トウキョウ・デッドエンド

 これを書くのはわたしのため。わたしのような悲しみを背負っただれかのためにじゃない。わたしのかなしみのため。わたしのかなしみにわたし自身が少しでも寄り添い、そしてそのかなしみを少しでも癒すため。けれど、そんなことはできないのだと知っている。

 私の生まれは石川県の中都市。中都市といっても人口10万人と少しの、ぎりぎりの中都市。両親は理髪店を営んでいて、父はその3代めだった。わたしは生まれてすぐに私立の保育園に預けられた。わたしの学歴の中で、私立だったのはここだけだ。理由は明白で、1日中働く両親にとって平日昼までしかやっていない公立の保育園に通わせることはデメリットが大きすぎるから。父方には体の不自由な祖母しかおらず、母方の実家は毎日預けるには遠すぎた。わたしは0歳から6歳までをそこですごした。0歳から園へやることを「かわいそう」という人は多いが、とかく母子、父子がみんな健やかに過ごせることが一番だと思う。わたしは察しのよい子供だったので、いつもお迎えが一番遅いことも、どんなイベントにも両親が現れないことにも、多少の寂しさを感じつつも、なんともないという顔をしているのが得意だった。それはいまも記憶に残ってはいるが、わたしにとっての「傷」ではない。
 7歳になり、当然のように近所の公立小学校に進んだ。そこにはたくさんの子がいた。お金持ちの子、そうでない子、転校してきた子、とある宗教の子、夏休みの後突然にいなくなった子、片親がいない子、途中で名字が変わった子。けれど当時はそんな事情には全く気付かなかったし、いろんな子がいることに対して不思議には思っても違和感はなかったはずだ。みんなきっとそうだった。公立校の割には、クラスの机の並びも自由にかえて、考える授業の(比較的多い)、誰かと違ってもいい、そういうこともあるんだ、そういう風に思えるいい学校だった気がする。思い出補正かもしれないが。はやりの少女漫画雑誌の話をしながら、男子ってほんと子どもだよね、と言い合いつつ、男女かまわず暗くなるまで近くの緑地公園や城下公園で遊んでいた。あるいはいとこがくれたゲームボーイでポケモンをしていた。
 小5くらいのとき、15も年が離れた兄がおそらく理容師の修業を終えて家に帰ってきた。驚くべきことにわたしは兄を覚えておらず、居間にいる知らない人に「こんにちは」と挨拶して、家族の爆笑をさそった。そしてこの長兄に続き次兄までいることが発覚した。
 小6のとき、酔っぱらった父親に聞いてみたところ、この2人の兄とは腹違いのきょうだいであることがわかった。けれどそれもたいしたことではないと思った。みんな私の家族であることに違いはないはずだった。
 中1のとき、両親が離婚した。これは決定的な分岐点だった。問答無用でわたしは母と実家へ戻り、誇りある母は慰謝料や養育費を受け取ることを拒否した。ここからの10年、わたしたちは本当に貧しかった。母方の実家は人口2000人弱の山間部。地域にひとつだけある公立中学に転校した。それでも1学年2クラス~3クラスくらいはあった。ここでも片親の子はチラホラといたし、仲の良い子もできて、学校生活自体はとても楽しかった。中3、はじめての「受験」がやってきた。わたしはそれまで住んでいた中都市にある、音楽コースのある市立高校を志望して、母と大喧嘩になった。けれど結局、そんなところへ通わせるお金がないのは明白だったので、「制服がかわいかったから」という理由を名目にして、同じ中学の3分の1くらいが進学する、偏差値55くらいの、なんでもない普通高校の普通科にすすんだ。ここではじめて、「市外から電車で通ってくる」、という友人ができた。憧れた。私の人生ではついに電車通学をすることはなく、いまでも電車に揺られている高校生や、中学生、とくに小学生を見かけると、少しだけたまらない気持ちになる。ここでも特筆すべきことは起こらない。高1で部活をやめて学校には内緒で近所のコンビニでバイトを始めたこと、大学受験に失敗し、(受験費が払えずそもそも公立前期の1回しか受けていなかった。)自宅浪人をしていたくらいだ。バイトは結局浪人生活の終わりまで4年間つづけた。当時は規制もゆるかったので、よく廃棄を持って帰って母と食べた。母がよく体調を崩していたのはこの廃棄食品のせいだと思う。ごめんね。
 20歳の春、わたしはようやく、小さな田舎を抜け出して、外の世界にすすんだ。静岡の大学に進学したのだ。高校の先生がすすめてくれて、オープンキャンパスでひとめぼれした第一志望の大学だった。このときのA先生には感謝してもしきれない。けれど母とも離れがたく、行きの特急しらさぎのなかで、Perfumeの「ワンルーム・ディスコ」を聞きながら、「今なら引き返せる、今戻れば……」と思って少し泣いた。もちろん実行はせず、無事に一人で決めた家にひとりで入り、荷ほどきもそこそこに、カーテンすらない部屋での生活をはじめた。大学の入学式には母が来てくれた。風の強い、よく晴れたすてきな日だった。
 そして、わたしは大学に入り、うまれてはじめて「大学生」というものを見た。
 オープンキャンパスにはほとんど教員か高校生しかいなかった。私の田舎に大学生など存在しているはずもない。通える距離に大学がないからだ。わたしの二親等以内には、私以外に大学進学者がいない。三親等までみてみても、大学進学者がいるのは母方の伯母一家のみだ。だから私は自分が大学生になるまで、道を歩いている大学生というものを見たことすらなかったのだ。これが大学、これが大学生、これが講義、これが出席、これがレポート、これが締め切り、これがサークル……。わたしはしばらくの間、毎日感激しきりだった。人見知りが強くなかなか友達ができなかったが、勇気をだして話しかけた子と仲良くなった。そこから転がり落ちるように毎日が楽しかった。課題に追われ、ぎちぎちに組んだ(わたしの世代には大学にまだ履修制限やGPAという概念がなく、わたしは取れるだけ講義をとって適当にドロップアウトしていた。)講義に追われ、そしてアルバイトに追われた。母はわたしを絶対に大学に行かせたがったが、ただお金がなかった。そのためJASSOの奨学金を借り、加えてアルバイトを詰め込むことでなんとか生活を回していた。否、今思えば、あれは「生活」などとよべるものでは到底なかった。朝から晩まで大学に詰め、18時から22時までアルバイト、家で3食100円のやきそばを具なしでさっと食べ、レポートをなんとか仕上げて風呂に入り、SNSを見て1時、あわてて眠りまた1限目に出席する……そんな風に4年間を駆け抜けた。わたしは生活する中で、親に支払ってもらっていたものはひとつもない。学費(ある程度免除されていた)、家賃、水道光熱通信費、食費、教科書代、交際費、課題にまつわる様々な雑費……すべて自分で賄ったうえで親に仕送りもしていた。それ自体は何とも思っていなかった。高校時代から変わらないことだからだ。なんでわたしばっかり、と一度だけ親に言ってしまったことがあるが、そのことは今でも後悔している。
 そして大学2年のある日、わたしは博物館学芸員資格の課題でとある美術館へ赴き、運命を出会いとも呼べる作品と出会った。
 生まれて初めて、絵画をみて涙がこぼれた。
 今でもよく覚えている。翌年、もう一度この美術館を訪れて作品をみたとき、「こんなにも小さい作品だったのか」と驚愕した。記憶のなかでは、視界いっぱいにその絵があり、きらきらと光を放っていたから。
 それからのわたしは、まるで止まらない機関車のようだった。ひとりで美術館に行き、ひとり分のチケットを買い、ひとりで館を回った。朝4時の高速バスに乗り、1日美術館を見て回り、22時のバスにのって朝4時に帰り、寝過ごすのが怖くて仮眠もとらずに朝からバイト、そしてまた夜に高速バスに乗る……それをひたすらに繰り返した。さらに大学3年の春、「演劇」というものに出会ってから、このループはますます加速していった。休みはすべて鑑賞か観劇に費やし、実家にも帰らず、わたしは学内で一番忙しんじゃないかなどと傲慢な自負すらもっていた。(事実学科内ではかなりせわしない方だったとは思う)大学生になるまで、自主的に劇場に入ったこともなければ美術館に行ったこともないし、映画館、レンタルビデオ屋、それどころか本屋だってない地域で育ったから、それを取り返すようにあらゆる展覧会と作品に溺れていった。
 そんな折、フェスティバル/トーキョー(F/T)と呼ばれる演劇祭のなかのプログラム「F/Tキャンパス」に参加した。
 そこでようやく気付いた。19歳までの私は、まだ「生まれてもいない存在」に等しかった。ようやくスタート地点に立っているに過ぎないのだと。東京で生まれ、東京で育ち、東京ですごしている学生たちはすごかった。幼いころから文化芸術に関わり、当然のように私立の学校に通い、当然のように英語を話し、当然のように海外経験への意欲を見せていた。私なんかよりずっとずっと先を歩いていた。見たことのない劇団や作品、俳優の話をしていた。ワークショップを受けていた。作品をつくっていた。20歳をすぎて目覚めたわたしは、目覚めてしまったわたしは、自分とはあまりにかけ離れた存在たちのまぶしさに目をくらませるばかりだった。虎にでもなってしまいそうだった。同じように海外を志してEFの奨学金留学生にも応募してみたが、当然受かるはずはなかった。トビタテ!もずいぶん長いこと迷ったが、大学院で身体を壊し、ついに応募することが叶わなかった。その間にもF/Tキャンパスの同期は次々に留学し、就職し、自己実現していった。
 わたしは、「大学に入って初めてしたこと」が、たぶんほかの人よりずっとずっと多い。東京で生まれ育った子にどうしても追いつけない、学生時代を東京で過ごした子を追い抜けるなんて夢のまた夢だった、というか、わたしはそのレースに参加すらできていなかったのかもしれない。徒歩圏内に文化施設があって、学生優待されて、安い運賃でどこへでも自由に出歩ける人生を送ったことがなかった。見るべきときに見るべきものを何にも得られていない。インプットが足りない、経験が足りない、知識が足りない、思いが足りない、なんにもないの同じフィールドに立とうとして、いつもこういう絶望に襲われた。この期に及んで負けたくないと思っている。
 わたしは東京を羨んでいる。何度季節が巡っても、東京で生まれ、東京で育ち、東京の大学に通い、東京で暮らす人々に対する嫉妬、羨望、憧憬が消えない。いつまでこんな気持ちを抱えて暮らさなくてはならないのかと思う一方、きっとこれは一生消えないんだ、という確信もある。そう思うと、人生というのはぞっとするような時間の連続だ。
 わたしは「書くこと」しかできない。しかも書くことだって「ちょっとだけ」しかできない。そのことにずっと気づかぬふりをしていたけれど、気づかぬふりができていたけれど、最近はもう認めるしかない。疲れている。 
 それでいて、わたしは言葉とお化粧以外のなにも、自分を磨こうとしていない。やり方もわからないし、おそらくできない。大学に入ってから自我に目覚めて、自分がいかにできないことが多いのかをまざまざと見せつけられた。わたしは、学芸員にはおそらくなれない。知識が足りないし、学位だって足りないし(現状、博士号でもないと東京で学芸員なんてできない)、外国語ができないし、そも仕事量が多すぎてついていけないだろう。身体を壊して、年齢を重ねるにつれ、人よりずっと頑張りがきかない。研究職や専門職だって無理だ。集中することが苦手で、仕事の配分や期限を守るのが苦手で、しかもできないとパニックになる。気分の浮き沈みが激しくて、毎日をなだらかに生きていけない。生きていくのが本当に下手だ。
 そしてきょうも泣きながらnoteを書いては、誰かからいいねがつくのをじっと待ってしまう。みじめだし、すごくダサい。こうやって、そういうものを当たり前に享受できた人たちをねめつけて、少しきらいになってしまいそうな私は本当にダサい。それでも、わたしはそういうわたしを否定することはできない。わたしがわたしを大切に思うことと、わたしに対して絶望することは、ごく当然のように両立するのだ。
 芸術の力という幻想を信じること、大いなる絶望と愛、それが私のもちものの全てだ。でもそれは、わたしの中にもともとあったものではもちろんない。家族からの愛をもらいつつ、実家を出て、大学に入って、ほんとうにたくさんの人と関わってつくりあげた、わたしの大切な宝のひとつだ。
 そして原点に立ちもどり、わたしはまた自分に絶望しては書き続ける。書き続けなくてはならない。それだけがわたしのなかに残る唯一の、信念、誓い、あるいは約束事のようなものなのだ。このかなしみと共に生きて、後進の輝かしい若者たちが、せめてこんな思いをしないよう、強く祈りながら生きていくしかないのだ。

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