定員内不合格に抗議します

0.まえおき

 経緯等は、こちらをご覧ください。

 私が書いたものは、以下です。

 「分離教育か共生共育かという対立を越えて――「発達」概念の再検討」

 上の論文は、以下の著書に加筆修正して掲載しています。こちらもぜひお読みくださればと思います。

1.大学に入学するまで

 私は、小学・中学の9年間、養護学校で過ごしました。養護学校では、毎日訓練の時間はありましたが、私は1学年上のクラスに混じって、教科教育を受けていました。とくに小学部の頃は、算数の力を伸ばしてくれた教員がいました。小5で小学校の算数の課程をすべて修了し、小6では中学入試問題の解法や、つるかめ算や和差算などをマスターしていきました。また、中学の数学の先取り学習をしてもいました。中学部でも、5教科をみっちりと教えてもらい、やはりとくに数学は、中2の中頃で中学の課程を修了しました。その後は、高校入試対策、高校で習う単元(三角比など)を教えてもらったり、また、数学の時間に訓練も兼ねてと、パソコンを教えてもらったりもしていました。

 将来、数学の勉強をしたいと思っていた私は、「このまま養護学校にいては大学には行けない」と思いました。たまたま、1つ上の学年に小5から転入してきた人がいて、その人が私と同じ校区の高校を受験し、通ったのです。私も、「後に続け」とばかりに、養護学校の先生に「普通高校へ行きたい」と言ったら、応援してくれました。幸いにして、地域の高校に合格することができたのです。
 高校に入ってから最初のホームルームの時間で、担任が私のことを「野崎は入試を3番の成績で合格した」と紹介しました。これがものすごく余計でした。この一言で、私は同級生にとっては近寄りがたい存在になってしまいました。そこから友達もできず、ただただ学校には勉強しにだけ行くということになりました。同級生が寄ってくるのは、決まってテスト前で、私のノートを借りに来るのです。高校で1番の楽しみは、数学の教師を困らせに職員室へ行くことでした。自分が解けた東大や京大の数学の難問を、「教えてください」と言いつつ、大阪教育大や大阪女子大(当時)卒業程度じゃ解けないだろうという魂胆で、職員室の数学教師たちの前に現れていたのです。いま思えば、能力主義というのは人の性格を捻じ曲げてしまうものだと、それは心底そう感じます。
 理系クラスの高校3年生の担任は、物理を教えている、おそらくは日本共産党を支持する教師でした。日教組ではなく全教でした。物理の時間に、自分は大学で放射線の研究をしていたこと、そして、原子力がいかに危険なものかを聞かされた覚えがあります。その教師が、「この世の中、自分の力ではどうにもならないことがある。このクラスにもいるが、障害をもつ者、外国籍の者、自分の力では変えられないことがある。でも、勉強だけは裏切らない。勉強するもしないも、自分の力でどうにでもなる。そう思って1年間頑張ろう」と言ったのです。そのときはじめて、教師への猜疑心が芽生えました。私は、養護学校で寝たきりの精薄児(いまの用語では「知的障害児」)を何十人も見てきました。彼らは、自分の力ではごはんすら食べられない、自分の力で何でもできるなどというのはウソだと、直感したのです。本気でそう思っているのなら、この教師のことは信用ならない、そのように高3の1年間は思っていました。高校3年間は、母親が付き添い、とくに最初の2年間は、親のほうが私の同級生(とくに女子)と仲良くなっていました。「あんたのおかげでもう一度青春が取り戻せた」と言います。
 親は、地元の市役所に障害者枠で入ってほしいと言いました。いまとなっては安定した職業に就いておけばよかったと思わなくもないですが、大学で数学を研究したく、大学進学の道を選びました。「地元の国公立しか行かせられない」と言っていたので、数学の勉強ができる大阪大、神戸大、大阪市大に絞りました。ただ、大阪大学は、最寄りの阪急石橋駅から坂道で、バスもないので、諦めました。神戸大に照準を絞りましたが、2次試験では自信があったものの、前年から始まった大学入試センター試験で800点満点中520点ほど、数学と物理は満点に近かったのですが、国語と社会で半分も得点できず、そもそもそんな点数で神戸大を受験したのが間違いでした。後期試験もけっこうできたのですが、こちらは京都大や大阪大のすべり止めで受けている連中もおり不合格、浪人決定となりました。
 浪人中も、それほど勉強はしませんでした。予備校に行ったりもしませんでした。国語と社会は12月ごろから勉強しだしたと思います。それまでは、毎月『大学への数学』という雑誌の問題をすべて解き、巻末にある「学力コンテスト」に毎月応募しては、東大在学中の同じ学生を毎回指名し、添削をしてもらっていました。「成績優秀者」の欄にも載ったことがなく、「上には上がいる」と思っていました。相当、能力主義的価値観が染みついていたのですね。
 2年目は、滑り止めで関西学院大学を受け、合格していました。センター試験も630点台と、低かったのですが、2次試験はそこそこできると自信がありました。こうして、1992年春、神戸大学理学部に入学できました。

2.大学に入学して以降
 現役で受験したころから、大学当局には「ほかの受験生と同じように扱う、入学後も」と言われていました。いまでこそ、そうした対応は「合理的配慮」のない、障害者差別の構造の中において「同じように扱う」ことで差別を再生産しているとわかるのですが、当時は何もわからず、ただ「入学できればいい」としか思っていませんでした。一浪して合格後は、平日は母親が、当時大学の授業があった土曜日は父親や親せきが私の送迎をしていました。
 大学では理学部に入り、数学を研究したいと思っていました。ただ、当時の神戸大学理学部が、1年間の成績で2年次以降の学科配属を決定するということで、実験のある物理学科と化学科には無理だと思っていたので、1年間はかなりがんばりました。無事に、2年次以降は数学科に配属されることになりました。
 5月に入り、ゴールデンウイークも明けたころ、教養部の「社会学」の授業後に、1人の学生が「昼休みに学習会をやっていますので、よかったら来てみませんか?」と声をかけてくれました。その学生は障害者解放研究会(障解研)の学生で、昼休みの学習会に誘ってくれたのです。当時、新々宗教と呼ばれる団体からの勧誘も流行っており、また「どうせ障害者だから障害者関係の学習会に誘ったのだろう」と、イヤな気持ちになりました。介護で来ていた母親は「ボランティアしてもらえるんやって、行ってみ」と勘違いをしていました。
 ともかく、学習会には行きました。そこでは「養護学校、是か非か」という議論をしていました。「養護学校はあかん」という意見をそのとき初めて知りました。なかには、養護学校の教師志望の学生もいて、「内側から養護学校を変える」というようなことを述べられていました。養護学校を否定されることは、すなわち養護学校出身の私自身を否定されているように思いました。しかし、そこで使われていたテキストに載っていた、養護学校出身の障害者が、「障害があることで学校を分けられるのはおかしい」と言っていて、なるほどと思ったのです。そこから1週間ほど考え、「やっぱり、障害の有無によって行く学校を決められるのは間違っている」と思うようになり、そこから障解研にも入りました。そこから、障解研の活動をするようになり、地域で自立生活する障害者、社会運動を行う障害者に出会っていきました。障解研のメンバーの協力によって、親元から離れ、大学3年の夏には一人暮らしも始めました。

3.研究と教育を仕事にして思うこと
 その後、いろいろあって、現在は大学非常勤講師としてなんとか生活を送っています。専攻も一転し、哲学・倫理学・障害学が守備範囲です。いま思うことは、学校という場所は、教科学習がすべてであってはいけないということです。教科学習も大切なことであると思いますが、それ以上に、「異質な他者と出会う」ということを、頭ではなく体験によって感じることが大切な場合があるということです。学校も社会の一部です。社会に出ればさまざまな人がいます。小さいうちから「人はみな異なっている」という事実を、理屈だけではなく体感させておく必要があると感じます。
 私は、具体的な誰々という障害児が普通学校や普通学級に行ったほうがよいかということは分かりません。そんなものは結果としてしか言えないと思います。ただし、障害児と健常児とを分けて教育するような社会システムに関しては、断固として間違っていると言います。それは根本的に、「異質な他者との出会い」を根底から奪い取るものだからです。
 また、私は大学で教えていますが、教育現場で障害者教員が正規雇用されて働くことも、非常に重要なことであると思うようになりました。教育現場の障害労働者を見て、健常者の児童生徒学生は、障害者が働く姿を直接感じ取ることができますし、障害児にとって障害者の教員はひとつのロールモデルになり得るからです。
 研究の途上で、不登校のその後を生きる当事者たちや、彼らを「支援」する人たち、当事者でありかつ現在は研究者の人たちにも出会ってきました。私がその人たちと出会って考えたことというのは、近代社会こそが学校や教育を必要としたのであり、個人の生き方の幅を広げるために作られたものではないのではないかということでした。先ほど「学校も社会の一部です」と書きましたが、社会の差別構造と同じような構造を学校も内包しているのではないでしょうか。そういう意味では、障害児にとって普通学校や普通学級もまた差別的なものであるとも言えると思うのです。だから、それが最終的な答えではないと思うのです。
 現在の学校や教育が、子どもたちにとっての「居場所」となり得ていない、そこを踏まえないといけないと思います。障害児が障害ゆえに学校を落とされるのは、「ここはあなたの「居場所」ではない」と言われていることと同じです。つまり、障害があるから社会的に排除されている、ここが重要なところだと思います。同様に、不登校児も学校を「居場所」であると感じることができないのです。私は、すべての子ども、すべての人たちから「居場所」を奪っていくような社会構造には断固として抗議したいと思います。

 よろしければ以下もご一読ください。


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