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今日はやっぱりアレでしょ。阪神タイガース優勝とボクの人生

18年ぶりの快挙に大阪が賑やかだ。阪神タイガースはこの3連戦でも巨人を3タテ。なんと11連勝の達成と同時に2023年のセ・リーグを制覇した。

とにかくタイガースの優勝は、インターバルが長い。「ボクの人生」とタイトルに並べたが、自分が生まれた1964年は、東海道新幹線開通、東京オリンピックと並んで阪神タイガース優勝の年である。

記憶をたどれば、自分がプロ野球に興味を持ち始めたのは小学校4年生の時。父はちょうどこの頃、会社勤めに終止符を打ち、事業を起こした。ボクはといえば、阪神タイガースの試合にかぶりつくようになり、5年生時には、毎日新聞のスポーツ欄を切り抜きスクラップにしていた。吉田義男と長嶋茂雄が同時に監督に就任した年。田淵幸一は打ちまくりホームラン王を獲得した。そして社長の息子という立場を意識するようになるのはこの頃だったと思う。

時は流れて、大学3年生の1985年。優勝が21年ぶりというのは、自分の年齢とかぶっていてわかりやすい。伝説となっている甲子園バックスクリーン3連発(バース、掛布、岡田)の年である。この年は清原が入団する前の西武ライオンズを倒して、日本一に輝く。広岡の管理野球を粉砕したのは快感だったが、当の日本シリーズは、その頃ぞっこんだった彼女との時間に少々かき消されていた。淡い思いと熱い日本一とがにじみあった記憶。

これまで、タイガースではただ一人の日本一監督。吉田義男氏は、その後まもなく最下位に沈んで、天国と地獄を経験した。当時を知る人たちの集まりは天地会と命名されたらしい。

この後の暗黒時代は長く、ほとんどいい記憶がない。海外に駐在していたこともあるが、阪神の動向に一喜一憂しない年が流れた。今のようにネットの中継や情報があれば違ったのだろうが、2日遅れくらいの日経新聞のスポーツ欄の情報で、海の向こうでは盛り上がりようもなかった。

結婚したのは1995年。日本国内に住むようになったが、タイガースはどうしていたのか。ここもしばらく、記憶が欠落している時代である。

気付け薬のように飛び込んできたのが、1999年の野村監督への就任要請だった。ヤクルトを常勝球団へと育て上げ、ID野球で一世風靡した野村克也氏だった。大いに期待されたが結局タイガースでは3年連続の最下位に沈み、失意の退陣となった。新庄の素質を見出し覚醒させたのは、野球界にとっても偉大なるレガシーだろう。

2002年のシーズン。2代続いて同一リーグから現役監督を招くという掟破りの人事が星野監督の就任だった。決意を固めた星野仙一氏は、すでに中日の2軍監督への就任を受諾していた島野育夫氏を、もぎ取るかのようにヘッドコーチに就任させた。

星野氏は、就任するや中途半端にくすぶっているいわゆる1軍半の選手たちを中心に、20数名の大リストラを敢行した。冷徹な決断と合わせ、彼らは別の人生に踏み出すべきとの温情にも満ちたアクションは印象的だった。

そして2003年。18年ぶりのセ・リーグ制覇を成し遂げる。2002年片岡、2003年金本と、大物を2年連続でFA移籍させ、戦力を整えての優勝だった。田淵をコーチで呼び戻したり、岡田を育てたりと、星野仙一の男気は熱く、そして深い。

健康上の理由で、セ・リーグ制覇後、日本シリーズ前に退任を表明した星野監督の後継は岡田彰布だった。彼もまた初年度4位のあと就任2年目の2005年。赤星、金本、今岡らの強力打線を擁して鮮やかに優勝した。

奇しくもボクにとって、この2005年は第2創業の年。岡田監督の優勝への道は、自分の再出発とオーバーラップしていた。無我夢中で走り続けたその年の9月29日、自分は昼食後、食堂のトイレで前後不覚となって倒れた。自宅に送ってもらい、畳に横たわって動けない状態のまま、胴上げされる岡田監督を片方の目で見上げていたのを記憶している。

戦力も戦略もトップレベルであった岡田阪神であるが、その後、セ・リーグ優勝には縁がなかった。特に最大13ゲーム差をひっくり返されて2位に終わった2008年。勝負師岡田彰布の緊張の糸は切れた。敗軍の責任をとっての退陣。

その後、真弓、和田、金本、矢野がペナントレースに挑む。いずれの時代も一時は優勝争いに加わりながら決め手を欠き、最後には失速。満を侍しての岡田監督再登板となった。

9月14日。18年ぶりにセ・リーグ制覇を成し遂げた岡田監督。奇しくも18年前は、自分にとって第2創業の年であったことは先にも触れた。そして父の創業から数えたら50年の節目。

我が社の事業とタイガースは何の接点もないが、ボク自身を介して織りなす縦横の糸が見えてきた。今日の祝勝の感情と合わせ、我が人生を振り返る時間軸をもらったこの機会に感謝したい。


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