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メディアとデザイン─伝え方を発明する(3)「ことばで伝える」

ほかのnoteも参照して、見出しで内容がわかるようにした。このスタイルで連載していけばいいのだろうと思う(もっとほかの方法があれば教えてください)。今回から雑誌掲載時の改行をウェブ用に更新した。


ことばで伝える

水村美苗著『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』(筑摩書房)が話題になっている。〈普遍語/現地語〉という二重の構造から、〈書きことば(読まれるべきことば)〉について論じている本だ。そのタイトルのとおり、日本語の危機を訴えている。
ここでは内容に触れないが、副題にもなっている「英語は普遍語であり、インターネットによって英語の世紀に入った」という前提は気にかかる。その状況は(少なくともネットワーク社会では)すでに過去のものになりつつあるからだ。

現在、インターネット上に遍在する辞書を活用する翻訳システム「言語グリッド」の開発によって、ことばの壁が取り払われようとしている。テキストでやりとりしているかぎり、どの国の人と話していても母国語でコミュニケーションできるようになるだろう。

たとえば日本語でメッセージを発信すると、言語サービスの管理・連携を行なうサーバー(コアノード)が、インターネット上の品詞解析システムや対訳辞書・用例辞書などの言語資源(サービスノード)を呼び出して、そのメッセージを読む人の言語に翻訳する。その翻訳が正しいかどうかは、翻訳した文章を再度日本語に翻訳する「折り返し翻訳機能」で確認できる。それが自分の入力した文章と大差なければ、ほぼ正しく伝わっているということになる。

言語グリッドは、非営利利用に限定して実験運用中で、医療受付支援や小学生の国際交流などで成果を挙げている。現在、京都大学が運営しているが、将来は企業にゆだね、安価で良質のサービスを万人に提供したいということだ。これによって、少なくともインターネット上のコミュニケーションにおいては、〈普遍語〉という概念はなくなる。なくならないまでも希薄にはなるだろう。

言語グリッドは言語の壁を低くしてくれる楽しみな技術だ。しかし「ことば」が十全には伝わらないこともまた周知の事実である。普遍語であろうが現地語であろうが、ことばによるコミュニケーションへの不安はまったく別のところにある。

私の専門のひとつにタイポグラフィという分野がある。(デジタルフォントやスクリーン表示用書体も含む広義の)活字でことばを綴るのだが、読みやすさだけを考えるのであれば、書体はせいぜい数十あれば事足りる。しかし、販売されている日本語のデジタルフォントは2000書体以上あり、プロフェッショナルが常時使用しているものだけ数えても100書体はくだらないだろう。なぜか。ことばだけでは伝えきれないからである。だから文字のかたちで表現することを考えるのだ。

使える書体が決まっている電子メールでは絵文字をつかう。記号を駆使する。(笑)とか(涙)とか文末に加えてみる。携帯なら電話すればいいようなものだが、それでもメールを打つ。〈書きことば〉を使う。
そんな「ことば」への信頼と不安は学生作品にも反映される。今年の卒業制作にも「ことば」をあつかった作品がいくつかあった。なかでも印象に残ったのが、特定の小説のことばを考察する《小説のコトバ辞書》である。小説を読んだ感動を伝えたい。それがこの作品のテーマで、川端康成の『山の音』が題材になっている。

小説の感動は作家が用いる「ことば」にある。そして、その「ことば」は、私たちが日常使う以上の意味をもって読者に語りかけてくる。そう考えた作者は、小説に使われた表現の辞書を作成した。辞書は2種類。コンピュータから文字入力するときの変換用辞書と普通の書物型の辞書である。
変換用辞書では普通のことばが作家のことばに変換される。作者の言をかりて説明すると、〈たとえばPC上で「ぷらいど」と打ち、変換キーを押すと「苔むした自己主義の甲羅」と出てくる。それは川端康成がプライドを別のことばで表現したものであり作家の巧みな文章表現、状況表現をたちまち感じることができるようになっている〉。

この作品の本質は何だろうと考えたとき、書きことばに対する愛情と信頼はもちろんだが、ことばによるメタ・コミュニケーションを発見したことの喜びだと思い至った。
「ことば」はただある意味を指しているだけではなく、そのことばを読み解くためのより高次なコミュニケーションを行なっている。その言外のやりとりがなければ、ことばは決して伝わらない。読み手がことばの意味を読み解けないからである。
自分に感動を与えてくれる優れた作家の表現はメタ・コミュニケーションにも長けている。作者はきっとそれを発見したのだ。それは、作家のことばが自分に伝わったという感動であろう。

だから、小説のことばを辞書化した。表現辞書にして何かに役立てようというのではない。役立つとも思っていない。何の役にも立たない辞書をただ黙々と制作した。作業のほとんどは文字入力である。作者は大学生活の最後の1年の多くを文字入力に費やした。できあがったものは、目に見えない入力変換用の辞書と、地味な一冊の本である。
作者は最後のプレゼンテーションで「ケータイ小説の涙は安い」と満面の笑顔で言った。まだまだ「ことば」は健在である。(2009年2月執筆)


追記:10年前からアプローチされていた自動翻訳はすでにAIによって実現しつつある。インターネット上での言葉の壁はそう遠くない未来になくなるだろう。何度かほかのところでも書いたが、この卒業研究制作はぼくを多摩美に引き留めた思い出深い作品である(4年で辞めようと思っていたが、もう在籍12年を過ぎた)。


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