マゾッホの特異性

 ドゥルーズのマゾッホ論(「ザッヘル=マゾッホ紹介」堀千晶訳)は多くの論点があるんだけど、私なりに感銘を受けた箇所を整理してみると次のとおりである。
 サド世界とマゾ世界は各々閉じていて、二つの世界には何の共通性もない。各々異なった二つの世界に主体と客体が構成員として属している。
 それゆえマゾ世界の主体と客体をMと非Mとし、サド世界の主体と客体をSと非Sとすると、M≠非Sであり、また非M≠Sである。
 つまりマゾ世界のマゾヒストはサド世界の客体(犠牲者)ではないし、マゾ世界の女主人はサド世界の主体(サディスト)ではないということだ。
 私はマゾヒストではないので(多分)、女性に虐められて何が面白いのかさっぱり分からない。主人として非力な女性を選ぶのは欺瞞ではないか。被虐願望の本気度が足りないと思ってしまうんだな。
 だけどマゾ世界はそれだけで完結している。つまり真のマゾヒスト(妙な言い方だけど、谷崎潤一郎や沼正三など、マゾッホ的マゾヒスト)は、マゾ世界の住人の中から主人を選んでいるわけだ。ただしその主人はマゾヒズムのない人すなわち非Mになる。だから女性を主人として選ぶんだな。サド世界のサディストを主人としているわけじゃない。同様にサド世界の犠牲者は、サド世界においてサディズムを剥奪された客体なのだ。
 だからマゾヒストが女性を説得したり契約によって女主人になってもらうのは何ら欺瞞ではない。マゾヒストの望む女主人はサド世界のサディストではないのだから、説得や契約が必要になるのは当然だ。逆に生来の加虐嗜好があるサド的女性はマゾヒストから忌避されることになる。
 マゾッホの妻ワンダはその矛盾に驚いている。私も驚いてしまうが、サディストではない女性を説得によって主人になってもらうことにマゾヒストの喜びがあるという心理はロジックとして理解できる。それはサディストにとって犠牲者がマゾヒストであることを忌避する心理を対偶として反転した構図になっているからだ。
 私からみると妙な世界だと思うんだけど、マゾッホの特異性が論理的に解明されている。ドゥルーズは諸世界の特異性への感受性が鋭い人だと思う。
 要するにフロイトのようにサドもマゾも差異のない同一世界におけるSMとして一緒くたにしてしまうのは、本性の異なる二つの世界を混合しているので、ベルクソン流の言い方をすれば、混乱して巧く設定されていない問題提起ということになる。
 ドゥルーズは「ベルクソニズム」で示した思考方法をサドとマゾッホにも適用しているわけだ。ドゥルーズはしばしば「本性が異なる」という言い方をするのだが、それは問題を本性ごとに区分して探究しようとしているのである。

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