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岬のこと

岬が好きで、出先で近くに岬があると、なぜかフラフラと行ってしまう。

その理由に最近気づいたのだけど、それはたぶん、限界を手軽に見れるからなのだと思う。

高校時代は、部活中に時々限界が見えた。試合で圧倒的に強い奴と当たったときとか、練習で吐いて倒れたときとか。

ところが、大人になると、圧倒的な限界、というのには、こちらが意図しなければなかなか出会わない。もちろん無い事はない。己の未熟さや不運を呪うことで、日々限界をなるべく見ないようにしている、認めないようにしている、というのが正しいのかもしれない。

部活で親しんでいたスポーツは、”これ以上は無理”というギリギリを、毎日の練習を積み重ねてほんの少しずつ乗り越えていくところに楽しみがあると思うけれど、でも、どこかでその圧倒的な限界を知る機会にぶち当たる。

例えば、100mを10秒以内に走れた人がいる一方、どんなに頑張っても10秒を切れない人もいるというのは、最後、本人の努力とは関係ないところにある。(それはまた、練習を積み重ねて「10秒を切れない」ところまで到達しない限り、知り得ないものでもある。)

そういうのを、圧倒的限界、とここでは勝手に言っている。

スポーツに限らずとも、皆生きているうちにどこかで「あ、これ以上は無理だ」という限界点を経験していると思うが、でも日常生活ではついそういうことを忘れて、自分の身体はどこまでも延長し、野球中継でバッターが三振すればテレビの前で下手クソと罵り、球団が連敗すれば俺に監督させろと歯ぎしりする。

ここで注意しておかないといけないのは、死ぬ気で頑張れば何とかなる、というのは限界ではない、ということで、3日間徹夜して何とかなりました、は大変でしたね…とは思うけど、限界ではない。何とかなったのだから。

限界とは死ぬ気で頑張ったとてどうにもならない、ということだ。

しかし、ある意味でそれは救いである。
不可能であること、あるいは不可逆であること、そのための喪失や失望は、同時に諦めと救いを運んでくる。もうこれ以上はない、その限界を迎える瞬間を恐れなくて済む、という救い。

そういう意味で、岬もまた救いとなる。

海に面した陸の涯は、即ち陸上生物としての限界。目の前には海が開け、誰にも留められない力で海面がうねっている。絶対に泳いで渡れない、という絶望感と、それゆえの爽快感。私のせいではなく、人としての限界をそこで感じることができる。海風にあおられて髪型は原型を留めず、目もなかなか開けられない。
沖でクジラが嗤っている気がする。

はるか沖から猛烈な力で押し寄せてくる波は、人間に合わせて作られた造波プールの波とは比べ物にならない、全く人間のためではない爆発的威力で陸へぶつかる。軽く当たっただけで木端微塵になりそうな波しぶきとゴツゴツの岩もまた、どうしようもない限界だ。

その現実が、私を穴の開いた風船のように徐々に等身大へと戻していく。
腫れぼったく熱を持って過剰に肥らんでいた肉体はしぼみ、余った皮膚は容赦のない海風に煽られて蒼い骨にまとわりつき、私はようやく手の届く範囲を思い出す。

時々そういう調律をしないと、少しずつ何かがズレていってしまうのだった。

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