見出し画像

渋谷ハロウィーンの可能性

渋谷ハロウィーンが好きだ。

「迷惑だ」「騒ぎすぎ」「意味が分からない」「近頃の若者は…」という声が上がれば上がるほど、この祭りの本質がむき出しになるようで、嬉しくなってくる。

画像2

第一に、無目的なところが好きだ。渋谷に集まったところで、イベントが開催されている訳でも、ステージがある訳でもない。ハロウィーンという本邦に於いては馴染みが薄いイベントが色々と複雑に変換され、結果的に誰にも意味が分からない状態が広がっている。しかし、みなワイワイ集まってくる。

第二に、主催者がいないところが好きだ。誰かに楽しみ方を強制されることなく、なんとなく勝手に人が集まってくる。ルールなんかどこにもない。なんとなく楽しそうだから、なんとなく盛り上がっているぽいから、あるいはなんとなく盛り上がっている人を見に、みな三々五々集まってくる。

第三に、警備が過剰なところが好きだ。誰かがデモ申請をしている訳でもない、目立った要人が来るわけでもない。それなのに、誰からの命令か知らないが、異常な数の警察官が渋谷中に投入される。警察官の中でだってハロウィーンに個人で来たかった人もいるだろうし、下らねえと思っている人もいるであろうが、それでも誰かの命令で、この集まりにみな強制参加となっている。

とかく、誰にも掴みどころがない、というのが渋谷ハロウィーンなのだ。

画像4

ハロウィーンの渋谷では、することがない。

遊園地なら、とりあえず行列に並んでいれば何かしらのアトラクションに辿り着くし、映画館なら2時間は椅子が保証される。ところが、渋谷のハロウィーンでは、何もない。

することがないのは、皆同じだ。皆することがないと、ひたすら歩く。これは前にも書いたが、多くの人は何もすることがないと、何故かひたすら歩くのだ。何万もの仮装した人が目的もなくうろうろしている様子は圧巻で、私もその一部で、人をかき分けてうろうろと奥渋谷の方に歩いて行ったりする。もちろん奥渋谷に行っても、特に何もない。

画像6

何もないので、ちょっとしたことが異常に盛り上がる。軽トラがひっくり返った事件があったが、あれも、恐らくきっかけは些細なものなのだろうし、私がいる時も、覆面パトカーがサイレンを鳴らしただけで、異常に盛り上がった。私もなぜか興奮した。

「何もない」というのは、「何かがある」以前の状態であるとも言える。
何かが起きるんじゃないか、という期待がきっと、多くの人の胸の中にある。

普段大人しいフリをしている人たちが、ちょっとしたことで軽トラをひっくり返すようなエネルギーを秘めているのが顕在化されるのが、この渋谷ハロウィーンだ。軽トラをひっくり返した人たちだって、日常的に軽トラを片端からゴロゴロ転がしているとは思えない。きっとこの祝祭空間が何か作用を果たしたのであろう。

画像3

世論が「渋谷で騒ぐバカの集まり」と一方的に断じれば断じるほど、渋谷ハロウィーンは魅力を帯びてくる。最初から言っているように、渋谷ハロウィーンには別に目的となるランドマークがあるわけではない。政治主張を目的に集まるデモではないし、アトラクションやショーなどの娯楽や、あるいはデートや友人たちとの会話を目的に行く遊園地でもない。特に目的がないのに、純粋に人が集まっているという、支配側からすれば手が付けられない状態なのだ。

「わー!」っと誰かが意図を持って扇動したら、そのままノリで何かをぶっ壊す事件が起きても全然不思議ではない。そういう危ういゾクゾクする雰囲気が渋谷ハロウィーンにはある。
そう考えると、何が起きるか分からないこの祭りに、警察官が異常に動員されているのも頷ける気がする。

画像7

「群衆の楽しさ」を、しばらく歩いていると感じられるようになる。
大勢のうちの一人であること。
それは、個性尊重を重んじる民主主義教育の中では良いものとはされないが、実際かなり気持ちの良いもので、「絶対的に悪い(とされた)もの」をみんなで一斉に糾弾している気持ちに近い。渋谷ハロウィーンは誰かを迫害していないとは思うが、みんなで封鎖された公道を歩く楽しさというのは、そういうのにきっとかなり近い。

これは、安全なアナーキズムとでも言うべきだろうか。
例えば、柵の内側で民主主義のルールに則って優しく声をあげてデモをやっている、それは尊いことなのだけど、何か一抹のスッキリしない気持ちが心に残る。かと言って国会に木刀を持って破滅的に殴り込めばいいかと言うと、別にそういうことでもないんだなあと思ったりして、しかし、持続可能な破滅的行動ってのも偽善くさいし、とは思いつつも、結局私はカメラを構えて、柵の内側の安全圏に立っている。

画像4

しかし、そういう安全圏で何かやっていると思っていると、そのうち、実は安全圏など無いことが徐々に顕わになってくる。大震災でグラグラと激しく揺れている最中に誰も助けてくれないように、安全とは、ある種の共同幻想に近いものだ。そのほつれがこの渋谷ハロウィーンでは見えるように思える。
渋谷ハロウィーンではきっと犯罪が起きているだろうし、来なければ良かったと思っている人も大勢いることであろう。

画像5

それでも今の時代の日本に、こんなに無目的で、こんなに自由な空間が現れることに、私は可能性を感じる。

祭りに主催者大人が現れて「渋谷区主催ハロウィーン祭り」としてルールが制定され安全になってしまう前の、危なくて尊い何かが確かにここにはあって、恐らくそれが、たまらない魅力をまき散らしているのだ。

(写真は筆者撮影・撮影年は2018年と2019年)