障されるべきなのです。そのために社会というものはあります。実現が可能であるかどうかはさておき、理屈の上ではそうあるべきであると言えます。
 そのなかでもとくに、私は、生命を守るための医療、快適な生活を送るための福祉、人としてあるべき姿に育てる教育、この3つには行政はお金をかけるべきだと思います。まともな医療、まともな福祉、まともな教育が、無料かそれに近い形で提供されるように、そこにはお金を惜しまず使うべきであると考えます。
 たしかに、国の財政赤字の問題は深刻です。しかし、それは財政運営に問題があるのであって、そこの赤字を医療や福祉、それに教育から補填するのは許されないと思います。国が人を殺してそのぶんの浮いたお金を他に回そうというのと同じ理屈です。

■「健常者だってつらい」について
 この時代に生まれてきて、本当につらいと思います。こんな社会にしたのは、私も含む大人の責任です。そのことに関しては、申し訳なく思っています。「苦労しているのは健常者も障害者も変わりません」と言わせるほどにまで、この社会は誰にとっても(その質の違いはあると思いますが)生きづらいものになってきていると思います。
 そのうえで、生きづらい人たちが歪みあっていては、何の解決にもならないと思います。それは、お互いの憎悪を深めることにしかならないでしょう。私は、別に障害者の代表でもありませんし、そんなこと思ったこともありません。障害者の立場に立て、と言っているわけでもありません。ただ、障害者の事情に関して、たまたまみなさんよりも多少なりとも知り、多少なりとも考えてきた者として、授業を通してお伝えしているだけです。それにもかかわらず「あなたもあなたの周りの人も「自分」のことしか考えられなかったんですね」と思うなら、それはみなさんがこれまで教育を通して学んできたことが、あまりにも健常者中心に偏ったものであることの証拠なのです。
 健常者が障害者に近づいてきている、と私も思います。障害者と構造的に同じような生きづらさを、健常者も抱えてしまうような世の中になってしまったのです。非正規雇用や派遣労働しか職がなかったり、正社員になれたとしても過重労働で過労死寸前の人たちも多くいます。要するに、健常者もまたこの社会において自由で幸福に生きる権利を奪われているのです。
 そんななか、そうしたうっぷんはより弱い者たちへと向けられてしまう現状があります。生活保護制度を利用している人へのバッシング、野宿者の方々への襲撃、在日コリアンの人々などに対するヘイトスピーチなどの一部に、そうしたより「弱い」人々に向けられた暴力があります。「お前たちは守られていいな」と言われるのです。生活も苦しく、差別も受け、そんななかでもしたたかに生きようとする人々のどこが「守られている」と言えるのでしょうか。
 「苦労しているのは健常者も障害者も変わりません」というのは、私はその通りであると思うのです。そのことに気づけたことは、私はよかったと思っています。この社会こそが、健常者から夢や希望、ときには生命を奪い去っているのです。そしてそれは、障害者の生きづらさとまったく同じではないのでしょうか。だとすれば、障害者が自身の生きづらさの中をいかに生き、みずからの生き方を主張し、社会を変えようとし、実際に部分的には社会を変えたことを知る意味は少しはあるのではないでしょうか。
 この意味において、障害者の問題はもうすでにみなさん自身の問題である、そう思っています。健常者も障害者も同じように生きづらいなら、生きづらくさせているその構造をまずは知ることから始めなければならないと思い、私は授業をしています。

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