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第五部  終    章


「泰兄 ありがとう」

 谷垣泰三 兄様
寒さも遠のき、少し暖い頃と思います。
如何お過しでしょうか
泰兄いっぱい、いっぱいして下さいましたが、私は体を動かすのが苦しくなってしまいました
泰兄に少しでもお礼を申し上げることなく悲しく思っています。
泰兄どうかお元気で
ありがとうございました。
2017・2・5
谷垣雄三
×     ×
「泰兄」とは京都府福知山市に住む谷垣君とは11歳年上の兄、谷垣泰三さんのこと。谷垣君は男3人、女2人の5人きょうだい。うち、すぐ上の次兄はすでに亡くなっている。手紙は長男の兄、泰三さんにあてたもの。日付は亡くなる、ほぼ1か月前である。
 谷垣君の書く文字には草書体や、くずし文字はない。やや右に傾きながらも、1文字1文字を楷書でつづる。謄写版時代、ガリ版の上の原紙に鉄筆でゴシック体の文字を刻んでいた。
 まるでそのような文字をほうふつさせて読みやすい。やさしくまっすぐな性格がそのままだ。
 しかし、この手紙の文字はいつもの筆勢はなく、弱々しい。今にも消えそうなともし火にもみえる。振り絞るような兄へのお礼のことばは、火より熱い叫びに聞こえてくる。
泰三さんはすぐに返事を出した。「かわいそうな雄三よ、どうか一日も早く快方に向かってくれ」と。
ところが、3月8日午前1時55分頃、同じアフリカで、ニジェールの南にあるコートジボアールの大使館から、電話があった「ニジェールの弟の谷垣君が、亡くなった」という知らせだった。
亡くなったのは3月6日(日本時間7日)。これが谷垣君からの最後の手紙となった。

谷垣君はテッサワに妻、静子さんと並んで埋葬された。遺骨はない。「ほんとうにかわいそうで、かわいそうでならない」。泰三さんこの手紙を位牌代わりに仏壇に供え、この言葉を繰り返し、手を合わせる日々を送っている。
谷垣君は父親を34年前、母親を29年前に失っている。だから泰三さんを親のように慕っていた。ニジェールから一時帰国すると、必ず立ち寄った。奥の部屋の天井下の横木に、額に入った読売国際協力賞や医療功労賞、ヒューマン大賞などの表彰状が並んで飾られている。
さらに谷垣君からの手紙、信州大時代の写真、谷垣君に関する新聞記事、ニジェール関連の冊子などが、ダンボール箱にきちんと整理し保管し、谷垣君の無事を祈っていた。
信州大医学部の上半身の写真が張られた受験票を見たとき、弟への兄の愛情が胸に伝わってきた。
「ありし日を『慈悲の心』で思い出すことが亡き者と遺族への一番と確信するようになった」と泰三さんは、機関誌に書いている。
泰三さんの孫は自治医科大で学んでいる。孫が2017年8月、福知山市の隣の京丹波の病院に実習で訪れたことを、いただいた手紙で知った。当時4回生。
谷垣君は「秋山郷のような所の医師になりたい」と、友人に漏らしたことがあったという。秋山郷は長野県と新潟県にまたがる豪雪地帯で秘境と呼ばれている。
谷垣君には〈慈愛に満ちた医療〉のDNAがあった。お孫さんはそのDNAを引き継いでいるだろうか。どんな医師になるのか、おじいちゃんの一番の楽しみに違いない。

静子さんと並び埋葬

その日は、サハラ砂漠の町、テッサワには、めずらしく朝からさわやかな風が吹いていた。谷垣君の葬儀・告別式が営まれたのは、亡くなって3日後の3月10日(現地時間)だった。
谷垣君のニジェールの活動を38年間、支えてきた国際協力機構(JICA)ニジェール支所がその様子を撮影し、約25分に編集したDVDが泰三さんの手元にある。
葬儀が始まる午前9時半には200人を超す人たちが、葬儀・告別式の行われた谷垣邸を取り囲んでいた。「ドクトール・タニ」と慕うテッサワの人たちだ。そればかりか、命を救ってもらったマリやアルジェリアなど隣国からの人もいただろう。多民族国家。西洋諸国が引いた国境線を気にすることなく、各部族が往来している。
谷垣邸の庭には、18年前に亡くなった妻の静子さんが眠っている。自分の遺体は静子さんと並んで埋葬してほしいというのが本人の変わらぬ遺志だった。

葬儀、告別式のなかに3人の日本人の喪服姿があった。ニジェールを兼轄する駐コートジボワール日本大使館の川村裕大使、同書記官、国際協力機構(JICA)ニジェール支所の山形茂生支所長。

山形支所長は、「24年前の出会い」で葬儀のようすを伝えている。以下はその要旨。
2016年、ニジェール支所長としてニアメに赴任したものの、安全上、ニアメから出られなかった。谷垣先生もテッサワを離れることはできなかった。
訃報は以前、テッサワで活動していた協力隊員OBが近隣の国から、「友人からの情報」として、支所に電話で届いた。コートジボワールの日本大使館に連絡したら、テッサワのパイロットセンターから少し前に連絡があったという。
2週間前に谷垣先生が肺を患っていることを耳にしていた。「なにか支援できることはないか」と思っていた矢先の訃報だった。
川村大使はたまたまニジェールに出張していた。武装警察官が乗った警備車両2台に前後をはさまれ、一緒にテッサワに向かった。
到着すると、センター、市役所、県庁、警察の人たちが準備を進め、穴を掘り、われわれ日本人の到着を待ってくれていた。

大統領名代のマラディ州知事、谷垣君が育てた医師らの姿があった。
葬儀はイスラム教(回教)の儀式にのっとって営まれた。白い布にくるまれた遺体は、4人が四隅を持つ担架に載せられ、運ばれてきた。
山形支所長の胸には谷垣君の遺影。
遺体は、静子さんの墓の右横に寄り添うように、腰の深さまで掘られた人の身長ほどの長方形の穴に静かに降ろされた。穴の上に棒クイが横に隙間なく並べられ、その上にむしろのようなカバーが載せられ、さらに葉のついた木の枝がかぶせられる。その上を水で練った土で覆う。
こうしないと動物が墓を掘り起こしてしまうという。
その間、JICA職員が編集で、音入れした高齢の女性の寂しげな歌が流れた。語尾に「マハンマダ」が何度も繰り返された。預言者マホメットの意で、テレビニュースなどで偉人の葬儀に必ず流れる曲だそうだ。
政府要人に続いて川村大使、山形支所長がともにフランス語で弔辞を読み上げた。谷垣君の育てた医師、職員らも続いた。
谷垣君がいなくなりセンターは閉ざされたと聞いたが、弟子によって再開が決まったという情報も。
JICAのホームページ「ニジェール支所便り4月号」を開いたら、「静子夫人に18年ぶりに再会されて、仲良く並んで眠っていらっしゃいます」との記事。それに、こんな短歌が添えられていた。

   静けくも風ささやきて
   汝(な)が妹(いも)が眠る
   砂地に師も還りゆく

谷垣さんと人々1

     谷垣医師とテッサワの人々





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