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公務員の定年退職後10年間趣味で読書してきました。 興味のある哲学の学位はなく、経済学…

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公務員の定年退職後10年間趣味で読書してきました。 興味のある哲学の学位はなく、経済学修士のみです。 私の書き物は査読なしですので、勝手な言い分と心得つつ可能な限り思考した結果を書いてみます。読む人を挑発する狙いであえて若者気分の乱筆としています。ご容赦ください。

最近の記事

ラカンのシニフィアンの謎

 ラカンと言えばシニフィアン連鎖ありきで解説されるんだけど、あのシニフィアンってなんかヘンという感じがしないだろうか? 私は違和感がある。なんか記号というより、モノのような感じを受けるんだな。シニフィアンの排除とかね、そもそも特定のシニフィアンを関係構造から排除するというのがよく分からない。ソシュールのシニフィアンとは別物のようだ。   ラカンのシニフィアンを問題視することは、フロイトを問題視することでもあるんだな。なぜならラカンのシニフィアンはフロイトの「表象」概念を継承し

    • 真の小説とは何か

       これはフーコーのサド論(「フーコー文学講義」柵瀬宏平訳)に書いてあったことだけど、サドの文学というのは他人である読者のために書かれたものではないというんだな。では何のためかというと真理を述べるためだと言う。その真理とは、美徳が不幸になり、悪徳が栄えるというような処世訓ではない。  サドを読めば明白だけど、ジュリエットが生き延びることができたのは悪徳のためではなく偶然である。悪徳が美徳よりも生存にとって有利であるようには描かれていない。悪徳を称揚するリベルタンの論証とドラマの

      • フーコーVSデリダ論争

         谷口博史訳の改訳版「エクリチュールと差異」によって、デリダの「狂気の歴史」評を読み返してみると、昔、初めて読んだ時と違って論旨の見通しがよくなったように感じられる。  改訳版を読むとデリダはフーコーを全否定しているのではないことが分かる。むしろフーコーの着想をさらに発展させているようだ。  両者の論争が噛み合わないのは、要するにデカルト哲学の特異性へのアプローチが異なっているからだ。  つまりデカルト哲学について、フーコーの場合はデカルト哲学の内容として特異性を捉えているの

        • 三島由紀夫の自死

           通常、自殺の理由といえば病気や貧困などの負の理由である。金持や社会的に成功した者が自殺するなど考えられない。だから三島由紀夫のように作家や戯曲家として成功し各界から絶賛されて、いわば栄耀栄華の頂点で自死したとなると、なぜ?という疑問が生じるのも無理はない。  だからいろんな評論家が祖母との関係とかマゾヒズムとかいろんなことを言うんだけど、どれも今一つ当たりという感じがしないんだな。あの上質のユーモアは祖母に由来していることが明らかだし、マゾヒズムは結果であって原因ではないだ

        ラカンのシニフィアンの謎

          家事労働とGDP

           人によっては耳ダコの話だろうが、商品形態というものは共同体と共同体の間に生じたもので、それが共同体の内部まで浸透して共同体を分解して成立したのが資本制社会である。特に賃労働として労働力が商品化されると、労働者の収入源は賃金だから、生活物資を商品として購入せざるをえなくなる。これにより社会における生産-消費の全過程が商品化されることになる。  だがこの商品化の攻勢終末点は存在するのであって、すべてが商品化するわけではない。  GDPの集計において「帰属家賃」という概念があるが

          家事労働とGDP

          哲学と神学の視線

           「視線」という言葉は能動か受動か曖昧なところがある。一般的には眼の向く方向ということで能動的とされている。だけど物理的には対象物から反射した光が網膜細胞を刺激しているのだから受動的とも言える。だから物理的光線として見た場合と認知的行動として見た場合とでは視線のベクトルが逆向きになるようだ。  視線から運動を捨象してみると、それは眼球の中心と対象物を結ぶ線ということになる。次にこの視線に沿って何が動くかを考えた場合、それは対象物からの光しかないんだな。それが感覚の受動性の根拠

          哲学と神学の視線

          帝国の陰謀

           マルクス経済学者で「帝国の陰謀」(蓮實重彦著)を論評したものを、私は寡聞にして知らないが、文芸評論など経済学と関係ないということだろうか。だが理論的探究にとって文学や経済学という区分は無用である。  「帝国の陰謀」はマルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」(以下「ルイ書」とする)への批判であり、マルクスと言えども自己の理論図式にとらわれて、理論の対象物以外のものを見失うことが鮮やかに示されている。言わば理論図式というサーチライトに照らされて、対象物以外が闇に閉ざさ

          帝国の陰謀

          トーニオ・クレーゲル

           これは分量としては「ブデンブローク家の人々」全十一部の一部程度に相当する短篇に近い中篇なんだけど、内的時間としては少年期から作家になるまでの時間だから相当長く感じられる。作者自身が自己の心性に最も近いと主張しているんだから、重要度においてマンの長篇小説群と肩を並べる作品であろう。  トーニオが愛したハンス・ハンゼンについてはアルミン・マルテンスという実在のモデルがいたらしいけれど、十九世紀の終わり頃、リューベックにいた無名の少年の面影が的確な筆致で描かれている。「ハンスがト

          トーニオ・クレーゲル

          「存在と時間」の論点(その7)

           論点9 道具存在の本来性と非本来性  「存在と時間」を読んでいて疑問に思うのは、世界が道具存在の指示連関によって構成されているとしたら結構なことではないか、それがなぜ世界は有用性ではなく不安として現出することになるのか、これである。  つまり現存在の情態が不安であるということが、いつのまにか道具の指示連関との関連抜きで唐突に導入されているように思えてしまうのだ。  これはハイデガーが現象学的方法に基づくと言いながら、どの段階で自然的態度を「還元」しているのか明記しないこと

          「存在と時間」の論点(その7)

          宗教とマゾヒズム

           北森嘉蔵著「神の痛みの神学」はたいへん説得力がある。カール・バルトは北森神学に対して否定的評価を下していたようだけど、バルトの「ローマ書講解」は神と人間との隔絶がやたら強調されていて、福音というより律法臭い。北森神学の方が福音としての本来性を感じる。  「神の痛み」とは神の怒りが愛であるから痛みになるというロジックだ。旧約における神の怒りと新約における神の愛が十字架の痛みとして矛盾なく整合している。  旧約のエレミヤ書の一節にある「神の痛み」を拡大解釈したものだけど、該当箇

          宗教とマゾヒズム

          マゾッホの特異性

           ドゥルーズのマゾッホ論(「ザッヘル=マゾッホ紹介」堀千晶訳)は多くの論点があるんだけど、私なりに感銘を受けた箇所を整理してみると次のとおりである。  サド世界とマゾ世界は各々閉じていて、二つの世界には何の共通性もない。各々異なった二つの世界に主体と客体が構成員として属している。  それゆえマゾ世界の主体と客体をMと非Mとし、サド世界の主体と客体をSと非Sとすると、M≠非Sであり、また非M≠Sである。  つまりマゾ世界のマゾヒストはサド世界の客体(犠牲者)ではないし、マゾ世界

          マゾッホの特異性

          ヘーゲルの「法の哲学」序言

           「法の哲学」序言があまりにもオモシロすぎるんで、ヘーゲルになり代わって、その言わんとするところをざっくばらんに代言してみた。  国家とか法律について、アンタらモノを知らんでよう批判できるな。自然科学を見てみ、あくまで事実に基づいた法則や理論を探求しよるじゃろ。事実と無関係な理論を立ててみい、おまえはアホかと言われるだけや。  法の哲学も同じなんで。あくまで現実の国家と実定法が考察の対象なんじゃ。ただ国家や法律は自然と違うて人間が作ったもんや。じゃからワシも同じ人間ぞ、ワシ

          ヘーゲルの「法の哲学」序言

          スピノザ革命

           スピノザを革命の書として捉える前に、そもそも革命とは何かを解明しておきたい。そうしないと議論が混乱するだけだ。  ドゥルーズによると68年の「五月革命」は政治革命としては失敗したが、歴史上初めて革命への生成変化としての意義があったという。問題は政治体制の変革ではなく、革命になることだ。  私見では新左翼運動は最終的にノンセクト・ラジカルへ帰着したわけだが、それは政治的であるかぎり消滅せざるをえなかった。しかし哲学的帰結としては生き残り、現在の文化のあり方を大きく規定している

          スピノザ革命

          サドの悪徳論

           サドの「悪徳の栄え」によると、財産権の起源は力の不平等であり、強者による弱者からの奪取だという。ゆえに盗みとは弱者が強者によって奪われたものを策略によって取り返すことに過ぎない。所有権そのものが盗みなんだから、法律は盗みを攻撃するという理由で盗みを罰している、と法律を批判している。  En remontant à l’origine du droit de propriété, on arrive nécessairement à l’usurpation. Cepend

          サドの悪徳論

          ユングの「心理学的類型」

           ユングによると人間は内向的と外向的の二つタイプがあり、さらに下位区分として四つの心的機能(思考、感情、直観、感覚)がある。このうち直観と感覚についてはユングも軽く触れるだけで、主に思考と感情の機能について論じている。このため話を簡単にするため、内向的思考、内向的感情、外向的思考、外向的感情の四つの心理学的類型にタイプを限定してみよう。     このように四つに分類される根拠について、ユングは長年の臨床経験に基づいて帰納したものだと述べているんだけど、理論的根拠も示されている

          ユングの「心理学的類型」

          「広義の経済学」構想

           マルクス経済学では資本主義的富の基本形態を「商品」とし、さらに「商品」の二つの要因を「価値」と「使用価値」としている。  で、例えばA商品が市場で決定される「均衡価格」は、A商品の「価値」言い換えれば投下労働量で決まるのであって、市場価格と価値との乖離は均衡価格である「価値」に収束する調整過程に過ぎないとされている。(ここでは単純化のために、価値の生産価格への転化は度外視しているが、後で触れる)  言い換えれば何が商品価格を決めるのかと言えば、それは需要と供給ではなく、価値

          「広義の経済学」構想