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身体ごとの変容(その1)

 7週間ほどの日本滞在を終えてニューヨークに戻ってきました。

 早速(じゃないですよね〜。ようやく、と言うべきです)続きを書きます。続きというのは、ボゴタではなく、A Course in Miracles の続きということです。

 A Course in Miracles. すなわち大芸術、と前回書いたものについてです。

 ここに世界史を持ち出してくる必要はないのだとは思いますが、今は、ここをきちんと押さえておきたい気分なので、書いておきます。

 世界史は、宗教の歴史と言っても過言ではないでしょう。

 かつては神々と人間の区別はついておらず、段々に分かれてきて、世界中で多様な神を持っていました。そしてその信仰が宗教となり、宗教と国家は同じものでした。つまり宗教は政治でした。

 信仰が政治に利用されたというふうにも言えますね。それは日本でももちろん例外ではなかったわけですが、今日は世界史、ということに焦点を合わせてみます。ヨーロッパでは、政教分離ということが言われ始め、それから宗教改革(“政治に利用されない信仰を!”)が起きたのですが、そんな歴史も今日の焦点ではありません。(第一、世界史についても宗教についても、ごく浅い知識しか持ち合わせていないわたしが、一体ここで何をレクチャーしているのでしょうね〜!ここに書いたのはごく基本的な、中学生、または小学校高学年で習う程度のことですけれども)。

 政教一致で大成功をおさめたのは、なんと言ってもローマカトリックでしょう。数々の戦争と植民地化で、今の世界地図の原型を作りました。
 カトリックの信仰というのは、人間の持つ「原罪」が土台になっています。(日本のことを持ち出さないと言いながらまた蛇足ですが、神道の土台も穢れですよね。穢れていなければ禊ぎは要らないですものね。)

 原罪や穢れがなければ、政治は成り立たないので、政教一致には、どうしても欠かせない概念です。罪意識を利用しなければ、人が人をコントロールすることはできないのですから。(そうではない統治が不可能だと言っているのではありません。そちらをこそ、私たちはやっていこうとしているし、今までも、ある程度はやってきたわけです。)

 教会には、十字架に架けられたイエスが正面にいます。(教会だけじゃありません。各国の美術館―例えばプラド美術館のような大美術館などでは、行けども行けども、血塗られたイエスの絵が続きます。次の間も、次の間も、、、。)
 人間の原罪=殺し、の象徴です。ここから、懺悔し、救いに向けて、心を清めていく、神に赦しを乞い、祈る、というのがキリスト教の信仰だと言ったらあまりにも大雑把すぎて叱られるでしょうか。
 プロテスタントも、カトリックと同様だと思いますが、違うのは、教会の十字架に、イエスがいないことです。プロテスタントでは、イエスが磔にされたことよりも、そこから蘇ったということの方を重要視するので、イエスはもはや十字架の上にはいないわけです。プロテスタントの教会は、装飾を排したシンプルで清々しい空間を創り出していますが、やはりイエスのいない十字架が心に晴れやかに届いてくるように感じます。

 それでも、キリスト教(キリスト教者ではなく、骨子の方のことです)は、イエスを磔にしたユダヤ人が示した原罪を、ゆるしていなかった。だから、600万人のユダヤ人がホロコーストで虐殺された、、、イエスの命と引き換えのように、、、その「ゆるせない」思いは、政治に最大限に利用された、ということになります。
 そのようにして、穢れ、という言葉に置き換えられる「原罪」は、救いを求める信仰の原型になっている、原型にさせられている、捻じ曲げられている、ということだと思います。その原型を引きずっていれば、争いは絶えるはずがありません。

 そこで1965年のイエスの顕れです。A Course in Miracles (ACIM)です。

 イエスは、「ユダヤの民はわたしを殺していない」「彼らに何も罪はない」「事実、わたしは死なず、こうしてここに、あなた方の心にいるのだから」と述べ、磔の意味を完全に覆しました。「読み解き方を間違えるな」「自我の解釈を入れるな」「疑いを携えた伝道は真実を捻じ曲げる」と言ったのです。
 つまり、原罪という意識が織りなすこの世の殺伐とした風景を、平和の光で見ることができる、それには注意深い、一貫した心の訓練が要る、ということを伝えてくれたわけです。

 終わりのない繰り返し(=罪意識と憎しみと報復のパレード)を止めるためには、私たちは、ホロコーストを、アウシュヴィッツを、自分自身が経験した虐待、暴力、いじめ、不平等、差別、その他すべてを、「どこにも罪はなかった」というイエスの原点に立ち戻って、見直さなければならないのですね。

 どうやったらそんな見方ができるのでしょうか? アウシュヴィッツをゆるすとは、いったいどういうことなのでしょうか? “あんなに苦しかった幼少時代”をゆるすとは?

 それはもちろん、「なかったことにする」わけではありません。究極的には「それはなかった」のですが。なぜならそれらはすべて、自分が見ていた夢なのですから。とはいえ、心にある苦しみ、痛みを、直線的に「なかったのだ」と“しようと努力する”ことによって、夢から覚めるのは、不可能でしょう。「なかった!」という突然のひらめきは、啓示を受ける経験なしにはありえないからです。または、奇跡の目撃を積み重ねる(一回でもかなりの変容はありますが、心が完全に開いているのでない限り、一回で疑いを取り消すのは無理です)しかないからです。

 道は逆に進みます。「なぜあんなことが起こったのか」ではなく、「なぜあんなことを自分の人生の現実にしたいのか」「誰がそうしたがっているのか」と問うべきで、そのように問うことは、「訓練されていない心にはできない」とイエスは言うのです。そして、確かにそうだ、と言う実感を、私たちはすぐにも得るわけです。

 ホロコーストはでっちあげだ、と主張する人は少なからずいて、また、反ユダヤも絶えません。それとはまったく別のレベルで、ホロコーストはなかった、あれは自分の自我の夢だった、そして自分はその夢から覚めることができるのだ、と悟ること。そして目覚めの風景を一瞬でも見ること。それがACIMです。
 
 原罪はなかった。今もないし、未来永劫、ない。
 穢れはなかった。今もないし、未来永劫、ない。
 だから安心して、自らの過ち(勘違い、思い込み、無知)を訂正しなさい。

 ACIMは大芸術だと前回書いたけれども、ACIMは人生の大転換だとも言えます。その転換は、アタマの中で起こるものではなく、五感の表面を滑るものでもなく、身体(自分の身体、誰かの身体)が完全に変容する経験を通して起こるもの。それこそが、自分で経験しないとわからないもの。

 身体を、今までと同じものに保ったまま、同じところに置いたまま、別の場所で目覚めようとする努力は徒労に終わります。身体がなければ夢は成立しないのですから、夢から覚めるには、身体ごと目覚めなければなりません。今までの身体こそが(アウシュヴィッツではなく)なくならなければなりません。それは、楽ではないというか、今いる場所に切り傷を入れて(窓を開けて、という表現の方が優しいですが)そこから外に出る、なんというか、ぐいっと気合いもいるような経験なのです。


 


 


 

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