ヘーゲルの「法の哲学」序言

 「法の哲学」序言があまりにもオモシロすぎるんで、ヘーゲルになり代わって、その言わんとするところをざっくばらんに代言してみた。

 国家とか法律について、アンタらモノを知らんでよう批判できるな。自然科学を見てみ、あくまで事実に基づいた法則や理論を探求しよるじゃろ。事実と無関係な理論を立ててみい、おまえはアホかと言われるだけや。
 法の哲学も同じなんで。あくまで現実の国家と実定法が考察の対象なんじゃ。ただ国家や法律は自然と違うて人間が作ったもんや。じゃからワシも同じ人間ぞ、ワシも既存の国家や法律について違う意見をもっちょる、とそう言いたいんじゃろな。共同幻想とかな、世界共和国とかな、現実の国家とは何の関係もありゃあせん妄想で批判した気になっちょるんや。
 その気持は分からんでもないんじゃが、学問ちゅうもんは普遍妥当なものでないとアカンのや。まずはアンタらの小さい頭で考えたことと、長年積み上げられて人々から尊敬され遵守されとる実定法の論理と、どっちが普遍妥当なんかよう考えてみい。
 せっかく現実の国家と実定法という人類の英知の結集があるにも関わらず、それとは別のところで国家を論ずるなら、そりゃアンタらの空っぽな頭で考えた個人の特殊な思考を現実の普遍妥当な思考の蓄積よりも優先させとるちゅうことや。
 なんでアンタらがそれほど大胆になれるかちゅうたら、思考とは別の感情に訴えるからじゃろな。民族とかな、連帯とかな、絆とかな、いかにも若者が感激しそうな言葉をクソみたいな論文に混ぜてやりゃ、同じぐらい頭ワルそうな支持者が増えるちゅうもんじゃろ。そがあな朝ドラみてえな感情ダダ漏れの三百代言が哲学を自称しとる。まあアンタらが連帯の喜びを求めるのは勝手じゃが、そんな喜びには何の普遍性もありゃあせん。
 学問はそがあなもんじゃねえぞ。理性や、理性。感情にとらわれるとエゴイストになるだけや。昔の話じゃが、ワシの前に哲学教授の招請を蹴ったスピノザちゅう偏屈な男は、哲学の目的が不断最高の喜びをもたらすものを探究することだと述べたんじゃが、喜びを求めるヤツはみんなエゴイストじゃ。ロクなもんじゃねえ。
 何が喜びなんかは人それぞれじゃから、みんな己の特殊な喜びを求めとるだけなんよ。学問ちゅうのは、そがあな個人の問題じゃねえ。普遍的真理や。それも特殊を含んだ具体的普遍じゃ。特殊な個人は普遍の中に消滅しとるんじゃ。言葉を使う理性的存在であることは、もう個人ではないということなんで。そこんとこがよう分からんと、ワシの言うことはさっぱりイミフじゃろな。論破でイキがっちょるのはまだ個人にとらわれとるんよ。論破した相手とどっこいどっこいや。精神はどこにもねえ。死ぬまで思考しつくして己を見失うことが精神の深みであり尊厳ちゅうもんじゃ。
 己を捨てて、もう少し謙虚になることやな。世界共和国とかマルチチュードとか、夢みたいな妄想を捨てて、現実の国家について考えることや。「現にあるところのものを概念によって把握すること、これが哲学の課題である」ちゅうことや。
 アンタらの時代じゃと、ワシは体制擁護のイデオローグ扱いじゃが、冗談じゃねえ。ワシはただ現実の国家について論じただけじゃ。それで体制擁護じゃちゅうのは、ヒトラーについて戯曲を書いた三島はナチスじゃ言うんと同じ理屈じゃねえか。
 第一こうみえてもワシ、反体制派の学生を応援して、夜中に川下りして牢屋の外で話もしちょるんよ。じゃから政府にも目えつけられて警察の記録にもワシの名前が載っちょるんじゃ。ただの講壇哲学者とはワケが違う。頭はクールじゃが、心は熱いんで。ワシの後任がシェリングちゅうのも、政府がワシをツブしにかかっとるんよ。
 学問は学問で勝負せえ。「学問的な取り扱い以外の類いの反論」なんかどうでもエエんじゃ。アホが。

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