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まとわりつく罪悪感を振り払え (皐月物語 75)

 藤城皐月ふじしろさつき江嶋華鈴えじまかりんの二人は豊川進雄とよかわすさのお神社の鳥居の前まで歩いて来た。皐月たち栄町さかえまちの子供は豊川稲荷だけでなくこの進雄しんゆう神社でもよく遊ぶ。
 豊川進雄神社は大宝たいほう元年(701年)に創建された古社で、祭神は進雄命すさのをのみこと。だが明治以前は豊川牛頭天王とよかわこずてんのうと呼ばれていて、京都の八坂やさか神社と同じ牛頭天王こずてんのうが祀られていた。本地垂迹説ほんちすいじゃくせつでは素盞鳴尊すさのおのみことと牛頭天王は同一神のような扱いになっていると同級生の筒井美耶つついみやから聞いたが、皐月にはまだよくわかっていない。
 豊川進雄神社は夏の例祭2日目に奉納される手筒てづつ花火や綱火つなびが有名で、「進雄神社の奉納綱火」は愛知県指定無形文化財に指定されている。綱火は鳥居から本殿に向けてミサイルを次々と撃ち込むような花火で、こんな激しい奉納花火はなかなかない。手筒花火は火山の噴火する様を表現しているような花火で、華やかさはないが迫力がある。
 豊川進雄神社の奉納花火は境内の作りの都合で至近距離で見られる。それでも昔はもっと近くで見られたそうで、手筒花火の雨が頭の上に振りかかってきそうだったという。手筒花火の最後のハネは耳をつんざく爆発音で、観客は恐怖心に負けない覚悟が必要だ。
 だが、皐月は1日目の各地区ごとに披露される仕掛け花火(機巧からくり花火)の方が好きだったりする。他の地区への対抗心に燃えるし、独創的な機巧が面白いので地元の子どもたちは仕掛け花火の方が好きという子が多い。皐月たちも市販の花火を組み合わせて凝った機巧を作り、仕掛け花火で遊んだりしている。

 豊川進雄神社の鳥居の前の交差点は信号がなく複雑な形をしている。交差点の脇に銀杏いちょうの木を回る小さなロータリーがあり、交差点と融合して複雑な形になっている。その銀杏の木の下で華鈴が歩みを止めた。華鈴は何かを考えているようで、なかなか動こうとしない。
「ところでさ、この先まだお前の後をついて行ってもいいのか? 仲町なかまちならもう家の近くまで来てるよな。江嶋、さっき家を知られたくないって言ってたじゃん? そろそろ俺、引き返した方がいいのかな……」
「もういいよ、家まで来ても」
「いいの?」
「うん。さっき藤城君の家、見せてもらったから」
「そうか……じゃあ玄関の前まで送ったら帰るよ」
「ふ~ん」
 豊川進雄神社と道を挟んだ隣に徳城寺とくじょうじがある。皐月はまだこのお寺には行ったことがない。子供の頃は門の両脇に立っている仁王門の石像が怖くて近づけなかったが、大きくなるとここは遊び場ではないという分別がつくようになった。
 華鈴が黙って徳城寺の方へ歩き始めた。不意を突かれた皐月は慌てて後をついて行った。生返事をされた後、何も喋ろうとしない華鈴に心がざわつく。華鈴はどうして心変わりをしたのか。
「江嶋ってこのお寺の中に入ったことある?」
「ないよ。藤城君は?」
「俺もない。お寺って神社と違って入りづらいじゃん。豊川稲荷くらい大きいところだったら別だけど。修学旅行ってさ、京都の有名なお寺に行けるから今から楽しみだ。江嶋はどこ行きたい?」
「そうね……やっぱり清水寺きよみずでらは外せないかな」
「だよな! 京都と言ったらやっぱ清水だよな」
 華鈴ともう少し修学旅行のことを話したいと思っていたが、もうすぐ華鈴の家に着いてしまう。修学旅行実行委員の話もしたかったし、旅行初日の班行動の話もしたかった。それなのに帰り道ではお互いの身の上話ばかりしていた。
「ところでさっきからずっと気になってたんだけど、藤城君ってお母さんのことママって呼んでるの?」
「何だよ、今頃。……そうだよ、悪い?」
「6年生でママはないって!」
 華鈴にケラケラと笑われた。人のことを笑うタイプではないと思っていた華鈴に笑われるのは皐月にはショックだった。
「そんなに笑うなよ……」
「ごめんごめん。ママなんて可愛いね。藤城君って甘えん坊みたい」
「そ。俺は坊やなの」
 皐月は華鈴に母のことをママと呼ぶ理由を話す気にはなれなかった。事情を説明するのは面倒だし、華鈴には弁解して理解を得るよりもバカにされるくらいの方が気が楽だ。だが華鈴の様子を見ているとそれほどバカにしているようではなく、むしろ自分に好感されているように見える。
 皐月はもう修学旅行の話がどうでもよくなっていた。楽しそうにしている華鈴を見ていると、今はただ話ができるだけでいい。皐月は今の華鈴がクラスで男子と気安く話をしているのか気になっていた。
「なあ江嶋、お前ってクラスで仲のいい男子いる?」
「何、その質問?」
 つい気になっていたことが口から出てしまった。皐月は普段ここまで踏み込んだことを女子には聞かない。
「普通にみんなと仲良くしてるけど」
 華鈴にモナリザのような微笑で軽くいなされた皐月は少しむきになっていた。
「じゃあ1組に俺みたいな奴っている?」
「ん? 意味がよくわからないな……」
「俺みたいに江嶋とよくしゃべる奴はいるのかってこと」
「へ~、気になるの?」
「うるせえな。もういいよ」
 最初は軽い気持ちで聞いただけだったはずが、質問を重ねるごとに墓穴を掘っていき、とうとう本心に気付かれてしまった。恥ずかしくなった皐月は家を知らないのに華鈴の先を歩き出した。
「いないよ!」
 振り向くと華鈴がはにかんでいた。少し頬を赤らめている華鈴に皐月はドキっとした。6年生になった華鈴は5年生の時よりも女らしく魅力的になっている……今になってようやくそのことに気が付いた。
「私に話しかけてくる男子なんていないよ」
「ほんと?」
「うん」
 悲しいことを言っているはずのに華鈴の表情に暗さはない。むしろ清々しく感じるのは皐月の錯覚なのだろうか。
「藤城君は相変わらず女の子と仲がいいんだね。仲が良過ぎたから図書室で野上さんに怒られたんだよ」
「はははっ、あん時はちょっとうるさかったかな」
「ば~か」

 話しながら歩いているうちに華鈴の家の前まで来ていた。その家は木造平屋の一軒家で、小さくてかなり古い。屋根は瓦葺だがセメント瓦で、外壁はトタンの安普請やすぶしんだ。トタンの剥がれはそれ程見られないが、打たれた釘のところに錆が出ている。車が出払っている駐車スペースのまわりには家庭菜園のプランターが並んでいる。
「あ~あ、家バレしちゃった。恥ずかしいな」
「レトロで味わい深いじゃん」
「いい感じにポジ変しなくてもいいよ。誰が見てもボロい家だから」
 木製の引戸に後付けされた戸先鎌錠とさきかまじょうは皐月の家のものよりも頑強そうだ。華鈴はランドセルから鍵を取りだして戸の鍵を開けた。
「入って」
 皐月は玄関先で別れようと思っていたので華鈴の言葉に耳を疑った。
「いいの?」
「いいよ」
 真顔になった華鈴は少し緊張しているようだった。何かをふっ切ったように一呼吸置き、硬い笑顔で皐月を招き入れた。
 玄関は清掃が行き届いていた。シューズボックスに置かれたスティックフレグランスからは爽やかな石鹸の香りがしている。内装は家の外観ほど古臭くなく、シンプルにリフォームされていて現代的だ。皐月は古いままリフォームのされていない自分の家と比べて華鈴の家を羨ましく思った。
 華鈴の部屋に通された皐月は驚いた。中にはロフトベッドが置かれていて、ロフト下に勉強机があった。広い部屋ではなかったが空間が上手に使われている。インテリアも女の子らしく、ホワイトグッズと木を組み合わせてあり、ナチュラルな優しい空間になっていた。
「何だ、これ! 秘密基地みたいで超かっこいいんだけど。机の上にベッドがあるんだ。……いいな、俺もこんな部屋にしたいな」
 祐希が家にやってきたので、二部屋を一部屋に圧縮した皐月の部屋は物で溢れて狭苦しい。華鈴のようなロフトベッドがあれば部屋がきっとすっきりとするだろう。
「小さかった頃は良かったんだけどね。でも大きくなった今はロフト下がちょっと狭く感じるかな」
「車に比べたらずっと広いじゃん。コックピットって感じでかっこいい」
「へ~、男の子ってそんな風に受け取るんだね」
 ベッド下に設置されたデスクは勉強机にしては小さいが、シェルフがベッドを支える設計になっているので収納には困らない。ベッドサイドも棚になっていて、普段使いの小物がたくさん置いてある。
 ロフトベッドの向かいの壁にはワイヤーネットが掛けられていて、フックでかわいい小物を吊るしている。また焼き網と木材を使って作られたラックもあり、そこに自然を感じさせる小物や雑貨がディスプレイされている。その下には奥行の浅いアンティーク調の白いチェストがあるが、上には何も置かれていない。狭い空間を生かしながらも女の子らしさを感じさせる素敵な部屋だ。
「インテリアもお洒落だね。ベージュとホワイトの組み合わせって最強かも」
「ほとんど100均で揃えたんだよ。小学生にはこれが限界」
「へ~、全然そんな風に見えないや。江嶋ってセンスいいんだな」
「何か飲み物を持ってくるね。床に座ってもらうことになっちゃうけど、ごめんね」
 ベージュのカーペットの上に白くてふわふわなラグが敷かれているので床に座らされているという感じがしない。皐月は横になってゴロゴロしたくなったが、さすがに華鈴の部屋ではそんなことはできない。。
 部屋の中を珍しそうに眺めていると、本棚の中に文庫本を見つけた。勝手に触ってはいけないと思い、近くまで行ってどんな本か確かめるとそれは太宰治だざいおさむの『人間失格』だった。この驚くべき表題の本を皐月はまだ読んだことのない。華鈴は何を思ってこの本を入手したのか理由を聞いてみたいが、人間失格というワードが重過ぎて聞きづらい。
「お待たせ」
 華鈴が茶菓子を持って部屋に入ってきた。トレーの上には抹茶ラテと小さな餡ドーナツが載っていた。どちらも皐月の好きなものだ。
「藤城君、やっぱりロフトの下にいた。絶対ここに入ってると思った」
 テリトリーを侵したのを咎められるかと思ったが、華鈴は何も気にしていない様子だ。ラグの上にはテーブルがないので、チェストの上の空いた場所に抹茶ミルクと小さな餡ドーナツを置いた。
「勉強机のゲーミングチェア、座ってもいい?」
「いいよ」
 白いゲーミングチェアに腰をおろして机に向かうとベッドやシェルフで囲まれた狭い空間が不思議と落ち着く。集中力が高まるような感じがして、これなら勉強もはかどりそうな気がした。
「ゲーミングチェアって最高だな。スッゲーくつろげる」
「気持ち良過ぎて寝ちゃうこともあるよ」
 ゲーミングチェアは皐月の憧れだった。家の椅子は学習机に付属していたものをそのまま使い続けている。身体が合わなくなってきて、今では学校の教室の椅子の方がマシなレベルになってしまった。
「この部屋いいね。気に入っちゃった」
「じゃあ住む?」
「いいね。でも二人じゃ狭いか」
「そだね」
 華鈴がこういう冗談を言うのを皐月は初めて聞いた。5年生の時はもう少し堅いイメージがあったけれど、6年生になって変わったのか。堅物だと思っていた華鈴の言葉が意外にもきわどくて、皐月の返しが平凡になってしまった。もっとチャラい言葉を返して笑いを取りたかった。
 皐月はゲーミングチェアから下りてラグに座り、華鈴にドリンクを取ってもらって一口飲んだ。グラスにはうっすら結露し始めていた。
「この飲み物って抹茶ラテだよね?」
「うん。甘いのは好きじゃないから抹茶とミルクだけで作ったの」
 皐月が家で作る抹茶ラテは濃縮した原液を希釈するものや粉末のものだが、これらは例外なく甘い。甘さを抑えようと思うと抹茶成分が薄くなってしまう。
「いいね! やけに美味しいと思ったら本物の抹茶で作ったのか。江嶋って俺の好み知ってるの?」
「そんなの知るわけないでしょ。私の好みで作っただけだから」
「そうなんだ。俺もこの味、どストライクだよ。じゃあ俺たちって味の好みが似てるのかな。俺、餡ドーナツも好きだし」
「餡ドーナツはたまたま家にあったから出しただけ。お父さんが好きなの」
「なんだ、そうなのか……」
「そんなにがっかりすることないでしょ。私のお父さんと味の好みが似ていてよかったね」
 皐月の顔を見ながら華鈴が笑いだした。今日の華鈴はよく笑う。お父さんと味の好みが似ていると言われても全然嬉しくなかったが、華鈴につられて皐月も笑った。
「さっき羊羹ようかんをもらったから、藤城君って餡子あんこが好きなのかなって思ったの。ちなみに餡ドーナツは私も好き。餡子好きなら抹茶も好きかなって」
 強烈な背徳感が皐月を襲った。この感覚ががどういう意味なのか、さすがに皐月でもわかるようになった。これは恋愛感情だ。
 夏の終わりからまだ一月ひとつきしか経っていないのに、好きな子がどんどん増えていく。仲良くなる女の子のことを片っ端から好きになってしまう。皐月は自分の頭がおかしくなったような気がして怖く感じるが、自分の気持ちを抑えることができなくなっている。
「ねえ、どうしたの?」
「ん? どうもしないよ。へへへ」
 皐月は今この世界には自分と華鈴の二人しかいないと思い直した。華鈴を目の前にして恋心を抱いたとしても自分は何も悪くない。皐月は豊川稲荷で美耶に言った言葉を思い出した。今の皐月の目には華鈴しか映っていない。
 皐月は恋心にまとわりつく罪悪感を振り払った。今は目の前にいる華鈴のことをもっと好きになりたいとさえ思った。
 皐月から今日の修学旅行実行委員会の話題を切り出した。真面目モードに気持ちを切り替えようと理性を奮い立たせた。そうでもしなければ華鈴に触れたくなってしまう。そしてもっと先のことまで求めてしまうかもしれない……。
 二人は抹茶オレを飲みながら今後のことを少し話し合った。委員会はまだ始まったばかりだから大して話すことはなかったが、委員会で手渡された過去のしおりに目を通し、自分たちの栞作りでやるべきことを話し合った。今後も修学旅行が終わるまではこうして委員長と副委員長で連携し、委員としての意識を共有することを確認した。話はほとんど華鈴の主導でまとまった。児童会長をしているからなのか、段取りを組むのが得意そうだ。

「じゃあ俺、帰るわ。これから親子丼作るんだろ。遅くまで悪かったな」
「そんな、いいよ。私の方が引き止めちゃったみたいで悪いなって……藤城君、これから家に帰らなきゃいけないし」
「大して遠くないし、どってことないよ。でも今日みたいな延長戦はない方がいいかな。学校にいる時間内だけでなんとかしたい」
「どうしても間に合わないっていう時は今日みたいに遅くなってもいいよ。でも私の親がいる時はちょっと家ではまずいかな……」
「その時は俺ん家でやろう。帰りが遅くなったら今日みたいに家まで送るから」
「うん、わかった」
 華鈴の部屋の時計を見ると5時半を過ぎていた。これ以上遅くなると華鈴に迷惑はかけられない。夕食を作るのに最低でも1時間はかかることを皐月は経験上わかっている。
 玄関で靴を履き、引きとを開けようとしたら華鈴に腕を掴まれた。
「今日のこと、誰にも話さないでね」
「それって俺が江嶋の家に来たこと?」
「うん」
「わかった。秘密にしておくよ」
「よかった……」
「今日はありがとう。まさか家に上げてもらえるとは思わなかった。嬉しかった」
「また来てね」
「また来る」
 皐月は軽く左手を挙げ、掌を華鈴に向けた。
「何?」
「ハイタッチ。しよ?」
 明るい声で言った皐月だが、内心はドキドキだった。下心を見透かされ、気持ち悪いと思われるのが怖かった。本当は華鈴を抱き寄せてしまいたかったが、今はまだそこまでできないと思ったのでギリギリ妥協してのハイタッチだ。
 華鈴が軽く微笑んで右手を挙げたので皐月から華鈴に手を合わせにいった。タッチをした後、華鈴の気持ちを試してみたくて手を引かないでいると、華鈴も手を重ねたまま離そうとしなかった。たなごころは温かく、合わせた手から汗が出てきた。皐月はずっとこのままでいたいと思った。視線を手から華鈴の顔に移すと華鈴も皐月の顔を見て、目と目が合った。頬を染めていた華鈴を見て、皐月も一瞬で顔が熱くなった。
「じゃあ」
「うん。気を付けて帰ってね」
 皐月は華鈴の家を後にした。外はもう日が暮れようとしていた。皐月は昂(たかあぶ)る気持ちを振り切るために走り出した。無心にならなければと思い全力疾走まで足を速めたが、こんな走り方は長くは続かない。豊川進雄神社の鳥居前の銀杏の木の下までは走り続けると、銀杏の木に着く頃には息が上がって動けなくなっていた。
 皐月は肩で息をしながら幹に手を当て、体重をかけて呼吸を整えた。少し落ち着いてくると木から伝わる温かさが華鈴の掌の温もりと似ていることに気が付いた。今別れたばかりなのに、もう華鈴に逢いたくなっていた。


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