見出し画像

 『令和三都物語(大阪編)』

  私は道夫さんからの手紙を受け取った。

 二年待った手紙やった。
 そこには、こう書いてあった。
「優子、ごめん。二年も待たしてしまった。
 約束通り、あの新地の寿司屋で逢おう。 
 6月11日の6時にあの寿司屋で待ってる。」

 私は堺市にある私の実家に一人で住んでいる。両親は二人とも亡くなっている。
 去年離婚した前の夫の尼崎の家には、大学生3年の娘・桜が前の夫と住んでいる。

 その日、仕事がなかった私は、シャワーを浴び、服をどうしようかと散々悩み、この間買ったばかりの水色のワンピースを着て、大阪駅にほど近い北新地へと向かった。
 北新地は、東京でいえば銀座のイメージが近いだろうか。デパートとかは無いが、高級クラブや割烹の店など、社用で接待に使ったり、お医者さんが飲みに通ったり、若者がポケットマネーで遊べるミナミとは違う飲み屋街だ。新地とも呼ばれている。
 私も縁がなかった街だが、道夫さんと深い仲になったきっかけも、北新地のその寿司屋だった。
 そこで、再び道夫さんと逢える。二人が、二人で交わした約束を果たすために。私の気持は、この二年間の思いを、この二年間の抱えていた気持を、一刻でも早く解き放ちたくて、彼に早く逢いたくて、彼に早く抱かれたくて、私は新地に向かった。

 大阪駅から地下街を通って新地へと向かう。
 二年前、半年程働いていた保険会社に通う道でもあった。道夫さんとはその会社で知り合った。彼は東京から大阪支社に単身赴任で来ていた。
 爽やかな笑顔に、そして優しさに私は惹かれた。何を考えているのか分かりずらかった前の夫とは違って、考えが何かと違って私を理解してくれない夫とは違って、優しさが言葉や表情に現れていて、私を理解して包んでくれる。
 私は夫がありながら、彼には妻がありながら、私は段々と道夫さんに惹かれていった。
 そして、ある出来事がきっかけで、二人は深い関係になった・・・

「へい、いらっしゃい!」
 懐かしい声が私を迎えてくれた。
 この寿司屋は、新地の大通りから路地を入ったところにある、カウンターだけの小さな寿司屋。今は大将一人でやっているとのことだった。
「お久しぶりですねぇ。佐藤さん、まだですよ。」
店に入ってカウンターの隅に座ろうとする私を、大将は手で優しく手招きして正面に座らせようとした。
「どうぞ、真ん中に。美女は、隅には座らせないのがうちの店の流儀やからね。」
「まぁ、大将いつもお上手やねぇ。こんなおばさんでも、そんなん言われたら舞い上がってしまうわ。でも御免なさい。私は道端に咲く花でええんで、端に座らせて貰うわ。」
「そうですか。でも、いつもお綺麗やと思ってましたし、今日は一段とお綺麗で、店に入って来た時、びっくりしましたわ。」
46歳になったバツイチの女を、そんな風に言って貰えて嬉しくなる。

 三十分程早く大阪のキタに着いた私は、地下街のカフェで時間でも潰そうかとも思ったが、もしかしたら早く道夫さんが着いているかもしれんと思って、そのまま寿司屋に向かった。
金曜日に夜五時半頃。新地の時間には少し早いとはいえ、人影は少ない。緊急事態宣言が延長されている大阪の繁華街、酒を提供出来ない中で、新地のクラブなどは営業出来ないのだろう。
「どうです、コロナで大変なんでしょう。」
私は出されたお茶を頂きながら大将に聞く。
「大変どころやありませんよ。開店休業の日も多いですねん。クラブとか軒並み閉まっとるでしょう。うちは食べ物商売やから、酒を出せんでも8時までは営業出来るっちゅうてもねぇ。新地の寿司屋なんて午後5時から夜の2時までが営業時間で、クラブのホステスの同伴出勤もおらん、会社の接待もない、ホステスさんが店が終わって客と食べにもこん。これじゃあ、商売上がったりですわ。」
「そうなんですねぇ。お休みはされないんです?」
「最近では、予約が入った時だけ開けてます。寿司屋の場合は、生もの扱うんでねぇ。仕入れたの魚が駄目になるのも馬鹿らしいてねぇ。今日は、金曜日やし、佐藤さんが予約入れてくれたんでね。開けとるんですわ。」
もう60歳は過ぎているだろうか。元気があって、それでいて落ち着いていて、話し上手・聞き上手で、余り回数は来てないけど、いつも来るときは道夫さんと一緒やったけど、来るまでは敷居が高かった新地の寿司屋。でも、この店は落ち着いていられる。

 会話が途切れ、大将は何かの仕込みを始めている。
 私は、初めてこの寿司屋を道夫さんと訪れた日の事を思い出していた。新地の寿司屋に一度行ってみたいと言った私の言葉を、道夫さんが聞いて、私を誘ってこの店に来た日のことを。あれは、2年半程前になるだろうか・・・

 私は、桜が高校を卒業して大学に進学した時、夫に言って働き出すことにした。私は、早く家から出たかった。子育てに一息ついた後、自宅で夫を待つだけの自分でいるのが嫌だった。
 決まったのは堂島の保険会社。事務職のパートだった。そこで道夫さんと知り合った。直接の上司ではなかったが、優しく仕事を教えてくれた。尊敬でき、いつしか、男性としても意識するようになった。
 そんなある日、お寿司の話になった。私が通勤の時に通る新地のお寿司屋さん。いつか、一度でいいからあんなお店で食べてみたいと、道夫さんに仕事の間のちょっとした時間に話した。
「いいよ。食べに行こうよ。俺、大阪で働き出して同僚から教えて貰って、時々行ってる新地の寿司屋があるんだ。隠れ家みたいな所。そこを優子さんに紹介したいな。」

 そして、私は道夫さんに案内されて新地の路地裏の寿司屋さんに行った。飾らなくて、温かくて、美味しくて。あぁ、これが本当のお寿司屋さんなんだと思った。
 その日の夜、ホテルに誘われ、私は道夫さんと深い仲になり、その関係は続いた・・・

「へい、いらっしゃい!」
 思い出に浸っていた時、大将の声で我に帰る。
 道夫さんかとおもったが、初老のおしゃれでダンディな男性が一人、のれんをくぐって、店に入ってきていた。
「ここも、やっとらんかとおもったけど、やっとるんやね。」
「やってますよ。今日あたり、野口さんいらっしゃるんやないかと思って、特別に開けときましたわ。」
「相変わらず、大将、うまいなぁ。でも、別嬪さんのお客さんがおるやないか。どうみても、べっぴんさんの方が特別やろ。」
「そんなことありまへんわ。どのお客様も特別やからね。」
 初老の男性は、私に軽く会釈して、私の座った反対側の入り口に近い方のカウンターに座る。
 私も、軽く会釈を返す。
 こういう、店と客、客と客、その繋がりがなんだが嬉しくなる。

 大将と男性が話を始めたので、私はまた回想に戻った。

 深い仲になった道夫さんと私。私は、もともと夫との仲は壊れていたのかもしれなかった。だから外に出たかった。娘の桜のことは気にかかった。でも、私にとって一番大事なのは道夫さんになった。彼も、東京にいる奥さんとうまくいっていなく、前から離婚を考えているとのことだった。道夫さんにお子さんはいてない。でも、直ぐに妻は離婚はしないだろうと道夫さんは言った。大阪に来る前にも離婚の話をしたことがある。だけど、妻は、離婚はする気がないと言われたと。
 道夫さんが大阪支社から東京本社に転勤で戻ることになり、最後の逢瀬をホテルで過ごした。その時言われたことを思い出す。
キタのホテルのベッドで肌を重ねて、その後の会話だった。
「二年待ってくれないか。離婚して、君と一緒になりたい。優子はどう?」
「うん、嬉しい。私も道夫さんと一緒になりたい。でも・・」
「でも? 子供さんのこと?」
「うん。道夫さんに言われる前から、夫との離婚は考えとったんよ。少し前に、桜に言ったことがあるんよ。「母さん、父さんと離婚するかもしれんって。」」
「そうしたら、桜さんどう言ったの?」
「ええよ。お母さんの好きにしなよ。前から、お母さん家にいたら苦しそうだなって思ってたんよ。私は、父さんが可愛そうだから家に残るから。母さんは自由に生きればええと思うよ。父さんのことは桜に任せときなよ。」
「そんなことを言われて、私は泣いてしもた。あぁ、私は良い妻、良い母ではなかったなって。ただ、「ごめんね、ごめんね。」そう言いながら、娘の前で泣いてしもた。情けなかったわ。」
「そうか。」
「娘の言う通りにしたら、夫を娘に押し付けるだけで、私だけ抜け出すような感じで、なんかひどいなと。」
「旦那さんと娘さんの仲はどうなの?」
「私と夫ほど悪くないかな。余りしゃべらんけど、娘もそんなに夫を嫌ってないし、夫は娘を猫可愛いがりやし。」
「そうか。俺は、離婚するよ。そして、君に手紙を出す。前、教えて貰った優子の実家の住所に出すよ。結婚できる状態になったら、「結婚しよう。」そう君に手紙を出す。もし、君がまだ人妻であったら、その時は仕方ない。もし、俺と結婚してくれるなら、あの新地の寿司屋で待ち合わせをしよう。手紙に日時を書くから、そこで逢おうよ。勿論、桜さんも一緒に来てくれるなら嬉しいけど、それはぜい沢なんだろうな。」
「うん。分かった。手紙、待っとる。」
私はベッドの中で、道夫さんに抱き付いた。道夫さんも私を固く抱き返してくれた。

 そんなことを想い出している時、また暖簾を開けて入ってくる男性があった。
「へい、いらっしゃい!」
「佐藤さん、お連れの別嬪さんが先程からお待ちかねですよ。」

 道夫さんは私を見つけて、懐かしい素敵な笑顔で私を見つめてくれた。私も道夫さんを見つめ返した。嬉しくて、嬉しくて、少し泣き出したい気持もあった。

 今日この日、二人の関係は新しい一歩を刻んだ。
 懐かしいこの新地の寿司屋で。

(大阪編 終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?