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天河参拝記 20代だった頃の神社巡礼

50代の今、当時を振り返って

 この参拝記は私が20代の頃に書いた文章で、note やブログがなかったホームページ時代に自分のサイトに載せていたものだ。余りにも変なところを少しだけ手直しして note に再掲しようと思った。
 以前から昔の文章を乗せようと思ってはいたのだけれど、読みなおしてみると恥ずかしくなり、思わず顔を背けたくなってしまう。実際に読み返すと、テンションが高かったり落ち込んで暗かったり、なかなかにぎやかで面白い。文は下手くそだが、今よりは勢いがある。夜中にでも書いていたのかな?

 最近、この頃に天河で出会った友人からコンタクトがあった。私のことを思い出してもらえてとても嬉しかった。
 このことがきっかけになり昔の文章を読み返し、再びネットに投稿したくなった。恥ずかしさにムズムズしながら校正をし、校閲は最小限にして、当時のテイストを残すことにした。
 このエッセイはちょっと長くなるけれど、楽しんでもらえたら嬉しい。写真は昔のものを使っているので、容量を節約していたため画質が悪くなっています。

はじめに

1997年7月3日の投稿

 奈良県吉野郡天川村に大峯本宮天河大辨財天社という神社がある。ここは知る人ぞ知る有名な神社だけど、知らない人は全く知らない。修験者、芸能関係者、芸術家、最近では気功を学ぶ方々、UFO研究者などの崇敬が厚い。内田康夫氏の小説「天河伝説殺人事件」を読み、初めてこの神社を知った人も多い。

 私がこの天河を知ってから6年くらいになるだろうか。特に最初の2年間、私は天河へ訪れることが多かった。その頃の私は、熱狂的というほどではないが、天河によってかなり気持ちが高揚していた。これはたぶん、天河の地における「気」の作用ではないかと思っている。
 天河では、多くの人がこの地に魅せられ、集い、そして去っていった。私も多くの大切な人と人と出会い、また多くの人と音信不通になった……。
 初めて天河に行った時のことはもう昔のことで、だいぶ忘れてしまっている。それ以降の天河行きのことも相当忘れている。残念ながらその頃は今のように体験を文章に残しておくということをしていなかった。だから、今までの体験を忘れないために、憶えている範囲で文章に残しておきたいと思う。文章を書きながら、少しづつ、いろいろな出来事を思い出していけたらな、と願いながらこのコーナー(当時のホームページ)を作っていきたい。
 私にとって天河での体験は、クサい言い方をすれば「青春」そのものだった。当時はそんな風に、大げさに天河のことを捉えてはいなかった。しかし、最近になって初めてそう思えるようになった。天河体験以降は自分自身の人生の流れのようなものの方向が変わったような気がする。

 天河には何回くらい訪れただろうか? たぶん15~16回は行っているはずだ。集中的に訪れたのは最初の参拝から2年間くらいだった。それ以降は年に1度、思い出したように懐かしんで訪れている。
 私の印象では天河は昔と今とでは随分雰囲気が違っているような気がする。でもここ半年以上は訪れていないので、こんな感覚はあてにはならないのかもしれない。
 このコーナーでは、かつての私の天河での体験を綴っておきたいと思う。この文章が、これから天河へ訪れようとする人たちの役にたてられたら、これ以上の幸せはない。

初めての天河

1997年7月5日の投稿

 初めて訪れたのは、何年前か忘れたがたしか夏の連休だったと思う。その当時、私はいろいろな意味でとても大変だった。細かい事情はもうすっかり忘れてしまったが、平穏な日々の中で天河行きを決めたわけではなかった。現状を変えたくて、それで天河へ行こうと思ってた。
 天河のことは友人から聞くまで全然知らなかった。友人の話によると、「すごいパワースポット」「UFOが飛んでる」「宮司さんがすごい人で、祝詞をあげると風が吹く」「日本中から霊能者やアーティストが結集している」などなど。そんなような話を聞いたように思う。
 私の場合、その手の話題は特に興味がなかったが、大勢の人たちがそんな山奥に結集している、ということにとても惹かれていた。そんな遠い山奥まで、大勢の人たちがわざわざ訪れる所とは一体どんなだろう? そこには人を惹きつけて止まない何か、きっとあるはずだ。
 それから友人はこんなことも言っていた。「何だかとても懐かしいところで、あたたかく自分を受け入れてくれた」とか……。
 私は天河に行きたくて行きたくてしかたがなくなっていた。

 当時、私は貧乏だった。もちろん今でも貧乏だけど、それ以上の貧乏だったので、宿泊費を払うことが惜しくて野宿をしようと思っていた。車の中で眠る車内泊だ。アウトドアブームが始まる前だったので、テントを買って、その中で寝るという発想に欠けていたように思う。テントがあれば、もう少し楽な旅になっていたかもしれない。
 当日、寝所として選んだのは吉野川だ。吉野川の河原まで車で降りられたので決めたようなものだ。なるべく人目に着かなく、かといってあまり寂し過ぎるところも嫌だったのだ。ただ後で知ったのだが、河原での宿泊は危ないらしい。もし増水したら、水に流され、確実に死んでいただろう。運が悪ければ、私はその時死んでいたかもしれない。
 車の中ではシートを倒して寝た。車はダイハツの『ミラターボ TR-XX EFI』。軽自動車なので室内は狭く、足をのばせない。シートがフルフラットにならないので非常に疲れる。でもまあ、寝られるだけましなのかもしれない。こんなことなら、安いテントでも買っておけば良かった。
 今でもありありと思い出せるが、それにしても暑かった! 夏だからしかたがないのだけれど……ああ、もう一度同じことをやれ、と言われても絶対に嫌だ。暑くてたまらなかったので窓でも開けようかと思ったが、蚊が入ってきそうなのでやめた。虫は嫌いだ。虫に喰われるのはいやだし、変な虫が車内に入ってきたら恐い。じゃあ、エンジンをつけてエアコンを効かせようかとも思ったけど、そんなことをしたら自然破壊につながるからと我慢することにした。必要以上のアイドリングはしないのは現代人の常識だと思う。

 朝5時頃に目が覚めた。睡眠は浅かったが、思ったよりは寝られた。案外気分がよかった。
 吉野川の河原に出て、胸いっぱい空気を吸う。これが吉野か……なんて、柄にもなく感慨に耽ってみたりする。奇妙な旅情を感じた。これからすぐに天河へ行っても良かったのだが、せっかく吉野に来たのだから、散歩がてらに吉野神社へ参拝に出かけることにした。
 さすがに朝が早いと、私以外の参拝客はいない。神社の空気はとても澄んでいて気持ちよかった。吉野神社を独り占めしていたから、よけいに気分がよかった。この時の感覚は、今でもはっきりと思い出せる。それくらい印象的だった。
 この時は今思い出してもとても幸福だった。家を出るまではいろいろゴタゴタがあったはずなのに、ここへ来たら幸せな気持ちになれた。そして、これから天河へ行くんだという軽い興奮に包まれ、最近ではすっかり忘れてしまった初々しい気持ちになり、天河に向かった。

 天河に着いた。
 実際に来てみて思ったのは、やっぱり「なんという山奥にあるんだ!」ということか。あまりにも単純なんだけど。そして、こんな山奥の神社にもかかわらず、どうしてここの駐車場には参拝客の車がたくさん停まっているんだろうか? 本当に人が大勢来るんだ……私は二度驚いた。
 天河は県外からの参拝者が多いみたいで、駐車場には関東方面の車がたくさん停まっていた。その中には私の好きなロータス・スーパー7があった。しかも品川ナンバーだ。あんな車でよくもまあ、東京から天河まで来るものだ。それにしても、スーパー7のパイロットが参拝にくる神社なんて!……この神社、侮れない。

 境内に入ってみると、「なんだ、全然小さいな」っていう感じだった。吉野神社を見た直後だったからかもしれないけど、正直ちょっと拍子抜けだった。有名な神社だから(一部の間だけど)もっと大きくて、古くて、荘厳なのかと勝手に考えていた。
 実際は改築直後みたいで、社殿もピカピカで桧の匂いを放っていた。その香りが実に気持ち良かった。あとで聞いた話によると、この建築方法は昔の天河を再現したものらしい。ずいぶんお金もかかっているみたいだ。でも、それはとてもいいことじゃないかなと思った。本当は後にこの改築がきっかけで、天河はひどい目にあうんだけど、当時の私には考えも及ばなかった。
 狭い境内の中には大勢の参拝者がいた。境内を行き交う参拝者たちを観察してみると、みんなどこか癖のありそうな変わった感じの人が多かった。ちょっと派手めの人だとか、なんかイッちゃってる感じの人だとか……。多彩で、実におもしろい。街でこんな人ばかりだったらちょっといやだな、と思えるくらいだ。
 階段から本殿を見上げると、なんだか雰囲気が凄い。自分でもよくわからないけど、とにかく凄いっ。私はそこで、何を凄いと感じたのだろうか? ただ単に建物が凄いと思ったわけではない。今思うと、本当はその建物の奥にある何かに感応して凄いと感じたのかもしれない。そのあたりは自分ではよくわからない。今までにない感覚だったから。

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 階段を上って拝殿へ行くと、桧の匂いがまだ濃くて気持ちがいい。アロマテラピーをしているみたいだ。大袈裟でなく香りに酔ってしまいそうだった。
 階段をのぼりきり、むかって左側が拝殿で、右側が能の舞台になっていた。そこにはなんと、音楽が流れていたのだ。それは、ヒーリング音楽というらしい。こんな神社は初めてだった。神社といえば静謐なイメージしかなかった。それに、神社の音楽といえば雅楽だと思っていた。でもここではそんな常識は通用しないらしい。本当にもう、ここでは驚いてばかりだ。
 拝殿の前には3人の人が折り畳み椅子に座って瞑想していた。とても不思議な光景だ。彼らはきっと、真剣に神様と対峙しているに違いないのだろうけど、私には非常におもしろかった。真剣に瞑想している人をおもしろがるなんて不謹慎だとは思ったけど、好奇心も手伝い、ちょっと自分も真似してみた。
 実際真似をしてみると、妙に照れ臭く、瞑想どころではなかった。瞑想なんて自分には向いていないのかな? 人の目が気になってしまう。自意識過剰なのかもしれない。だから、私はサッサとやめることにした。でも、天河ではそれが当たり前なのかもしれない。他の参拝者の様子を見ているとそう思えてくる。不思議だ。

 どんな人が参拝に来るのか興味があったので拝殿でボーッと待っていた。しばらくして若い人が来て、おもむろに般若心経を唱え始めた。
 お・おもしろい! ああっ、凄い。こんな面白いとこ滅多にない! 普通、若い人はそんなことはしないだろう。少なくともよその神社でそんな光景は見たことがない。
 またしばらくすると派手な3人組みがお祓いをしてもらいにやってきた。この時、儀式を進行していたのは若い神主だった。ちぇっ、柿坂宮司じゃないのか、と少しがっかりだった。それはまあいい。で、この人たちの職業って一体なんだろう? 見たところ、水商売に見えるんだけど。派手だし。それとも劇団員なのかな? なんていろいろ参拝者を見ながら想像して楽しんだ。
 社務所に行くといろいろな物が売っていた。五十鈴といって3個の鈴が三角形につながっている奇妙な鈴がある。それが天河の御神体ということで、そのミニチュア版が売られていた。ネックレスになっていて、ちょっとおしゃれだった。値段は三千円で、まずそれを買った。
 それから扶桑社の『天河』という小さな本を買った。今となってはこれは稀観本なのだろうか? 書店では入手困難だと思う。私が古本屋だったら高値をつけるだろう。(その後、古本屋で200円で売っているのを見た)
 それから宮下富実夫のCDが売っていたのでそれを3枚買った。このCDが拝殿で流れていた曲なのだそうだ。私は結構気に入っていた。この人の音楽を聞けば、天河をよりリアルに思いだせそうだから。私はしばらくこの音楽にハマってしまって、宮下富実夫ばかり聴いていた。

天河の気

1998年7月4日の投稿

 はじめの頃は天河へ来ても、なんだか他人の家にいるようなよそよそしい気分にしかなれなかった。変わった人が多かったし、なんだか変に強そうな人が多かったから。私にはついていけない感じがあった。
 それでもなぜかもう一度来たくなり、それほど日をあけずにまた来てしまう。私の場合、人とは違うところで天河に惹かれていたかもしれない。

 天河の社の中はいろいろな人たちがやって来る。しかも自我の強そうな人が多い。最初はそんな人たちを面白がって見ていた。境内で瞑想する人たちや、祝詞をあげる人たちも新鮮で物珍しかった。しかし、そういうのがだんだん鬱陶しく感じてきたのだ。
 その人たちが真剣になればなるほど、私は不快感じるになるようになってきた。なぜなら、そのような人々に不純な動機を感じることがあるから……。天河には、超常的な力を求め過ぎている人があまりにも多過ぎるような気がする。そんなもの手に入れてどうしようというのだろうか?
 天河に来てまで、人のすることをいちいち気にしていてもしようがないのだが、そういった雰囲気にどうしても馴染めなかった。もちろん、そうでない人の方が多いとは思う。ただ、あの頃の私は潔癖すぎたみたいだ。

 天河に3度目に来た時(初期の頃)、もう下界には帰りたくないと思った。
 天河の社がどうとかいうわけではない。ただ、天河の里の空気、川、草木、山々がとても気に入ってしまった。そう思うようになるまでの私は社や人しか見ていなかったようだ。
 ゆっくりとまわりの景色を楽しむことにした途端、突然下界には帰りたくないと思ってしまったのだ。天河といえども所詮は一つの僻地にあるただの村にすぎない。山奥の村は日本中にはたくさんある。だけど、どうして天河だけそう思えたのだろうか? 今までもいろいろな所へ行ったことがあるけど、なんかここは今まで自分の知っていた村とは違ってた。
 天河に永住したいと思ったわけではない。天河の地元の人々とうまくやっていく自信なんてないし、ここで生活するという実感もなかった。出家して、天河で一生神に仕えて生きていくつもりも全然なかった。なのに、この天河に対する惹かれようは一体なんだったのだろうか?
 3度も来たので馴れたのかもしれない。天河で友人ができたから、馴染んでしまったのかもしれない。だけど自分自身そういう解釈に納得できなかった。何か違うのだ。

 どうして天河が好きになったのか、今でもよくわからない。友人には「天河に受け入れられたんだよ」といわれた。そういうことにしておきたいと思う。

初めて弥山へ登った日

1997年8月1日の投稿

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 何年前だったか忘れてしまったけど、それはゴールデンウィークの真っ只中だった。私はたった一人で、弥山という山へ登ってきた。

 弥山とは、天河辨財天社の奥宮が鎮座する山で、大峰奥駆という修験道の修行の場にもなっている霊山だ。標高は約 1800m くらいで、標高は大したことはない。しかしそこは修験道の聖地、遠足気分で登れるとは思えない。私は弥山に登山するということで、かなり緊張をしていた。
 私にとって本格的な登山は、何を隠そうこの弥山が初めてだったのだ。だから、もう大変だった。私よりもまわりが大騒ぎだった。友人からは引き止められるし、天河友達には死ぬよって脅かされるし、家族はただおろおろするばかりだった。
 私といえば……かなり緊張していたけど、自分なりに勝算はあるつもりだった。地図を見ると、どうやら頂上までは4~5時間くらいで登れそうだし、高度差も 800m 程度しかない。その気になれば日帰りでもいけそうだ。
 今回の登山では、頂上泊するつもりだったのでのんびりと登ればいいのだ。登山道をよく見ると、最初と最後の3分の1はちょっと急坂みたいだけど、真ん中はほぼ平らだ。ペース配分的にも楽ができそうだった。机上のイメージトレーニングでは余裕で登れそうだった。
 山頂では山小屋には泊らず、テントで寝ることにした。見ず知らずの他人と雑魚寝をするのはどうにも好きでない。だから、少々重たい思いをしてでもテントをかついで登ろうと思った。

 私はテントを持っていなかったので買わなければならなかった。軽いテントは結構値段が高い。当時も今と変らぬ貧乏だったので、この出費は痛かった。当面だけ考えれば山小屋を利用した方が経済的に得なんだけど、今後の貧乏旅行のことを考えるとどうしてもテントは必要なのだ。この時はもう、車をホンダのビートに変えていたから車内泊はできないのだ。(オープン2シーターでシートを倒せない)
 本番前に家で荷作りしてリュックをかついでみた。そしたら、重いのなんの。おおお、こんな重たいもんをかついでいかなければいけないのか……。かなり怯んだ。正直言って、テントなんかやめちゃおうかなと思った。でも、結局は「高い買い物をしたんだし、もったいない」っていう貧乏臭い考えの方が勝った。貧乏人のド根性じゃい!
 当日。ゴールデンウィークということで渋滞が予想されたので、真夜中に家を出た。午前2時頃だったかな。登山口に7時頃着けばいいと思ってた。休憩時間込みで、山頂には午後1時くらいに着く予定だった。
 考えてみれば結構目茶苦茶な予定で、5時間も車を走らせた直後に登山。若さゆえの無謀というところなのか、これが。現在の私と比べてみると、随分生命力が強かったものだ。同じ本人とは思えない。あの時の私は燃えていた。
 登山口はすぐにわかった。かなりたくさんの他府県ナンバーの車が停まっていたし、丁度下山してくる人も見掛けたから。

 さて、これから山へ登るわけだけど、登り坂になるまでに少し距離があった。私は情けないほどひ弱だった……登り坂に辿りつくまでにバテてしまったのだ! 嗚呼。
 もう、我ながら呆れ果ててしまった。なんちゅう体力のなさなのだろうか。もう、登る前から「もう止めようかな?」なんて考え始めてしまった。でも、結局例の貧乏臭い考えの方が強く、意地でも登ることにした。これって根性っていってもいいのかな?
 登り坂が見えてきた。思ってたよりもずっと急だ。全然予想と違っていて、しばらく坂を見ながら呆然としていた。上から人が降りてきたので立ちすくんでいても恥ずかしいので登り始めることにした。人に情けないところなんて見せたくないからね。私は見栄坊なのだ。
 それにしても坂は急だ。どれくらい急なのかというと、足だけでは登れないのだ。つまり、手を使って、道の側に生えている樹をつかみながらでないと登れないのだ。確かに修行の場だよ、ここは!
 もう、フラフラになりながら、めいっっぱい休みながら、ゆっくりゆっくりと登った。ただただ森の中を歩くだけで、息を飲むような眺めのいい景色があるわけでもない。頂上もろくに見えず、どうにも退屈な道中だった。
 この山のイメージは当初と随分違っていた。修験道の聖地なのだから、もっと険しい岩とかがゴロゴロしているのかと思っていたけど、そんなところは全然なかった。山では修験道の行者さんたちが修行しているのかとも思ったけど、そんな人は一人もいない。それどころか子供連れの家族とか、中年の夫婦とか、本当に普通の登山者たちばかりだった。一人で降りてくる人も多かった。それにみんな思ったよりも軽装備だ。弥山も案外普通の山なんだなあ、というのが率直な感想だった。
 最初の3分の1のきつい坂を登るのに随分時間を喰ってしまったみたいだ。2時間以上かかってしまった。それに、もうバテバテ。足がガクガクしてきた。やっと3分の1だけ登れたのに……こんなんで頂上まで行けるのだろうか? 真剣に心配になってきた。
 登りきったところで、ちょっと長い休憩を取ることにした。我慢していた水分もガバガバ摂った。あんまりたくさんのお茶を持ってきていなかったので、頂上に着くまでもつのか不安。でも、飲まずにはいられないのだ。ああ、重いのがいやだからとケチってきたのが間違いだった。

 真ん中の3分の1は、思った以上に楽だった。ふらふらの私でさえもノンストップで行けたのだから。最後の急な坂が見えてきたので、そこで昼食を摂ることにした。少しは荷物が軽くなるだろう。
 ここからは、割合ちゃんとした道になっている。一目で道だとわかるから。最初の方なんて、どこが道なのかよくわからないような所だった。ただ、樹に赤いテープが縛られていて、多分それが道標だろうと思いながら登ってきたのだから。赤いテープがなかったら絶対にわからなかった。
 ここからは精神的にはかなり楽になってきたんだけど、体の方はもうボロボロだった。気持ちだけじゃ登れないのだ。やっぱり体が動かなければ始まらない。もうどうにも動けなくなってしまったのだ。
 私のペースが余りにも遅過ぎるから、後ろから来る人たちにどんどん抜かれていった。その中には中年のおばさんたちもたくさんいたので、かなり恥ずかしかった。よっぽどやつれていたのだろうか、みんな私に声を掛けていってくれた。嬉しいやら、情けないやら……。
 いくら動けなくても、動かなければ上には行けないので、気合いを振り絞って100歩だけは前に進もうと思った。それで、「100歩すすんで一休み」を繰返していけば、ゆっくりながらも登れるんだ、と思うことにしてとにかく頑張った。はじめはちゃんと100歩すすめたんだけど、だんだん100歩が80歩になり、70・60・50……どんどん歩数が少なくなっていった。
 休む回数が多くなると、ついつい水分を補給する回数も増えてしまう。水筒の水も残りあとわずかになってしまった。頂上まではまだまだある。・・・恐くなってきた。
 ゴールデンウィークだと、山はまだまだ寒い。もう動けなくなって休んでいる時、下山してくる人から聞いた話によれば、山頂では前日には雪が降ったそうな。その話を聞いた時、はじめはちょっと信じられなかった。なんか、思いっきりハードな展開になってきたな……。
 なあんてね。この雪、実は渡りに船だったのだ。雪をとかせば水になるのだから飲料水を確保できる! おおっ、水だ水だ水だ~。とたんに元気が出てきた。本当は自分を奮い立たせるための空元気なんだけど、それでも元気は元気だ。ないよりはマシ。
 上の方に行くと、確かに雪が残っていた。期待していた程たくさん積もってはいなかったけど、日陰にはちゃんと積雪が残っていた。私は苔の上に積もっている、なるたけ清潔そうな雪を集めて水筒にいれた。水筒をシェイクしまくって、たくさんの雪を溶かした。水筒が雪で冷たくなって、とてもじゃないけど素手では持てないぐらいに冷えてしまった。その冷たい水は本当に美味しかった。
 ここまで上の方にくると、見たこともないような植物を見ることができた。物凄いケバケバしい色をしたキノコもあった。絶対に毒キノコだ、あれは。喰ったら狂うかな? こういう時、植物の知識があったら楽しいだろうなあ、なんて考えたけど私は暗記が大の苦手だ。楽しいだろうなあ、くらいで押さえておいた方が身のためだ。

 ついに山小屋が見えた。凄いたくさんの人たちがいた。山小屋は小さかったけど、いかにもって感じのいい雰囲気を出していた。ここはもう、頂上の近くなのだろうか?
 山小屋を通り抜けると、すぐに鳥居が見えた。もう、ここまで来ただけでメチャメチャ感動! そこから先は疲れなんか完全に忘れて、本殿まで走って行った。
 短い参道を抜けると、そこはとても清々しい空間だった。そして、そこには実に厳かに、天河辨財天社の奥宮が鎮座していたのだ。少しだけ体が震え、そして涙ぐんでしまった。私の他に、人は誰もいなかった。
 こういう言い方を人から聞くのは好きではないのだけれど、ほんの一瞬だけ、私は天河の神さまと繋がることができたような気がした。この時の体験は、里宮での体験とは全く別次元のものだった。もうこればかりは体験してみなければわからない。この時の感覚は一生忘れられない。

初めての失望

1997年8月4日の投稿

 1992年9月12、13、14日と奈良県の天河辨財天社に行ってきた。この日のことは、かつて少しだけ文章にして残しておいたから正確な日付がわかるのだ。
 この時の天河行きには三つの目的があった。一つは天河辨財天への参拝。もう一つは弥山登山。そして三つめは、天河で知り合った友人たちと会えることで、他のどの目的よりもこのことが楽しみだった。

 天河に着いた時、「何か違うな?」と感じた。いつもと違う……。雰囲気がピリピリしていた。
 境内に行ってみて、理由はすぐに判った。境内で天河辨財天社の崇敬会を作るための活動をしていたのだ。その崇敬会の主旨は、私の独断によれば「借金返済のための集金活動」ということになる。もちろん天河を崇敬する気持ちから始まった会だとは思うのだけど、どうにもタイミングが悪かった。新社殿造営のための借金がかなり深刻化しているらしい。なにしろ「ん十億」といわれるほどの資金が投入されていたのだから。そういう事情もあってか、天河の雰囲気はなんだか煮詰まったような感じがしたのだ。

 なにはともあれ、まずは参拝することにした。天河に来たら、一番最初は参拝することに決めているのだ。しかし、今回はちょっと緊張していた。どうも様子ががおかしいから。
 拝殿に着くと、まず妙な違和感を感じた。その原因は新しくできた鈴だった。その鈴とは賽銭箱の上にある、あの例の綱を揺すってジャランジャラン鳴らす鈴のこと。しかし、その鈴の姿を見て唖然としてしまった……驚くことにその鈴は、金と銀の大きな五十鈴だったのだ!
 もう安っぽいったらありゃしない。いかにもペンキで塗ったような、チャチな代物だった。しかも、それらはクロスしていて、ユダヤの六芒星をおもわせるようにしてあった。見ようによってはアダムスキ-型UFOのオモチャと思えなくもない。試しに綱を揺すってみたら、なんとも音が情けない。ゴロゴロしてて、本物の五十鈴とは比べようがない。本物の五十鈴の音はとても澄んでいて気持ちのいい音なのに、この鈴(五十鈴とは言いたくない!)の音は不愉快なだけだった。
 それにしても……この鈴はその筋の方々のウケを狙っているとしかおもえない! こんなものでウケを狙ってどうするつもりなのだろう? だいたい五十鈴は手で振るためのものだろうに。そういったものを吊る理由は一体何なのだろうか? まともな意図とは思えない、絶対に。
 実はこの頃、天河とある宗教団体との関わりについて大いに取り沙汰されていた頃だった。この日天河に来るまでは「そんなバカな?」と思っていたが、この様子じゃあ「さもありなん」という気持ちにもなるものだ。私は天河に来て、初めて失望を味わった。……

 それでも、神前で手を合わせてみれば、やはりそこは「天河」に違いなかった。天河が変わった、というよりも天河を取り巻く人たちのありかたが変わったと言ったらいいのだろうか。それとも、自分自身が変わってしまっていたのだろうか?
 明日、友人たちと弥山に登る。私はこれで二度目だけど、弥山は明らかに里宮とは違う。だから、私としては弥山さえ変っていさえしなければそれでいい……そんな気持ちになっていた。
 もうすぐ友人たちが天河へ到着する。今はそのことが一番の楽しみだ。それに比べたら天河の変化なんて取るにたらないもののように思えてきた。

弥山の思ひ出

1997年8月5日

 1992年9月13日。この日は、私にとって二度目の弥山登山だった。
 かつて、あの日ほど気持ちの高揚したことはなかった。あの日ほど清らかな空気を感じたことはなかった。あの日ほど人と人とが繋がったことを実感したことはなかった。

 弥山に登る前日、里宮の天河に対してかなり失望していた。その思いは友人たちも同様だったらしい。私だけがひねくれていたわけではなかったみたいで、少しホッとした。
 当日、柿坂のお母さんの作ったお弁当をもって弥山にのぞんだ。前回の反省から、今回はたくさんの水分を持つことにした。ペットボトルの1本を持ったところで、前回のテントを担いだことに比べればすっと楽なのだ。
 みんなの姿を見ていると、それぞれでとても面白い。天河で最もお世話になった友人のMさんは究極で、白装束で身を固めていた。彼女は8年以上も天河へ月参りをしている猛者だから、気合いの入れ方が違う。ちなみに、前回散々私のことを脅かしたのもMさんだ。
 気合いが入っているといえばKさんもそうだ。彼は頂上の神前にお供えする酒を一升瓶ごと担いで行くのだ。その他、火と水、そして五穀も持ち込んでいる。五穀は護国に通じるとかで……やるもんだね。
 違う民宿に泊っていたBさんも、当日飛び入り参加をした。彼女のことは知っていたが初対面だ。あと、天河の信者さんのおばあちゃんも一緒に登ることになった。このおばあちゃんをペースの基準にすれば、みんな楽に登れるだろう。

 道中、私は随分楽に感じられた。やっぱり荷物が軽量だったからだろうか。登るペ-スもおばあちゃんに合わせておいたおかげで充分に余裕があった。あとで聞いた話だけど、弥山登山は女性陣にとってはかなりキツイものだったらしい。みんな、まわりに迷惑をかけまいと懸命に登っていたのだ。胸にじ~んときた。
 弥山登山の経験があるということで、自然と私がリーダー的存在になっていた。登山経験ならばKさんの方がずっとベテランなのにね。
 で、どうしたら楽しく登れるか、どうしたら楽に登れるかと考え、ちょっとずつ短い距離をみんなが一人一人先頭に立って歩くようにした。そうすれば、それぞれ自分のペースで歩くことができるし、人のお尻ばかりみて歩いているよりも、先頭に立って景色を楽しんだ方がいいと思ったから。
 この作戦は成功だったと思う。みんな余裕を持て、途中でスナップ写真をたくさん撮ったりして遊べた。いろいろな話をしながら歩くこともできた。

 頂上にかなり近づいてきた時、山に真っ白な霧がかかり、前が見えなくなってしまった。霧が晴れるまでその場から動くことができなかった。まわりが霧で真っ白になった。隣の人は見ることはできたけど、その隣の人はもう見えなかった。日頃目にする美しくない町の風景や、昨日の里宮で見たことなどを、霧の清らかな白い空間がすべて消し去ってくれた。
 Mさんが持ち込んだ金銀対になっている五十鈴を取り出して振ってくれた。霧の中、とても澄んだ音が響きわたった。その短い間、その音色の美しさに何もかも忘れてしまっていた。余りにも現実離れをしていて夢のようだった。

 頂上についた。やっぱり天河の奥宮の弥山神社はいい。里宮とは気が全然違う。格が一つも二つも違うといった感じだ。それはもう、圧倒的だった。同行した友人たちも、言葉にならないほど感動している様子だった。
 Kさんが持ち込んだ酒などを供え、神前で祝詞を奏上することになった。大祓祝詞とひふみ祝詞を奏上した。そらで言えるからと、私もKさんと一緒になって祝詞を宣ることにした。ちょっといい恰好をしたかった。
 思えば懐かしい。前回の弥山登山でも、頂上でひふみ祝詞をあげている人がいた。私はその人に話しかけ、翌日は共に下山した。神様ごとの話で大いに盛り上がった。あの人は今頃どうしているのだろうか?
 頂上では雨がおしめり程度ふってきたが、それがまた良かった。祓禊の雨だ! なんてみんなで盛り上がった。私は雨に濡れた神社が一番好き。この日、弥山頂上では雨に濡れた社殿に本当に美を感じて、さらに感動が増した。
 里宮は今、汚れてしまっているけど、奥宮は大丈夫だと強く感じた。やっぱり、本来は天河イコ-ル奥宮といったところか。同行したみんなも、それぞれの感動と思いを胸に秘め、何事もなく無事に下山することができた。 そして、私にとって今までの体験の中で最も忘れ得ない日になった。

天河を振り返って

1997年8月12日

 9・10・11日の3日間、奈良県の天河へ遊びに行ってきた。天河で知り合った友人たちと奥宮の鎮座する弥山への登山が目的だった。10日が登山予定日だったが、天候不良の為やむなく中止の運びになった。

 天河での3日間、私は妙に重くなり、そして時に軽くなった。精神状態が変化しやすいのはこの地の特徴なのかもしれない。とても元気になる人もいれば、とても沈む人がいる。どんな場所でもそういう人はいると思うけど、この地だと現れ方が少し強いように思える。天河の地霊の力がそうさせるのだろうか?
 今回、私はかなり精神状態が不安定になっていた。天河行きの前からそういう状態が続いていた。原因は自分でもわかっていたが、やはり天河だと増幅されるんだと思う。そして、その精神を不安定にさせている眼に見えない心の深層を垣間見ることができた。

 8月9日は旧暦の七夕で、この日は天河でも七夕の神事を行っていた。実は私たちはここに来るまでこの日が七夕であることに気付いていなかったのだ。偶然、この日を天河行きの日と決めていた。七夕に天の川で再会する男女の天河友達……友達同士だけれど、こう考えてみるとなかなかロマンティックだ。七夕の日、天の川には川に沿って空の天の川が映しだされると聞く。露天風呂につかりながら、川に浮かぶ精霊流しの灯火をぼんやりと観た。
 夜の10時から境内で神事が執り行われるという話を温泉で聞いた。みんなで揃って参加することにした。
 拝殿と能舞台の間の空間が神事の場所だ。一面に敷かれた砂利が円形状に取り除かれていた。そのまわりに人が配置されるらしい。拝殿に向かって左側にヒーリングミュージック系のバンドがいてチューニングをしていた。その対面には一般参拝者用の椅子が並んでいる。
 私たちがその場に来た時にはすでに参拝客で椅子が埋まっていた。予備の椅子を出して能舞台横で観ることにしたが神社の人に禁じられ、能舞台の上に行くように言われた。高みから、しかも一番の特等席で神事を観られるなんてなんてラッキーなんだ! と思った。
 実はこの時、私はこの神事が単なるバンドの人たちの奉納演奏なのかと思っていた。私以外の参拝者たちもそう思っていたのか、割と皆リラックスしていた。すると柿坂神酒之祐宮司が登場。だらしなく座っていた私たちにいきなり喝を入れた。場は一気に緊張した。
 これは神聖なる神事であることがこの時わかった。宮司は神事に参加するという覚悟のない者は去れ! と強く言った。乱れた気が混入すると神事が成り立たなくなるらしい。

 バンドの神秘的な演奏とともに厳かに神事は執り行われた。内容は個人の在り方に関わる、一般的な神事とは異なるもので、いきなり宮司が悲しみを述べ始めた。それは私にはかなり身も蓋もないものに聞こえた。これは懺悔なのか、告白なのか……どことなくキリスト教のイメージと重なった。その後、作務衣を着た女性が神事の中で懺悔させられていた。
 宮司の告白後、拝殿と神楽殿の間の空間に作られた円形の陣の中で護摩が焚かれた。密教的だ。宮司以外にも何人かこの神事に参加していたが、彼らはいずれも素人のようだった。仕草一つ一つを宮司に仰いでいて、みな動作がぎこちなかった。この神事は全くのプライベートの神事なのだろうか? 見慣れた神社関係者の姿を見ることがなかった。
 護摩を焚き終ると柿坂宮司は一般参拝者を能舞台の上に集めた。その後のことは何と説明したら良いのか、私には経験がないので難しいが、とにかく瞑想のようなことをさせられた。宮司の言うがままに身体を動かし、声を出した。周囲の人はどう感じたのかはわからないが、私にはなんだかオウムの修行のような気色の悪いものだった。
 メディテーションの最中、私の目の前の女性がいきなりトランス状態になって踊りだしてしまった。彼女は大声を出して泣き叫び、宮司のもとへすがった。しばらくすると私の横の女性が同じようにトランス状態になった。なぜか私のまわりだけでそうなってしまったのだ。すごく嫌な気分だった。へんな宗教にまきこまれてしまったような感覚だ。このメディテーションの最後は参加者全員で大きな声で祝詞をあげ、真言をとなえ、歌をうたった。神事が終った時は心からほっとした。

 すべてが終った後、宮司の講話があった。今までの神事の印象が悪くなっていたので何を言い出すのかと心配だったが、実際はとてもいいことを話してくださった。かたくなな心になっていた私にも感応するものがあって、とても感動した。今まで心の中で漠然とこうしなければならない、と思っていたことをはっきりと言ってもらえたのでとてもうれしかった。そして自分の道を歩く自信がついた。
 天河へ来る前に友人のもとへメールを出していた。その時に私は「いろんな意味で初心に戻れそうな気がします」と書いた。そのことが今回の天河行きでは実現し、さらにもう一歩踏み出せたような気がした。
 天河での七夕神事は私にとっては死と再生の儀式だったと今では思っている。天河にいる間、私の中ではまさに死と再生の苦しみと喜びが同期して存在していた。そして私にとっての天河の存在意義が死に、再生した。

天河伝説殺人事件(TV版)

1997年10月6日

 8月に天河へ行った時、9月にロケがあるらしいと、この番組のことが噂になっていた。映画の天河伝説殺人事件は実際の天河と全然違ってて最低だったけど、今度のはちゃんと天河まで来て撮影するんだから、絶対に見逃せない。たとえドラマがカスだったとしても、天河が映っていればそれだけでいい。
 天河の信者さんの友人が9月に天河へ行った時に、ドラマの放映日を教えてもらったそうだ。彼女はいつも民宿「柿坂」に泊まっている。今回のロケは地元の人をエキストラとして採用し、民宿「柿坂」のお母さんもエキストラとして参加したというではないか。
 撮影隊が来るというので、村は結構大騒ぎだったらしい。能の奉納のシーンだからということで、エキストラとはいえ、みんな正装に近い服装をしなければならなかったらしい。聞くところによると、天河での能の撮影だけで3時間もかかったらしく、これは結構疲れたんじゃないかと思った。天河でのロケは3・4・5日の3日間でおこなわれたそうだ。

 実際に放映されたドラマを見てみると、思ったよりも出来が良くて嬉しかった。
 2時間番組で、あの物語(原作)を作るのは相当難しいと思っていたけど、ストーリーは上手にまとめられていた。それよりも評価できるのは、映像がとても耽美的に仕上がっていたことだ。ストーリーと全然関係ない名所も随所にとりいれられていたところが、その筋の方々にはとても嬉しい。また天河へ行きたくなってしまった。……
 「大峯本宮天河辨財天社」と書かれた柱(正式名称は何だろう?)を、下からズズずいいっと舐めるようにうつしてたのには、さすがプロ!って思った。あそこはすごく狭いところで、撮影ポイントがあまりないのだ。天河の写真はたくさん撮ったけど、ああいう発想は素人の私にはなかった。彼我の差を見せ付けられ、ちょっと悲しかった。
 天河のシーンで耽美的だと思ったのは、常夜燈の背後からライトを浴びせて幻想的にした境内を、遠くサイドからライティングしてたところだった。あんな神秘的な感じは実際に行っても見られない。まあ、現実の夜の闇の天河もそれ以上に神秘的なんだけどね。
 おかしかったのは、夜、能舞台の照明がついていたこと(爆)。普段は消えているのに、この日は電気を消しわすれたのかな?(笑) 拝殿の天井や、本殿の方からもライティングされていたけど、すごくきれいだった。でも、あそこは暗い方が絶対にいい! と、ここで強く言いたい。もう、めちゃめちゃ良くって、思い出しただけでも涙がにじんでくる。浅見光彦と水上秀美が感じた「気」は確かにあると思う。

 拝殿の中央にある、でっかい五十鈴はやっぱり映っていたか……あれはあまり好きじゃない。それでも、今はメッキが剥げたお陰で少しは寂れた感じがでてきてマシになったみたいだ。最初に見た時はキラキラ安っぽく光っていて、下品で非常にみっともないものだった。なんだかあの鈴は彼岸の方々のウケを狙い過ぎていていやらしい感じがする。それに音だって悪いし……なんであんなの作ったんだろう。
 序章で、男の人が死んだ時に五十鈴を落としたんだけど、あの音は本物の音だった。嬉しい! 昔、散々振らしてもらったから、あの音はよく憶えていた。とてもいい音で、思わず欲しくなってしまったほどだ。金と銀、あわせて50万円もするという値段を聞いてビックリし、思いとどまったけどね。
 天河で知り合った人たちは、結構五十鈴もってたりなんかするもんだから、それはもう、みんな凄い。私には絶対に真似できない……。

 宗家が「天河へは何度も行ったことがあったが、吉野へは来たことがなかった」と言っていた。私はかろうじて吉野神社へ一度行ったことがあるくらいだ。この神社は思い出深くて、天河へ行く時に吉野川で野宿したことを思い出す。お金がなくて、旅館とか泊まれなくて……しかももう夜遅くなってしまい、「どこで寝ようかな」と、必死で寝所を探した。それで決めたのが吉野川だった。
 夏の暑い時で、なかなか寝付けなかった。窓を開ければ虫が入ってくるから、開けられないのだ。もうサウナ状態。熟睡できなくて、その頃の自分には考えられないくらい朝早く起きてしまった。朝の散歩がてら、暇つぶしに行ったのが吉野神社だ。
 吉野神社には誰もいなく、空気は美味しくて、とても気持ちが良かった。その頃は野宿に慣れていなかったから、野宿ができたこと自体に誇りを感じていて、とにかくあの頃は青春だった。吉野神社は甘酸っぱい想い出の地なのだ。
 まさか、その吉野神社がテレビで出てくるとは思わなかった。原作にはなかったのだから。わざわざ吉野神社をうつすために、あのシーンがあるなんて実に不自然だ(笑)。でも良かったから許す。

天の川

1998年7月7日

 天河にはこんな伝説がある。
 天河辨財天の近くには八坂神社がある。その八坂神社が天の川をはさんで向こう岸にあるので、八坂神社を彦星に例え、天河神社を織姫に例えられている。そして年に一度の七夕の日(旧暦だと思う)、この天の川沿いにあるラゴラ石(羅ご羅=釈迦の実子にちなんだ石?)と言われている岩の上で、織姫と彦星は再会するという。

 けど、何かおかしい。
 八坂神社の祭神は建速須佐之男命、天河神社の祭神は市寸嶋比賣命。市寸嶋比賣命は建速須佐之男命の鼻から生れた神だから、言ってみれば親子だ。
 あれ? 七夕の話って、恋人同士の話じゃなかったっけ?
 同じ親子でも、建速須佐之男命が本当に会いたかったのは伊邪那美命の方だ。この伝説がもし本当の話だったら、もしかしたら天河神社の祭神は伊邪那美命じゃないだろうか? あるいは妻の櫛名田比賣か神大市比賣か。まあ、野暮な詮索はやめよう。

 こんなことを考えたことある?
 夜、月は空に一つしかないけれど、地上には水面の数だけ無数に月があるって。
 確か、我儘な乙女に「月が欲しい」と無理な注文を出された男が、機転をきかせて桶に水を張って「ここに月はあります」といった話があったっけ。ふと思い出した。
 年に一度の七夕の日、空に輝く天の川が地を流れる天の川に沿って、水面に浮かぶという。そのさまはまるで川が輝いているかのように見えるそうだ。だからこの川のことを天の川といい、この地を天川という。
 一度見てみたいものだ。

大峰山 女人解禁について

 この文を書いていたときは女人禁制が解禁されると言う話になっていたが、実際は現在でも女人禁制です。当時感じたままの文章と、その後に知った情報を合わせて掲載します。

画像3

1998年7月19日

 ここでいう大峰山というのは登山の対象となっている大峰の山々のことではなく、山岳密教の修行の場としての大峰の山々のことを指す。

 役の行者小角による大峰山開山以来、頑ななまでに守られてきた女人禁制の戒律が今年で終わりを告げ、女人解禁となった。当事者たちの間では長年議論されてきたが、ついに決着がついたみたいだ。女人禁制派は宗教的・伝統的な理由から女人の大峰入山を拒み、解禁派は時代の趨勢から女人の入山を許そう、という論争だったように思う。
 女人解禁論争の詳細や突っ込んだ理由は、当事者でない私にはわからない。ただ、私の考えは女人禁制派に賛成だった。理由も同じだ。しかし、友人のMさんが天河の地元の人たちの声を聞いてきたのを教えてもらって、とても驚いた。
 地元の人たちは女人禁制を支持しているようだ(すべての人がそうであるわけではなく、知る範囲でということ)。理由は思いもつかないものだった。
 地元民の女人解禁を反対する理由の第一は、女性が山中で修行者たちによって性的な被害を受けることへ危惧を抱いているためだ。
 一般的に修行者とはそのような煩悩を超えているようなイメージがあるのだが、実際は普通の男性と何ら変わりはない。女性の存在が普通である日常のなかにいるよりも、かえって女性の存在が皆無である修行の場の方が煩悩というものは高まりやすいのではないだろうか。鍛えぬかれた足腰を持つ修行者の追求から逃れられる女性修行者はまず存在しないだろう。

 大峰山に入山する玄関となっているところに洞川というところがある。ここは修行者が修行を終え、垢落としと称してこの地で遊んでいたらしい。これも人間の性か。そのための洞川の存在は決して否定されるべきではないと思うし、地元民は修行者にとってはなくてはならないものであったに違いない。
 もともと、修行者であってもただの男性であることには全然変わりないのだ。そして、人気のないところを女性が無防備に歩くことは、常識的に考えてもするべきではないことなのだ。考えてみれば当たり前のことだらけだ。それを女人禁制という戒律で制限した古代の人たちの智慧は慧眼すべきものだと思う。
 地元の人たちはとても思いやりが深い。その思いやりは大峰山の空気のなせるワザであろうか。女人解禁を反対する理由はまだある。それは解禁されることによって身の危険に晒される恐れのある女性に対してだけではなかった。それは修行者にも及んだ。
 女性と山で出会うことによって修行者が犯す必要のなかった罪を犯してしまうことを危惧しているのだ。罪が犯されることによって山が汚されてしまうというという心配もさることながら、その罪を犯すであろう者のことまで心配しているのだ。なんと地元民のやさしいことか。

 それにしても、これから大峰修験道はどうなっていくのだろうか? 地元民の声をどのように受け止めているのだろうか? 地元の人々や、本当に天河を信仰している方々の心だけは変わらずにいてもらいたいものだ。そうでなければ、天河の神様があまりにも可哀想で。……

追加情報

 読者のかたから大峰山は女人禁制を解禁しないという情報を教えていただいた。
 女人禁制の解禁は報道側の誤報で、先走った報道だったという旨が大きな立て看板に書いてあったという。私はこのことを全然知らなかったので、今度天河へ行った時、もう一度確かめてみたいと思っている。

 大峰山系の神社関係者の方から直接うかがった話。
 女人禁制といわれていた昔でも、女の人はかなり山の中に入っていたらしく、女人禁制とは名ばかりのものだったという。

追加(2019年)

 一緒に弥山に登った友人のKさんは修験道の道に進んだ。今では年賀状のやり取りしかしなくなってしまったが、彼なら今の状況をよく知っているだろう。また会って、いろいろ話をしたい。若いときはよく夜を徹して話をしたものだった。私の最高の思い出の一つだ。

異様な光景

1998年8月12日の投稿

 久しぶりに天河へ訪れた。今回は事情により長居ができなくて残念だった。
 しばらく見ないうちに神社の社殿の材木が古くなってきて、寂れたいい感じになっていた。私が初めて訪れた時は、まだ桧の香でむせ返りそうになるくらい材木が新しかった。やっぱり木造建築物は、ある程度年月を経て、風雨に晒されてこそ味がでるというものだ。
 神社の駐車場には参拝客の車がたくさん停められていた。人気はいまだ衰えずといったところか。でも、境内で顔を合わせた参拝客の人たちの雰囲気がとても真剣な想いを秘めているように見えた。私が天河にいる時は、いつも何も考えていないので不謹慎なのかもしれない。

 お参りするために拝殿へ行った。あいかわらずと言っていいのだろうか、拝殿の真正面で一人の中年女性が気功のような事をやっていて、能舞台の前に4人ほど瞑想のようなことをしている人たちがいた。同行したNさんは驚いた顔をしており、Mさんは苦笑いをしていた。
 雰囲気が異様に暗くて、とてもじゃないが参拝に行けるような状態じゃなかった。他の参拝者のことを気にしないでお参りすればいいのだろうけれど、どうもそんな気になれない。下手に近づいたら、その中年女性から悪いものをもらってしまいそうな気がした。……
 だんだん参拝者が集まってきて、その女性の周囲は人だかりになってしまった。みんなも参拝しにくい空気を感じていたみたいだ。痺れを切らした中年男性が「行っちゃえ!」みたいな感じで、勇気を持ってその女性の横でお参りをしだすと、他の人たちも一斉にその男性にならった。
 むろん私たちもみんなにならった。嫌な空気を祓うため、何度も何度も鈴を振ってやった。大きな音が出せるように拍手をしてみた。これも嫌な空気を祓うためだ。でも、やっぱりこの場でお参りするのはあまり言い気持ちではなかった。ちょっとガッカリだ。

 潮が引くように私たちを含めた参拝客たちが散り散りになり、再びその女性が一人になると、何となくバツが悪そうにしながら気功のようなものをやめた。
 その女性は能舞台の前で瞑想している人たちに気を分けてあげはじめた(ように見えた)。その女性は手に何かをすくっているような仕草をしていて、そのすくっているものをもらうために瞑想していた人たちは物をもらうような仕草で手を差し出していて、女性がその人たちに気を分けはじめた。
 変わった人たちだ。どうせ天河から気をもらうんだったらどうして自分で直接神様からそうしようと思わないのだろうか? 他力本願丸出しで見苦しい。
 私にはその女性にどんな力があるか知らない。たぶん何の力もないと思う。でも、もしその人たちがその女性を通してしか何か変な力を得られないのだったら、本当にどうしようもない人になってしまう。だってその女性がいなければまともに生きていけないってことになるんだから。
 超能力が欲しいためなのか、あるいは病気を直したいためなのか。どんな理由でその人たちが天河に来ているのかは知らないけれど、神頼みなんかする前にもっと自分なりのベストを尽くしてみたらどうだろう。あるいは人事を尽くして神頼みしかないというレベルということも考えられるけど、そんな風には見えなかった。
 私は天河に限らず、よその神社でも絶対に神頼みはしない。自分でなんとかすることをまず考える。そして努力する。私が不信心なのかもしれないけれど、神様なんてあてにならないものに依存したところで地獄を見るのがオチだと思う。
 超能力のような妙なものを得たいがために天河へ来るような人たちが増えると、天河は間違いなく今以上に荒れてしまうだろう。人は人以上の存在にはなれない、ということをもう少しわきまえて欲しい。自分の実力以外の変な力なんて欲しがるもんじゃない。

 こんなことばかり書いていると、私は天河が嫌いなんじゃないかって思われるかもしれない。でも、全然そんなことない。やっぱり天河はいいところだった。やっぱり私は天河が好きだ。
 以前は回りの妙な人たちに惑わされてしまっていたけれど、最近はもう慣れた。天河は人を見に来るところなんかじゃなくて、神様に会いに来る所なのだから。天河がどのように変わろうとも神威は変わらないんじゃないだろうか。そう思っている。

平成10年10月10日

1998年10月17日

 10月10日の夜、民宿で夕食を終えた後、神社へ参拝に出かけた。
 拝殿への階段を登ろうとすると、上から20人くらいの集団がゾロゾロと降りてきた。若者も老人もいない、中年ばかりの集団だったのが妙に印象に残った。「あ~、こんな人たちがまだ拝殿に残っていたら嫌だなあ」なんて思いつつ、階段を登りきるとやっぱりまだ3人残っていた。
 3人とも中年で、1人は男性、2人は女性だった。ちょっと変わったお参りの仕方をしていたので、やっぱり得体が知れなかった。でも、みんないい年だったのに子供のように無邪気で、嬉しそうにお参りをしていた。いい光景だった。
 夜10時を過ぎた頃、突然神社の方から太鼓の音が聞こえてきた。何か神事でも始まったのかな?
 聞くところによると、ここの宮司さんはインスピレーションがあったら時間に関係なく神事を執り行うらしい。宮司さんの一存で、真夜中に結婚式を行ったこともあると言う。その時は真夜中に結婚の儀を執行しなければならないインスピレーションでもあったのだろう。
 この日の神事はどんなインスピレーションに動かされ、どんな意味のある神事を行ったのだろうか? 平成10年10月10日ということで、10が3つ重なっていたので、恐らくその絡みの何かなんだろう。実に天河らしい光景だと思った。

 天河の朝は寒かった。まだ10月だというのに冬布団が出されていた時は驚いたけど、この寒さに納得。前日、玉置の朝で寒かったな~って思ったけれど、この日の寒さは玉置の朝の寒さと同じくらい寒い。これが山の気候というやつか。
 起床後、窓を開けて空気を入れ替えようと思ったら、なんと窓が開け放しになっていた。どうりで寒いわけだ!
 朝、帰途につく前にもう一度お社の方へお参りに行こうと思った。
 拝殿へ言ってみると、また昨日とは別の集団が何らかの儀式を行っていた。正式参拝か? 天河の場合、一般の参拝客が参拝する場所でそういった儀式をする。よその大きな神社だと、一般の参拝客よりも神前に近いところでそういったことをして、一般の参拝客はそのような儀式をしている人よりも後方から参拝ができる。
 でも、天河ではできない。もしどうしてもその時参拝をしたかったら、神事の真っ最中にその神事のために拝殿の前に座っている参拝客の前に割り込まなければならなくなってしまう。つまり、その神事を邪魔することになってしまうのだ。だから、参拝をしたかったらその神事が終わるのを待つしかない。
 その日はちょっと急いで帰りたかったので、参拝は諦めることにした。その前の日の夜に参拝を終えているからいいといえばいいんだけど、ちょっと心残りだったかな。
 それにしても天河は相変わらず参拝客が多いなあ。信仰大いに盛ん也ってところか。まあ、いいことなんだろう。

一年ぶりの天河

1999年11月23日

 先週末、天河へ参拝へ出かけた。およそ一年ぶりのことだった。
 この頃は本来だったらちょうど紅葉の季節のはずなのだが、今年は例年よりも遅れていた。私の住む地方ではまだ紅葉していなく、気の早い友人が紅葉の名所・香蘭渓へ出かけたときも、まだ全然赤くなっていなかったそうだ。天河の方はこちらよりもすこしは寒いと思うので、もしかしては紅葉しているかもしれない。

 天河へ行く途中、特に紅葉らしい紅葉は見かけなかったが、丹生川上神社の境内にある紅葉はこの日に見た紅葉の中ではもっとも美しく色づいていた。丹生川上神社へ着いたのはもう日が暮れかかった頃で、あたりは薄暗くなっていた。神々しい神社の境内の佇まいと薄暮の中に浮かぶ紅葉は震えるほど神秘的で、まるで「私は今、本当に現世にいるのだろうか?」と夢の世界に迷い込んでしまいそうになった。
 この日宿泊した民宿ではストーブが出された。いよいよ冬なんだな、と改めて実感した。今回は初めてこの民宿の二階へ泊めさせてもらったが、窓からは天河神社も見えるし、他の宿泊客のことも気にならず、なかなか快適だった。
 長旅に疲れ、部屋でうとうとしていると神社の境内の方から大祓祝詞や般若心経の大読経が聞こえてきた。そしてどういうわけか君が代斉唱までが行われていた。  ????? ……いったい何の神事なんだろう?
 君が代の斉唱というと、どうも反射的に右翼を連想してしまう。この汚れた関連付けはなんとかしたいものだ。でも、冷静に考えれば国家鎮護の神事か何かだろうことは想像がつく。
 天河に着いてからまだお参りしていなかったので参拝しようと拝殿に行くと、やっぱりどこかの団体が神社で神事をしていた。邪魔をしたくなかったし、知らない団体とは関わりたくなかったからその時は参拝しなかった。喧燥の天河弁財天社から対面にある来迎院へ移って参拝し、神社にはその後で参拝することにした。
 拝殿では巫女さんたちが忙しそうに神事の後片づけをしていた。その中に、まだ話をしたことがないけれど参拝に来る度に見掛ける巫女さんの姿を見た。この時、しみじみと天河へ来たんだなと思った。
 どういう祀をしていたのかはわからないが、拝殿のありとあらゆる照明がつけられていた。昼でも薄暗い天河の拝殿なのに、こんなにも明るい天河の拝殿は初めての体験だ。ここまで煌煌と明かりが照らされていると、なんだかとても不思議な気分になってくる。
 あらためて拝殿の隅々まで見てみると、何から何までとてもよくできている。変な感想かもしれないけれど、お金かかってるな、ゴージャスな神社なんだなと嬉しくなり、俗っぽい自分を見せつけられてしまった。
 それでも、それがたとえ人工の光であったとしても、天河の神前で光に包まれるのは気持ちがよかった。私にとっては今までの中でも最も素敵な天河体験の一つとなった。

 この夜の天河はなかなか騒がしかった。来迎院では護摩を焚いて何やら盛大に祭りが行われていた。神事が執り行われていたのはお寺の方ではなく、境内にある社の方だった。この神社には橘香道(橘浩堂)という天河に住んでいた霊能者が祭られていた。
 どうやらこの神事は橘香道の信者さんたちの内輪の祭りらしい。(翌日、朝のお勤めの宮司さんの話によると、橘香道の何回忌だかの神事で、数日にわたって熱心に行われていたという)
 橘香道という人は浜本末造という名前で何冊か本を出していて、実は私もかなり以前にで彼の本を買ったことがあったのだ。
 『万世一系の原理と般若心経の謎--世界一家天皇論三部作--』『終末の世の様相』『人類は生き残れるか』……これらの書は全て今は亡き幻の霞ヶ関書房刊。憂国の書と言ったらいいのか、警世の書といったらいいのか、詳しい内容はもうすっかり忘れてしまっていたけれど、この日本のことをどうやって良くしたらよいかということがその本に書かれていたことはよく覚えていた。そして、結構面白かった。
 そういったわけで、彼の本の内容からさっきの神社の神事で君が代が斉唱されたことと橘香道とはわりとすんなり結びついた。

 翌朝、昨夜騒がしかった来迎院へ銀杏を見に出かけた。朝はさすがに静かだった。
 銀杏は今が盛りで、とても綺麗に黄色くなっていた。ここの銀杏はとても立派で、実際、あれだけ見事な銀杏の木というものはなかなかないと思う。ここの銀杏を観るだけのために天河へ行くというのもなかなかいいものかもしれない。同行したNさんは「この銀杏を見られただけで、今回の天河は充分」とまでいって喜んでいた。
 禊殿の方へも歩いていった。道すがら、ちらほらと紅葉やら名も知らぬ樹々やらが色づいていて、とても美しかった。しかし、せっかくの美しい樹木なのに、名も知らぬはないなあ……。
 久しぶりに歩くこの道で土産物屋を見つけた。こんなところにこんな店があっただなんて、初めて知った。この店は木の切り株を加工して置物を作っている店のようだ。私はその店そのものにはあまり興味が湧かなかったのだけれど、その店でペットとして飼っているタヌキのことの方が気になった。
 初めてタヌキというものを触ったけれど、まさに筆のような手触りだった。それに、結構臭い。でも、顔とか格好とかとても愛敬があって実にかわいらしい。ああ、動物っていいなあ~。

 毎度のことというか、天河では特に何もせず、ただそのあたりをぷらぷらと散歩したりしながらのんびりと過ごした。また、来年にでも一度くらいは天河へきてのんびりとしよう。

おわりに

 この時を最後に私の天河参拝は2019年まで途絶えてしまった。それは天河への参拝だけでなく、神社に行くことそのものが少なくなってしまった。
 理由は神社が嫌いになったとか信心がなくなったとかいうわけではない。生活に追われていたり、子どもが小さくて遠出できなかったりとかいった状況だった。それ以上に私が疲れていて、ちょっと心が病んでいたというのも理由のひとつだ。
 今年は子どもも大きくなったので、私が大好きだった、私たち夫婦の思い出の地でもある天河や玉置に連れて行くことができた。いつかこういう日が来たらいいなと思っていたので、やっと願いがかなった。
 もう一つ願いがある。かつて天河で出会った友だちと再び天河で会いたい。この望みがかなったら、私の人生は幸せだったと穏やかに死ねるだろう。

 長い文章なのに最後まで読んでくださってありがとうございます。少しでも楽しんでもらえたら嬉しい。

最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。