半分YESで半分NOなハンティング

これは日記です。

今日は朝から京都へ出かけて、いつものカフェへ向かった。
2連休だったうちの初日、つまり昨日は、半日が仕事で潰れたから休日として過ごすことがほとんど出来なかった。
そのことを取り返すために、今日一日は何か実りのあることをしようと思った。
僕はよく、休日になると何か休日らしい過ごし方をしないといけないのだと、ある種の強迫観念のようなものに襲われる。
何もせずに過ごしてしまうと、どこか損をしたような気持ちになって、「もったいないな」と感じてしまう。
損得感情が働くのだ。
だから今日は、とにかくどこかへ出かけなくてはならなかった。
それで、いつものカフェへ出かけた。

お気に入りのカフェだ。
そこの店主さんや、訪れる良いお客さんから、何かしらポジティブなものを持って帰れることがある気がして、僕はいつもそのカフェへと足を運ぶ。
ただ、実際はそれほど何か大きな手柄にありつける事は少なく、ある程度人気があるカフェである為、じきに混雑してきて、店を出ざるを得なくなることが多い。
今日もそんなような感じだった。
僕がカフェラテを半分ぐらい飲んだ時ぐらいに(ここのカフェラテが今まで飲んだ中で一番美味しいと僕は思っている。)若い4人組のお客さんが入ってきて、静かだった店内が一気に騒がしくなった。
それには店主さん自身もあまり歓迎ムードではないなという感じの空気が店内に流れたが、断るわけにもいかない、断るほどでももちろんないのだろう。
4人のグループは、最初は2人、その後一人、最後にもう一人と、少しずつ、15分ぐらいかけてグループを揃えていった。
席は僕の真後ろで、会話の声はどんどん大きくなり、僕はやはり、店を出ざるを得なくなった。

その若者たち4人には悪気はない。
それほどマナーが悪いような人たちではなかったし、僕自身、中の良い友人が4人集まってカフェの席に着いたとしたら、ある程度高揚して会話を弾ませるかもしれない。
ただし、その場合は僕が今日行ったカフェを行き先には選ばない。
それだけのことだ。
そして彼らがここを選ぶことは、禁止もされていない。

僕は、勝手に店への(その店舗だけでなく、あらゆる「良い」お店への)リスペクトを抱き、常に良きゲストでありたいと考えて、そして振る舞いたいと思っている。
これは何も堅苦しいことではなく、それがお互い気持ちの良いコミュニケーションになると思っているし、結果、より心地よい時間を過ごせるからだ。
僕は店を出る必要はなかったし、出て欲しいと誰かに頼まれていたわけでもない。
混雑して席数が足りなくなってきたのなら、席を立つべき場合もあるが、今日の場合はまだ席数には余裕があった。

それでも、僕は店を出なければならなかった。
それは、僕が求めている「時間」は、これ以上は流れないだろうと判断したからだ。4人組が帰るまでずっと待っていれば状況は変わっただろうが、その後にはまた別の時間が流れる。
僕の時間は、4人組のグループが揃いきった時点で終了を告げたのだ。

さて、収穫はあったか?
答えは、半分イエスで半分ノーだ。
カフェラテが注がれていたカップが素敵で、ソーサーの裏を見て調べたら、それがフランスのカンペールという所の陶器だということが分かったこと。
強いていうなら、カンペールというものの存在を知れたこと、それが収穫だった。

店を後にして、他にも何か収穫を探して街を歩く。
いつも行く本屋に立ち寄るも、買うには至らない。
行こうと思っていた店は定休日でしまっている。

そして最後に行った雑貨店で、何か収穫はないかと店内を見ていると、何やらお客さんの女性と男性スタッフが会話をしている。
常連の方なのか、話は弾み、お客さんはもちろん、店員さんの声のボリューも徐々に上がっていき、僕はまた店を出るざるを得ないのかという空気になってきた。

今回の場合は、店員さんの声の方が目立って聞こえていた。
お客さんとのコミュニケーションを大切にしているのは立派なことだが、時間にして20分以上は話続けていたから、その間もう一人のスタッフさんが全ての接客を対応せねばならず、僕からしてもそれほど心地よいものではもちろんなかった。
お店は素晴らしいのに何かもったいないなという感じがした。

収穫はあったか?
半分はイエスで半分はノーだ。

商品として売られていたアメリカ文学のいくつかは欲しいものがあって、その中でカート・ヴォネガットという人の本が一番欲しくなった。でも買うには至れなかった。
カート・ヴォネガットについて気になることができたのが、収穫だった。

そして僕のハントは終了した。
いつもは息子のお迎えの時間ギリギリまで滞在するが、今日は少し早めに切り上げることになった。
そんなことは、これまでで初めてのことだった。

今日訪れたお店は、どこも気に入っている場所で、毎回収穫があろうがあるまいが、満足して帰ることができていた。
それなのに今日は、何か不完全燃焼な結果に終わったと実感している。

いつからか僕は、出かけることで、お店を訪れることで、何か収穫を得て帰って来なければならないという歪んだ義務感を勝手に構築してしまっていたのだと、今日気がついた。
お金を払って電車に乗って、お金を払ってカフェラテを飲んで、ある程度の距離をこの蒸し暑い中歩いて、休日の自由な時間を全て使って、何か手柄を得て帰らなければならないと言う強迫観念。
結果として、4人組の若者や盛り上がる女性客と店員さんによって影響を受け、本来収穫を求めるのであれば十分すぎるぐらいの獲物、「カンペールの陶器」と「カート・ヴォネガット」との出会いを、素直に「それで満足だ」と思えなくなってしまっていたのだ。

いつからこんなケチな遊び方をするようになってしまったのだろう。
自分から獲物を獲りに行くこともせず、コミュニケーションも働きかけることなく、向こうからやってくる何かに期待し、外部の要因に大きく左右されて収穫云々に囚われている無様な、貧乏性な旅人。
それが今日の、いや、今の僕だ。

待っていても、何も向こうからはやってこないのだと言うことが今日の一番の収穫だ。
もっと自分の感性に素直になって、持てる時間の中で主導権を握りたかった。
宇宙の先手に対するリアクション、それしか僕には無い。
次行ったら、カンペールの陶器について何か聞いてみよう。
カート・ヴォネガットの本を一冊買ってみよう。
仕掛けることが大切だ。と言うよりも、僕がそれをリスクと考えすぎており、あまりにも主体的に人生を過ごしていないのだということだと思う。
そして願わくばこんなこと考えなくても良いぐらいに楽観的に、ただ静かに心地よく休日を過ごしたいと思う。
このあまりにも下手くそな人生の歩み方は、まだ道半ばで改善の余地アリと信じている。

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